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エメラルドグリーンが色鮮やかなベンチが並ぶ2階の談話室は、大勢の患者と見舞いに来た家族で溢れ返っている。消毒液が強く香る空間に、短く炸裂した音と共に苦いカフェインが混じった。缶コーヒーを喉の奥に流し込んだ葛城は、半分ほど残して前屈みになる。前のベンチに並んで座った露木と岡村は同じジャスミンティーを自動販売機で購入していた。
「あの、先輩。一条先輩とお母さんの間に何があったんですか。」
岡村の唇からジャスミンティーの香りが漏れる。その爽やかな茶葉とは裏腹に言葉は重く、泥のように沈んでいく。それを視線で掬い上げた葛城はため息をついた。
「俺はあいつから直接聞いたけど、これが確執の全てではないからな。それだけは分かってくれ。」
確執という言葉が鉛のように重く伸し掛かる。彼は缶コーヒーの表面をゆっくりと撫で回しながら続けた。
「景の両親はあいつが小学校1年生の時に離婚している。原因は父親のギャンブルと飲酒らしい。毎日のように飲んだくれては香織さんに暴力を振るっていて、それに耐え切れず離婚せざるをえなかった。ただ問題はそこからだ。今度は香織さんが景に暴力を振るうようになったんだ。」
「DV、ですか。」
「ああ。いくら酒とギャンブルに溺れていたとはいえ、家庭の収入源は父親だった。だから離婚してからは住んでいたマンションを退去して、団地に住むようになった。その頃からだ、あいつが貧乏だと自分を卑下するようになったのは。」
その言葉を聞いて露木はあることを思い出した。ファイルの中にある大量の資料を漁るように彼女は口を挟む。
「それが原因でいじめられたんですか?」
「おお、知ってんのか。片親であることもそうだけど、ろくに服も買い与えられなかったらしい。それが原因でいじめを受けたって言ってたな。」
ジャスミンティーを片手に持ったまま、露木は自分のワイシャツの襟の裏にかかるネックレスを掌に乗せた。貧乏だったことが原因でいじめを受け、それを守ってくれていた近所の男性から譲り受けたという十字架のネックレス。それを簡単に受け取ってしまっていいのかと、彼女は今になって不安になった。
缶コーヒーで喉を鳴らし、彼は自分のことのように悲しげな表情を浮かべる。
「そしてあいつは、あんたは望んで産んだ子じゃない、手違いで出来たんだって言葉が忘れられずに香織さんを嫌うようになった。それを聞いて俺は何度か2人の間に入ろうとしたけど、結局親子仲が修復されることはなかった。香織さんは夜の仕事も始めて、その関係で酒とタバコと、お客さんから教えてもらったっていうパチンコにハマった。離婚した父親と全く一緒だよな。それも相まって景は余計に嫌うようになって、実の母親だとは思ってないって言ってたよ。」
鋭いカフェインの香りが3人の間に漂う。この匂いだけが本当で、それ以外の出来事は全て偽りなのではないかと思ってしまうほど、露木は今の状況を信じられずにいた。葛城も同じ思いなのか、再び深いため息をついてから続ける。
「だいぶ、体を痛めていたんだと思う。同じ団地で暮らしているとはいえ景の生活費はあいつ自身が稼いでいたし、干渉し合わない親子だったからな。あいつも気付かなかったんだろう。」
「あ、あの。」
絞り出すように露木は口を開く。その他の患者たちの話し声が遠くの方に聞こえていた。
「この後、どうなるんでしょうか。」
「さぁな。正直分からない。もしかしたら景はこのままお見舞いに来ない可能性だってある。だからどうにかしてあいつを説得するしかないな。」
「でもさすがに、お母さんの容態が悪化したら来ると思いますけど…どうなんでしょう。」
岡村は不思議そうにそう言ったものの、缶コーヒーを飲み干した彼は首を横に振った。眉間に皺を寄せて何度目か分からないため息をつく。ゴミ箱に空いた缶を滑り込ませると、まるで谷底から誰かが短い悲鳴をあげたような音が鳴った。
「あの2人はそう簡単じゃない。そう簡単に壊れないし、そう簡単に治らないから家族なんだよ。きっとな。」
そう言い残して彼は談話室から出て行く。ベンチに残された2人は言葉を交わす気になれず、ただ黙り込んでいた。やがてどちらかがジャスミンティーを飲み干したのを合図に、薬品の匂いがきつく香る廊下へ戻る。露木は最後に一条香織に挨拶をしようかと考えていたが、すぐに思い直して病院を後にした。
彼女が心待ちにしていた3月9日は嵐のように様々なものを巻き込んで去っていった。しかし彼女たちの胸の中が晴れることはなかった。
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