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5月の中途半端な空気が人混みの間を抜けていく。池袋駅東口は人の熱気に揉まれて、まるで流れの速い川の中を小石が駆け巡るように姿を変えて、徐々に暖かくなっていく。人間はその中を泳ぐ群れた魚のようだった。
しばらく遊泳していた2人は夕暮れ時であるため、駅の構内に滑り込んだ。一条は数十分前に見終わった映画の感想を嬉しそうに語っている。
「あそこで桜木が浅田を助けるために乗り込んでくるとはなぁ。やっぱりああいう展開アツいよな。」
「やっぱり先輩ってああいう不良映画みたいなの好きなんですね。」
「何だよやっぱりって。あれは男が燃えるやつだろ。」
いけふくろうと呼ばれる石像の前を通り抜けて、帰宅を急ぐサラリーマンの流れに身を任せていく。金曜日の放課後は毎週のように2人はデートしていた。露木は制服だが一条はグレーのパーカーに水縹色のダメージジーンズを履いている。露木は平面に展開する書店を横目に何気なく呟いた。
「先輩って金曜日は授業パンパンなんですか?」
「いいや、3限が空きコマ。だから友達とラーメン食いに行ってって感じかな。」
大学1年生の彼が少し大人に見え、隣を歩く彼女はどこか誇らしく思えた。思わず微笑んでいたのを見つかって露木は視線を逸らす。しかし一条は彼女の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて続けた。
「萌華も気を付けろよ。単位目当てにめちゃくちゃ詰め込むと後悔するからな。後は1限はいれない方がいい。朝9時半とか地獄だから。」
「でも高校は朝8時半からですし、余裕じゃないですか?」
「いやいや、それがそうもいかねぇのよ。急に無理になるから。これは大学生にならないと分からないな。」
「うわ、なんですか。マウントですか。」
「おうよ、マウントだよ。押し潰してやろうか。」
人混みを抜けてデパート前に出る。電波のように入り乱れる人々の向こうにある丸ノ内線の改札前に辿り着いて、一条は鼻から息を抜いて肩を落とした。
「えっと、次会えるのは来週の土曜日かな。」
ブレザーのポケットから携帯を抜いて露木はカレンダーを起動する。ずらりと並んだ日程表の途中で、一条用に赤い枠が日にちを覆っていた。
「そうですね。来週の土曜日です。」
「そっか。じゃあそれまで会えねーのかぁ。」
唇を尖らせて寂しがる彼はデート終わりの恒例であった。孤独を噛み締めるように、次に出てくる言葉をごくりと飲み込んでいる。いつもであれば露木が宥めるように答えるのだが、彼女はそれを振り払うように首を横に振った。
数日前に病院で決意した思いを反芻する。雑巾を絞るように、きつく狭めた喉から言葉を生んだ。
「じゃあ先輩、お母さんのお見舞いに行きましょうよ。」
騒がしい人々の声や足音、それに掻き消されていくような彼女の言葉は確かに一条に届いて、やがて彼の表情は徐々に元に戻っていった。疲れたように小さくため息をついて一条は答えた。
「その言い方だと、行ってるのか。」
「はい。これはたまたまですけど、白河くんのおばあちゃんが同じく入院しているらしくて、何度か2人でお見舞いに行ってます。」
「そっか。まぁ、別に白河がいるのはいいけどよ。」
そう言ってより明るくなった茶髪を掻く。それまでは楽しそうにしていた彼だったが、既に数回ため息をついている。
「先輩、私も一緒に行きますから。もしかしたら恨んでいるのかもしれないですけど、一緒に話聞きますよ。」
「一応行ってるよ。先生と話し合ったりな。でも会いたくねぇんだよ、もうあの人には。」
露木は一条の目を見続けていた。段々と彼の眼には灰色の影が掛かり、まるで道の先が見えない霧のように、全てが不透明に濁る。誰の言葉も寄せ付けないような雰囲気を醸し出して彼はため息と共に呟いた。
「別にさ、貧乏だから恨んでるとかじゃねぇんだ。家庭が貧しくなってもおふくろのことは好きだったし、それはおふくろも同じだと思ってた。でも違ったんだ。」
そう言うと彼は突然パーカーの袖をまくり、無理やり左肩を露出させた。骨張ってはいるものの細い腕がすらりと伸びる。ぐるりと背を少しだけ彼女に向けて、一条は自らの肩を指差す。そこに見たものを見て露木は言葉を失った。
細い指先、小さなボタンが縫い付けられているかのように肌がぷっくりと、微かに隆起して薄い茶色に変わっている。彼女が驚いてしまったのは、その数であった。
「消えねーんだよ。タバコを押しつけられた6個の傷跡が。確かに親子の会話なんて勇気出せば簡単にできるよ。でも俺はそのスタートラインに立ちたくないんだ。」
「で、でも、私がそばにいますし」
「萌華。お願いだ。」
するすると袖を下ろし、タバコの痕を隠した彼は唇を一文字に噤んだ。目線で押し出すように、飲み込んだ言葉を瞳から零すように、真っ直ぐ露木を見る。それに気圧されてしまった彼女は言葉を失くしてしまった。
最後についたため息は、映画館で彼が飲んでいたコーラの香りがした。
「じゃあ、また来週な。」
そう言い残し、彼女に背を向けて人混みに飛び込む。大勢の人々に埋もれてしまった一条を探すことなく露木は俯いた。
しかしその時に彼女は彼の瞳に気が付いてふと顔を上げた。別の改札口へ帰っていった一条の姿は見えない。頭の中に浮かび上がっていた一条の最後の目には、グレーの影の奥に見えたのはぽっかりと空いた穴。まるで誰かに覗いてもらいたいと望むような、気付いた人の視線を引き寄せるような瞳。
露木はグレーの影の奥に嘘を見た気がした。
一条香織は強がって何かを隠し、一条景は遠ざけながら何かを隠している。
きっとその答えは共通していて、後一歩だと感じていた。少し無理矢理でいいからこじ開けてしまえばいいのではないか。そんなあやふやな希望を抱いて彼女は前を向き、森下駅へ続く東京メトロ丸ノ内線の改札を潜った。
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