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染井吉野はすっかり禿げて、次の春に向けて緑を蓄えている。橙のレースカーテンが校舎を包み込んで窓から漏れていた。その光は温い粘液が手となって顔を揉んでくれるようだった。眠気を誘われてあくびを噛み殺した露木は名前を呼ばれてふと顔を上げる。
「じゃあ、露木さん。1年生の案内はよろしくね。」
福祉委員長の女子生徒を見て辿々しく頷く。それを合図に委員会は終了し、徐々に生徒たちが教室を出て行く。ぞろぞろと彼女の座る机の周りに集まってきた1年生の間から岡村が顔を覗かせた。
「私先帰るね。」
「うん。また明日。」
少し髪が伸びた彼女は、鎖骨にかかる黒髪を振って去っていく。1年生と露木を残して空っぽになった教室の中で彼女は立ち上がり、学生鞄を肩にかけて扉の方へと向かいながら言った。
「福祉委員の活動はそんなに難しいものじゃないから安心してね。じゃあ行こっか。」
男女合わせて7人を引き連れて廊下に出る。3階から1階へ降りていく最中、吹奏楽部の拙い音色が響き渡っていた。
下駄箱の前を右に曲がってピアノ線の様に張り詰めた職員室前を歩いていく。1年生は初めて訪れた場所の様に、辺りを見渡していた。やがて彼女は職員室の壁に沿って並ぶ長机の前に立った。
「とりあえず委員会が終わった後、1年生はここのエコキャップを回収して、ゴミ捨て場の近くに置いてある緑色の箱に持って行ってね。中身は全部京本先生が業者さんと話して回収してもらうから。」
疎らな返事を受けて、来た道を引き返す。そのまま下駄箱の前をすり抜けて彼女を含めた8人は六石棟へ向かった。短い廊下を抜けて武芸室へと歩いていく。その前で角を左に曲がり、露木は資料準備室の扉を開けた。
夕暮れが差す部屋の中、鈍色の棚が規則的に並ぶ。露木はその部屋の右奥を指差して言った。
「委員会で使う資料はあそこのダンボールにあるから、京本先生に言われたらそこから持ってきてね。」
再び疎らな返事が届く。頭の中で情報を整理しながら彼女は最後に付け加えた。
「まぁ校内での基本的な活動は以上になるかな。後は夏休み前に篠崎駅前で募金活動したり、学園祭では武芸室を貸し切って出し物をしたりするけど。そういうのは私たち2年生に任せてくれればいいから。だから分からないことがあったら何でも聞いてね。」
そう言って露木は7人を引き連れて来た道を戻る。家庭科室がすぐ近くに見えた時、彼女の背後から声がかかった。
「あの、露木先輩。」
「ん?なあに?」
未だにその呼ばれ方に慣れておらず、わざとらしいほど優しい口調で答える。髪を後ろで結んだ女子生徒は新調したばかりの制服に身を包んでいた。
「学園祭での出し物って、去年は何をやったんですか?」
「去年は茶道部と合同だったんだよね。お茶菓子を売って茶道室に誘導するっていうの。でもその時、京本先生が演劇部の舞台に出ないといけないから黒いコートにハットを被ってて、むしろそっちの方に人気が集まってたよ。」
「えー、意外。」
まだ京本先生と関係性の薄い1年生たちは驚きの声をあげる。次に声をかけてきたのは坊主頭に毛が生えたような、細身の男子生徒だった。
「露木先輩。クラスの出し物よりもこっちの方を優先した方がいいんですか?」
「ううん。そんなことないよ。もしクラスの方で人手が足りなかったらそっちを優先してほしいし。無理にずっと出てろってわけじゃないから。」
「あ、あともう一ついいですか。募金活動って僕ら全員でやるんですか。」
「いや、その前にグループ分けするの。それで月水金の放課後に駅前に立ってもらうって感じ。でも優しい先輩とかはその後にカフェ連れて行ってくれたりするから、そんなに面倒くさいってわけじゃないね。」
「えーすげー!露木先輩は奢ってくれますか?」
「うーん、じゃあ奢っちゃおうかな?」
7人の方を振り向いてそう言うと、1年生たちは楽しげに歓声をあげた。そのまま下駄箱まで辿り着いて各々散らばっていく。先に質問を投げかけてきた女子生徒が下駄箱の前に立つ露木を見て、不思議そうに言った。
「先輩はまだ帰らないんですか?」
「うん、ちょっと教室に用があって。」
「そうなんですか。じゃあ私たち先帰りますね。」
さようならと次々に言って1年生たちは禿げた染井吉野へと歩いていく。下駄箱の前で手を振っていた露木は、7人の姿が見えなくなったのを確認してから、その足で六石棟へ向かった。
ガラスのように反射する床をきつく磨いているような音が響く中、脇目も振らず資料準備室に向かう。その間に彼女は携帯を取り出してLINEを立ち上げた。彼からの返事はまだない。
薄い無機質な扉を開け、棚の間に入る。彼が座っていたマットの上に腰掛ける。わざわざ彼女が1人で資料準備室に来た理由はただ一つだった。
携帯のカレンダーを起動する。今日の日付が赤い枠に囲まれており、その真ん中には記念日と書かれている。交際が始まった日ではなく、2人が初めて出会って1年が経過した。そのため彼女はわざわざ資料準備室を訪れていた。
葛城曰く一条はあれから一度も病室には訪れていない。担当医の田淵とは治療費のことで話し合うことはあっても、3月9日以降彼は母の顔を見ていないらしく、やがてそのまま彼は学生用マンションへ引越した。まだ露木はそのマンションを訪れてはいないものの、彼は自炊を始めて充実した一人暮らしを送っている印象だった。
しかし露木は分かっていた。
放課後に何度かデートを重ね、様々な場所に行った。彼はより明るい茶色を入れて大学生活を送っている。そんな一条を隣で見つめていて、露木は何度も彼の瞳にグレーのシャッターが降りているのを知っていた。ふとした時に全ての情報を遮断してしまうような、体の中に詰まった感情をどこかに置いてきてしまったような、彼はそんな虚ろな表情を浮かべる瞬間が多かった。だからこそ露木は何も聞けずにいた。
彼女は迷っていた。
それは一条への接し方ではなく、自分がどういう感情なのかが分からなかったからだった。
何を思っているのか、何を言いたいのか、3月9日から巻き起こり始めた感情の嵐の中で自分を見つけることができず、露木はそれを誤魔化すように日々を過ごしていた。迷っている自分に悩む自分を見ないようにする生活。それは着々と露木を蝕んでいった。
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