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船堀駅を降りて携帯の画面に浮かび上がる地図を頼りに、江戸川総合病院へ辿り着く。ガラス張りの自動ドアをくぐって広々としたロビーには、3月9日よりも大勢の人々がいた。日曜日の昼下がりということもあってか、受付前のベンチは1人の隙間もなかった。ライトに照らされた壁や床は撮影スタジオのように眩しい。 一歩踏み出す度に緊張がセメントのように足首から湧き上がる。そのまま全身を巡っていずれは硬直してしまうほど、清潔な病院の中で泥の人形が出来上がってしまうほど彼女は緊張感に包まれていた。 葛城曰く一条香織は抗がん剤治療の最中で、面会の時間も決められているらしい。受付で名前を告げて許可を得た露木はその場で消毒液を掌に馴染ませてから4階に上がった。 薬品が鼻腔へ突き刺さる。慣れない病院の香りは一瞬で露木を不安にさせた。清潔感のある大きな白い箱の中で、毎日のよう誰か弱って、誰かが治る。そして誰かが死んでいく。それを暗示するような雰囲気が気持ち悪く感じてしまった。安心よりも不安が勝ってしまい、奥の病室へ向かう足が一歩ずつ遅くなっていく。今更ながら引き返そうかと動きを止めた彼女の背後に声がかかった。 「萌華ちゃん、どうしたのこんなところで。」 咄嗟に振り返るとオーバーサイズの黒いパーカーを着た白河が、不思議そうな表情を浮かべて立っていた。 「え、白河くんこそ。なんでここに?」 「お見舞いだよ。おばあちゃんが尿管結石で入院してるんだ。萌香ちゃんもご家族が?」 そう言われて一瞬彼女は迷ってしまったが、すぐに思い直して首を横に振った。彼に近づいて事情を話す。卒業式の日に緊急搬送されたこと、そして明らかになった家庭内暴力などの確執。 やがて白河は自分のことのように悩ましい表情を浮かべた。 「なるほどね。じゃあ一条先輩、それから来てないんだ。」 「うん…だから私が説得しないとと思って。だけどすごい緊張しちゃってさ…。」 わざとらしく露木は薄い黄色のニットシャツの胸元を押さえた。大袈裟に息を吐いて彼に背を向けようとする。 すると白河は彼女の肩に手を置いて、先を歩き始めた。 「じゃあ僕が間に入ってあげるよ。」 「え?いいの?」 「うん。ちょうどおばあちゃんのお見舞い終わったし。それに第三者がいた方が話しやすいでしょ。」 病室どこなの?と呟きながら彼は先を行く。その後ろ姿が頼もしく見えたのと同時に、もう卑怯な彼はどこにもいないのだと、どこか安心していた。 『一条香織』と書かれたネームプレートが下がる病室の前に立つ。ごくりと唾を飲み込んでスライド式の扉を、ゆっくりと数回叩いた。 返事はない。細長い銀のドアノブに手をかけ、ゆっくりと左に動かす。するりと開いた病室の向こうはひどく静かだった。1階のロビーとは違って誰1人としてそこにはいないと思うほど、騒がしい静けさに満ちている。まるで耳栓をしているようだった。短い廊下に足を向けてカーペットを踏みしめる。レースカーテンに覆われた窓からは白い光が差していて、一条香織が横になっているベッドを柔らかく照らしている。その前に辿り着いて彼女は深呼吸をした。 上体を起こし、清流にブルーベリーを垂らして混ぜたような入院着に身を包んだ一条香織は、2人に気が付くとゆっくりと眉をしかめた。 「何、あんた達。」 一条の母の顔を見て、露木は彼の面影を重ねた。どことなく目元が似ており、彼と同じで細身だった。しかしそれは肺がんのせいかもしれないと、彼女は思い直した。 アーモンドのように鋭さもある目、低い鼻筋に薄い唇。しかし肌に艶や張りはなく、色褪せた古い住宅の壁のようだった。抗がん剤治療の影響なのか肩まで伸びる黒髪はまばらで、その少ない本数の中には白髪も見られる。彼女の年齢を知らない露木だったが、70代にも見える老けた面持ちだった。 「あの、私、一条先輩とお付き合いしている、露木萌華と、言います。」 「ああそう。」 まるで彼女の勇気を蔑ろにするように香織は呟く。呆気に取られた露木だったが、すぐに思い改めて続けた。 「えっと、その、景さんと何があったんですか。」 あまりにも直球な問いかけであったため、隣に立つ白河は驚いた表情を浮かべた。香織も同じく驚いているのか目を見開いて露木を見る。彼女は緊張で声が震えていた。 「私、まだ景さんとは、長いお付き合いでは、ないですけど…その、仲良く、して欲しいんです。突然わがまま言ってすいません…でも、本当は景さんの事、好きなんじゃ…」 「邪魔だから帰って。」 ぴしゃりと吐き捨てて香織はカーテンがかかった窓を眺める。春が終わって夏へとゆっくりと移りゆく5月の空は、温い空気に包まれていた。 「で、でも…」 「でもじゃない。部外者が口挟まないで。」 その言葉が強く胸に突き刺さり、思わず露木はたじろぐ。その空気をすぐに察したのか白河は彼女のニットシャツの裾を握って引き寄せた。 「じゃあ、僕らはこれで失礼します。また来ますね。」 彼の言葉にも返すことなく、一条香織はそっぽを向く。まるで全ての情報を遮断するようだった。 彼に連れられて病室から出た露木は、廊下に溢れる薬品の匂いを上書きするように深いため息をつく。数日間蓄えていた勇気と緊張がものの数十秒で打ち砕かれてしまい、分かりやすく項垂れてしまう。すると白河は彼女の前で両手を叩きながら言った。 「ほら、1回負けたくらいで諦めないよ。」 「でもさ…部外者なんだもん…」 「そんなこと言ったら世の中全員部外者じゃん。どんな敵もたった一発で倒せたら苦労しないよ。それに僕ならいくらでも付き合うから。」 そう言って彼はエスカレーターの方に向かっていく。露木は白に近い金髪が揺れる背中を追いかけながら声をかけた。 「なんでそんなに付き合ってくれるの。」 「そりゃだって、一度好きになった人のためだもん。僕意外と尽くすタイプなんですよ。ええ。」 「そんなイメージはないけど。」 「僕もそう思うけどね。でもさ、僕を振ったんなら僕より幸せになってもらわないと嫌なわけ。なんか嫌でしょ。僕と付き合ってたら絶対幸せになってたじゃんって思うの。」 「まぁそれはそうだけど…」 「それにさ。僕は嘘つきだったから。今度は本音で萌華ちゃんと向き合いたいんだ。」 彼女はエスカレーターに乗って先に降りていく彼の背中が、どこか成長したように見えた。それは背が高くなったわけではなく、誰かを守るために見せるような後ろ姿だった。 失くしたばかりの勇気が少しだけ戻り、露木は胸を張った。
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