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「え。じゃあ僕と一緒にいること、一条先輩には言ってないの?」
「うん、やっぱりお見舞いに関することは言い出し辛いというか。」
船堀駅から出て病院に向かう道中、ベージュのセーターを着た白河は驚いた表情を浮かべている。段々と気温が上がっているためか、袖をまくって細い腕を伸ばしていた。
露木はブレザーのポケットから携帯を取り出すとLINEを立ち上げた。一条とのトークを開き、親指で過去の会話をスクロールしていく。日常会話はあるものの、お互いが腫れ物を扱うように一条香織に関する内容は無かった。それを見返しながら、赤信号の前で彼女は唇を尖らせていた。
「まぁそれはいいとして…問題はどうしてあんなにも一条先輩を、実の息子を嫌うかだよね。」
彼の言葉を聞いて露木は一条親子の話を思い出していた。一方的に彼を突き放し、さらにはドメスティックバイオレンス、望んで産んだ子ではないと吐き捨てる。ただ単純に子供を毛嫌いしているという理由なのだろうかと彼女は考えていた。
「気が合わないとか、何度かの喧嘩でこうなったとは考えられないよね。私今までデートしててそんな話聞かなかったし。だいぶお互いが溜め込んでいたのかな。」
信号が青に変わり、2人はゆっくりと病院へと歩き出す。道の先に建つ白い建物は生と死の禍々しいオーラを清潔さで誤魔化しているようだった。5月の柔らかな日差しを含んで外壁は輝いている。
それをぼんやりと眺めながら白河は呟いた。
「でも家族って、割とひどい関係性だよね。」
白に近い金髪は日差しをすり抜けて、微かな風に揺れる。不思議そうな表情で彼は続けた。
「だって僕らは好きな人や友達を選べるでしょう。この人と仲良くなりたい、この人と付き合いたい。結果的に恋人にはなれなくて友達になるケースだってあるけれど、家族って最初から決まってるじゃん。生まれた時からこの人が親で、この人が兄弟で、さらには簡単に関係を絶つことはできない。どんなに嫌いでも、どんなに性格が合わなくても、何があっても親子なんだよね。」
頭の中に浮かんだのは、昨年の夏に聞いた人間関係の図だった。自分という枝がどちらに倒れるのか。しかし家族という関係は既に枝がある場所に倒れているのだ。予め決まっていた関係性。まるで生まれる前に行われるくじで決まっているようであった。
彼の言葉がどこか引っ掛かったまま、2人は江戸川総合病院の自動ドアをくぐった。ひんやりとした風が中から吹いて、無機質な香りが漂う。受付で名前を告げ、エスカレーターで4階に上がっていく。露木はこのフロアに漂う薬品の匂いにようやく慣れ始めていた。夏場のプール開きで匂うような塩素に似た香り。それを鼻先で裂くようにして病室の前に向かう。少しばかりの緊張を手に持って、彼女は扉の表面をノックした。
相も変わらず返事は無いまま、ゆっくりと扉を開ける。絨毯を踏んで白いベッドの前に向かう。一条香織は数日前と変わらずに上体を起こしたまま、レースカーテンで閉められた窓を眺めている。露木はすぐに折れてはならないと思い直して、恐る恐る声をかけた。
「こんにちは。容態はどうですか。」
ちらりと視線だけを2人に向けると、すぐに窓へと戻してから、香織は深いため息をつく。
「いいお天気ですね。外出はまだ難しいんですか?」
「出来るわよ、しないだけで。」
「そうなんですか。じゃあ私が車椅子押すんで、外出許可取りませんか?」
「しない。早く帰ってちょうだい。」
全てをどこかへ押してしまうブルドーザーのようだった。たった一言で相手の言葉を遠ざけてしまう。しかし露木は尻込みせずに、話題を切り替えることにした。
「あの、景さんって昔はどんなお子さんだったんですか?」
露木のその一言に香織は微かな反応を見せた。わずかに白髪を含む細い眉が動き、ゆっくりと露木の方へ顔を向ける。彼女は先程よりも低く掠れた声で言った。
「それを知って、どうするの。」
「どうするって言われると、正直分からないです。でも知りたいんです。私の好きな人は幼い頃こうだった、こんなにも可愛らしかった、図々しいかもしれないですけど、気になっちゃうんです。」
静かに唾を飲み込む。すると香織は一度目を瞑ると、ゆっくりと息を吸った。様々な言葉や感情をぐっと押し殺しているようである。
ふーっと長く息を吐いてベッドに視線を落とす。シーツのシワを強く握って彼女は静かに答えた。
「一度も可愛いなんて思ったことはないわよ。あの子はいつもうるさくて、私の気持ちなんて考えていなくて、どこに行っても私に迷惑かけてばかり。生まれてきてあの子のことを一度も可愛いなんて思ったことはない。」
弱々しい声色であったものの、言葉の圧力は強いままだった。しかしその時に露木は妙な感覚を覚えた。
「遊園地に行ったときだって、いつも、泣いていたし。動物園に行ったときだってあちこち、歩き回っていたし。追いかける私の、苦労も知らないで、そうやって、いつも自由奔放で、いつもニコニコしていて、それが本当に嫌だった。そのくせ、何かあるとすぐに泣きついて、いつも私を困らせて、だから、もう、関わりたくないの。これでいいかしら?」
「でも、私は」
「いいから、早く帰って。」
そう言い放つと彼女はゆっくりとベッドに沈んでいった。もぞもぞと動いて、シーツを深く被ってしまう。これ以上の会話は望めないと判断した露木は頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。でも、また聞きたいです。」
返事を待つことなく露木は身を翻して病室を出て行く。その後を追ってきた白河は、ゆっくりと扉を閉めてから低い声で言った。
「萌華ちゃん、よくあそこまでいけるね。僕もうヒヤヒヤしちゃったよ。ていうか僕の存在いる?すごく空気だったんだけど。」
「いるよ。白河くんがいないと、緊張に呑まれちゃってた。」
露木は壁に背中をつけて、深くため息をつく。一条香織が入院している病室の扉を眺めながら彼女は不思議そうに呟いた。
「生まれた時から嫌いって、絶対嘘だよね。」
「まぁ確かにね。」
「初めから一条先輩に暴力を振るっていたなら分かるけど、香織さんが一条先輩への家庭内暴力を始めたのは離婚後からだし、もしその前から嫌っていたとしても、あそこまで一条先輩との思い出が出てくるものかな。」
「僕も同意見。多分だけど、香織さんはものすごく強がっているよね。」
「うん。何を隠しているんだろう。」
「後さ、やっぱり一条先輩にも聞いた方がいいと思うんだ。」
ふと白河を見て、露木は何も返す言葉が見つからずに黙り込んでしまった。
「聞き辛いかもしれないけど、でも2人が仲直りするためには必要な話し合いだと思う。香織さんってもう末期なんでしょ。正直言うと、もう時間が無いと思うんだよね。多分このままだとすれ違ったまま終わっちゃうんじゃないかな。」
依然として薬品の匂いが辺りを支配し続けている。こびりついているような空気に馴染ませるように、白河は続けた。
「どんなに思いを伝えても、その人が死んじゃったら確実に後悔が残る。だからさ、もしこのまま終わっちゃったら、一条先輩は絶対に後悔するじゃん。伝えたかったけど伝えられなかった言葉でぐしゃぐしゃになって、押し潰されちゃうと思う。絶対にどちらかが揺らげばお互い腹を割って話し合えるはずだ。だったら尚更一条先輩にも掛け合ったほうがいい。」
ぐるぐると彼女の胸の中で感情が混ざる。それを誤魔化すように露木はポケットから携帯を取り出すと、LINEを立ち上げて彼とのトークを開く。今週の土曜日に彼とのデートを取り付ける会話が画面に広がっていた。
強がっているように見える一条香織、一切母のことについて話すことはない一条景、同極の磁石をぴったりと引き寄せるには半ば強引な力が必要となってくる。
彼との会話をスクロールしながら、露木は深呼吸を繰り返した。
「うん。そうだね、分かった。直接聞いてみる。嫌われる勇気を持って話してみるよ。」
「大丈夫でしょ。萌華ちゃんは嫌われないよ。まぁ僕はダメだけどね。」
その場からゆっくりと離れ、2人はエスカレーターへと向かっていく。ばたばたと慌ただしく廊下を駆け抜けていく看護婦を眺めて彼女はふと呟く。
「白河くんがここにいたの、ナースとお近づきになりたいからかと思った。」
「嘘でしょ、そんなに信用無い?無いか。」
「だってそういうの好きでしょ?男子って。」
「いやまぁ好きだけどさ、ナースと近付きたくて病院に足繁く通う人いないよ。」
「いつかやりそうだけどね。」
「それは分かる。ん?あれ、先輩じゃん。」
ふと顔を上げた視線の先、慌ただしく行き交う看護婦たちを潜り抜けて、葛城は大きなボストンバッグを抱きかかえ、肩から学生鞄をかけて歩いていた。千鳥足でふらつきながら廊下を進む彼の前で露木は恐る恐る声をかけた。
「あの、葛城先輩?」
「ん?おお、どうもどうも。」
今にも裂けてしまいそうなボストンバッグは、中途半端にファスナーが開いている。そこから飛び出していたのは黒い服の袖だった。
「何ですか、その大荷物。」
よいしょと呟いて荷物を抱きかかえる。その重さに耐えながら彼は苦しそうに言う。
「一条家から持ってきた香織さんの荷物。どれ持っていけばいいか分からなかったからさ、とりあえずあるだけ持ってきたんだ。」
「大変ですね…手伝いましょうか?」
「いやいや、大丈夫よ!いらない荷物があったら家に帰さないといけないしさ。」
そう言って彼はゆっくりと歩き出す。その時彼が抱えていたボストンバッグのファスナーの隙間から、黒い影が飛び出した。薄いベージュの床に小さな音を立てて落ちる。
古びた手帳のようだった。
表紙は所々剥げており、カビが付着しているようにも見える。普段は手にすることもないものだが、すぐさま拾い上げて葛城の後を追いかけようとした。
「萌華ちゃん、待って。」
白河に呼び止められて彼女は動きを止める。ゆっくりと屈んで露木の足元に手を伸ばす。
「これ手帳から落ちたんだけど、写真だよね。」
黄ばんでいる紙はくたびれて、がくりと項垂れているように見えた。
「何の写真だろう。」
そう呟いて黄ばんだ紙を翻す。そこに写っていたのはある男女だった。数十年前に撮られたであろう写真の真ん中、その女性を見て露木は確信した。
一条香織はしなやかな黒髪を腰まで伸ばし、花柄のワンピースに身を包んでピースサインを向けている。20代中頃だろう、病室で見た表情よりも張りと艶があった。しかし白河は一条香織ではなく、その隣の男性に目を向けていた。
「萌香ちゃん、この人…一条先輩にそっくりだね。」
彼の言う通り、若い一条香織の隣に立つ男性は一条景をそのまま合成したかのようだった。細い体も目の大きさも、写った柔らかな笑顔も、何もかもが瓜二つである。思わず2人は目を見合わせて固まってしまった。
子が親に似ているのは必然である。しかしそのまま一条景を持ってきたのではないかと疑ってしまうほど似ているという点、そして露木は彼とそっくりな名前も知らない一条景の父親が、家庭内暴力を行っていたことが信じられなかった。
壁に染み付くほど充満していた薬品の匂いなど気にならないほど、露木は複雑な気持ちだった。
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