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綿菓子のように柔らかなバスタオルで体中の水分を拭き取り、夜用の下着を身につけてから寝巻きに着替えていく。濡れて束になった海藻のような髪を掻き混ぜながらリビングへ向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターが入ったペットボトルを取り出し、いつの間にか乾いた喉の奥へ冷えた水を流し込んでいく。
「あんた、どうしたの。」
リビングから母の声がして、露木は咄嗟にその方を見た。椅子に腰掛けて真奈美は何かメモ帳に記入している。
「何?お母さん。」
「いや、さっきから何回もため息ついてるし。何かあったのかなって。」
無いならいいんだけど、と付け加えてペンを走らせる。露木は母を見てもう一度ため息をついた。そのままキッチンを抜けて向かい合うように腰掛ける。母は彼女の着席と同じタイミングでメモ帳を閉じると、前に座った風呂上がりの娘を見た。
何も言うことはなく、ただ視線が絡まる。母は昔からこうだったと露木は思い出していた。決して母から根掘り葉掘り聞くのではなく、自分の口からその悩みを話すまで待ってくれる。過去にも梅雨ちゃんと呼ばれて悩んでいた露木は、何も言わない母の前でしばらく黙り込んでから、声をあげて泣いたことがあった。
喉に付着したミネラルウォーターの水滴をごくりと飲み干し、露木は一度座り直してから言った。
「その、色々なことが起きすぎて、自分が何に対して悩んでるのかが分からないんだ。」
真奈美は黙り込んだまま、娘を見ている。リビングの壁にかかった時計が世界中共通の時間を刻んでいた。
「一度に色々伸し掛かってきちゃって、どれから対処していけばいいのか迷っている間にその他にも、って感じで。どれから手をつければいいのかなって。」
「そう、なるほどね…。」
ふと呟いて真奈美は立ち上がる。キッチンに回って冷蔵庫から背の低い缶ビールを取り出すと、席に戻って深く腰掛けた。プルトップを開けると炭酸の弾ける音が鳴った。一口で半分まで飲み干すと、深い息を吐いて母は言う。
「じゃあさ、明日世界が終わるってなったらどうする?」
「え?」
「その名の通り。明日の24時に世界が滅亡しちゃうの。そうなったら自然と人はやることを見つけるじゃない?最後にあれを食べたい、最後あの人に会いに行きたい。だから何をしたらいいか分からなくなっちゃったら、世界の滅亡を想像するのよ。優先順位は自然と見つかるはず。それにね、萌華。」
缶ビールを喉の奥へ流し込み、深い息を吐く。彼女は両腕をテーブルの上に乗せると真剣な面持ちになった。
「この世界は一方通行なの。ゲームみたいにあの時の選択が間違ってたからやり直すなんて出来ない。その時の返答次第で未来はいくらでも変わる。あの時イエスって言わなかったら、あの時のノーと言ったから、そうやって簡単に関係は始まらない未来に向かうの。だってお母さんがお父さんからのプロポーズを断ってたら、萌華は産まれてすらいないんだから。だから、その時その時の判断で結果が変わってくるんだから、後悔したくない方を選ぶの。人間は器用じゃないんだもん。間違ってる選択だって途中で気付いても進まなきゃいけないんだから。」
そう言ってから、お風呂入らないと、と付け加えて真奈美は缶ビールを飲み干して立ち上がる。
廊下とリビングを隔てる薄い扉の向こうからシャワーの音が鳴り始めるまで露木はテーブルの上を眺めながら考えていた。
もしあの時一条から「教育してやるよ」との言葉に承諾していたら、関係性はまるで変わっていたのだろう。ただのセックスフレンドになっていたかもしれない。クリスマスに2人で過ごす喜びを得ることも、彼の悲しみに葛藤することもなかった。一度の否定でこんなにも様々な出来事が待っていた。
そして彼女は世界の滅亡を想像した。めらめらと火を吹く隕石が衝突する、鈍色に畝る蛸のような異星人が攻めてくる。どちらにせよ明日人類が滅んでしまうのだとしたら自分はどうするのか。頭の中で高層ビルが燃え盛り、黒煙に塗れて崩れていく国会議事堂の映像が浮かび上がる中でふわりと浮かんできたのは一条の姿だった。
焦ったように立ち上がって部屋に戻る。決意してしまえば行動は早かった。彼女はどうにかして一条香織を説得しようと、出たばかりの数学の宿題など忘れて予行練習を始めた。
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