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ゆるりと広がった青い空にはわたあめをいたずらに千切ったような雲が、駅前に生える少し背の高いビルの裏で揺れていた。ロータリーを抜けて住宅街の路地に滑り込む。大通りまでの道中で岡村は露木が着ているブレザーの袖を握った。 「萌華、大丈夫なの。白河くんなんて卑怯者がここにいて。」 「ちょっと。そういうのって2人だけの時に言うやつでしょ。僕ここにいるんだけど。」 「でもねぇ…もしかしたらお見舞いしてる隙に看護婦さんのLINEを聞き出したりとかさ。あるかもしれないじゃん。」 「同意見かよ。」 マンションが建ち並ぶ路地を抜けて荒川のように広がった大通りに出る。その先に見えた江戸川総合病院の外壁は、いつものように太陽の光を含んで光り輝いている。 その反射した日差しを眺めながら岡村はぼんやりと呟いた。 「でも大丈夫なのかな。あんなに突き放すような言い方で。一条先輩も嫌だって言ってたんでしょ?」 「そうなんだよね。萌華ちゃんもグイグイいってたんだけど、それでも一向に強がっててさ。僕もうヒヤヒヤしたよ。」 「うわ、白河くん気まずいねそれ。」 露木は学生鞄を肩に掛け直し、ファスナーを開ける。薄いジップロックの中には葛城のボストンバッグから零れ落ちた手帳の間に挟まっていた、どこか黄ばんでいる写真。 彼女はそれをしばらく眺めてから呟いた。 「大丈夫。行こう。」 力強い言葉の後、3人を堰き止めていた赤信号がぼうっと消える。青に切り替わった横断歩道を渡って病院へと向かう。 受付で名前を告げ、エスカレーターで4階に上がる。ほのかに薬品の香りが漂い始めた廊下はいつものように張り詰めていた。3月9日以降訪れていないという岡村は辺りを見渡しながら、より一層強く露木の袖を掴んでいる。怯えた子供を無理に連れ回すようにして廊下の奥へ進んでいく。 病室の前に辿り着いて露木は一度深く呼吸してから、数回扉をノックした。 「ちょ、ちょっと。返事無いじゃん。」 「そんな廃墟みたいな言い方しないの。」 小声で話し合う2人を置いてゆっくりと扉を開ける。太陽の光が漏れる薄暗い病室に入り、絨毯を踏んで中へ進んでいく。白いベッドの上で一条香織は伺うように露木たちを見ると、はちきれたフーセンガムが張り付いたような薄い皮にぐっと皺を寄せて、彼女は唇を尖らせた。 「何、なんか、増えた?」 キッと睨みつける視線の先、岡村は露木の袖から手を離して無理に明るい笑顔を作り出した。 「こんにちは。岡村恵里でーす。」 「ああそう。」 「つめてぇ…。」 大袈裟なリアクションをとって彼女は退く。バトンを受け取ったように前に出て、その場にぐっとしゃがみこんだ露木は香織を見上げて声をかけた。 「体調はどうですか。」 「そんなの、あなたたちには、教えないわよ。」 途切れながらそう言う香織の喉からは、洞窟の奥より吹き荒れる細く鋭い風のような音が、深い呼吸を繰り返す度に鳴っている。皺の数と顔色を見て、露木はぐっと胸の奥が締め付けられる思いに駆られた。一条香織は日に日に弱っている。 そんな不安を誤魔化すように露木は本題を切り出した。 「あの、ちょっと見てもらいたいものがあるんです。」 膝の上に鞄を置いてファスナーを開き、ジップロックに収まった写真を抜く。 「これ。覚えてますか。」 恐る恐る香織の前に写真を掲げる。徐々に写真を認識したのか、薄く開いていた彼女の目が時間をかけて大きく開けていく。全ての反応がスローモーションだった。 土色の唇を震わせて彼女は露木を見る。それまでの高圧的な態度はどこにも見えなかった。 「これ、どこに、あったの?」 「この間葛城先輩が荷物を持ってきたと思うんですけど、ボストンバッグの中に入ってたんです。この手帳の間に挟まってました。」 「ああ…」 恐る恐る両手で写真を受け取った香織は、視線で穴が空いてしまうほどまじまじと見つめる。この写真が鍵になるとは思っていたものの、数秒後に見せた彼女の反応を見て露木だけでなく、他の2人も驚きのあまり言葉を失ってしまった。 骨格に張り付いた皮の上を一筋の涙が伝う。大粒の水滴がぽつぽつとシーツの上に落ち、やがて香織は手に持っていた写真を胸元に抱きかかえた。 「ずっと、ずっと…探してたの。」 「この写真、ですか?」 失くしていた宝物を見つけたように泣きじゃくって、潰れてしまうほど抱きしめる。 病室に香織の嗚咽が響く。泣き止むのを待っていた3人は黙り込んだまま、溢れ出す感情を抑えきれない彼女を見ていた。息子や露木たちに悪態をついていた一条香織の姿はどこにもいない。今ベッドの上にいるのは、上体を起こして迷子のように涙を流している。 窓が少しばかり開いているのか、5月の柔らかな風が吹いてレースカーテンが揺れる。それに煽られた香織は鼻をすすって泣き止むと、まだ乾くことのない涙の跡を見せて、ため息まじりに呟く。 「景と、何があったのか、って言ってたわね。」 「はい…お二人はいつから…?」 露木の言葉に彼女は穏やかな表情を見せる。細い指先が写真の右に向けられると、一条景にそっくりな男性の輪郭を爪で撫でながら、懐かしそうに言った。 「この人は、あの子の父親。お見合い結婚で婿入りだったの。旧姓は田中。田中賢吾って言ってね。まだ、この頃は優しかったわ。景にそっくりで、いつも優しくて、私が夜にお化けを見たって、電話で言ったら朝まで、付き合ってくれていたの。そんなところを好きになった。でも、結婚してからね。あの人が変わってしまったのは。」 今までの彼女からは想像がつかないほど、香織は懐かしそうに穏やかな口調で呟く。その時に露木が感じたのは、祖母の雰囲気だった。遠くのファイルをゆっくりと漁るような声は眠気を誘うほど、鼓膜を撫でてくれる。 「会社の先輩に教えてもらって、パチンコにハマったのね。負けが込むと、強いお酒を、呷るようにもなって。でも、景が生まれてからは、ギャンブルもお酒も絶つって、言ってたんだけど。そこから私たちは、噛み合わなくなってきたの。毎日のように喧嘩ばかりで、私は顔が腫れ上がって、外に出ることもできなくなった、こともあった。でもあの人も毎日、不安だったんだと思う。子育てだって、会社だって、色々溜まってた、思いがあったんだと思うわ。でも私も辛かった。ああ、殴られて、蹴られて、私はもう綺麗じゃないんだって。毎日責め立てられて、怖くて。だけどね、そんな時はいつも景が、慰めてくれた。大丈夫だよ、ママは悪くないよって。でも、その時の景の顔が、あの人にそっくりだった。だから私は、怖かったの。あの人に殴られて、あの人に慰められているようで。家庭に居場所が無いんだって、鬱ぎ込むようになった。どうしてこの子は、こんなにも、あの人に似てるんだって、理不尽に苛立ちを覚えるようにもなって。」 「じゃあ、そのせいで息子さんに暴力を?」 白河は今までに聞いたことが無いほど穏やかな声で言う。しかし香織は首を横に振って、追い詰められた犯人のように神妙な面持ちになった。 「私は、嫌われたかったの。」 どこか寂しそうな、遠くにいる誰かにつぶやくような声。その言葉の意味が分からずに黙り込んでいると、彼女は自らを嘲笑うように続けた。 「あんな人に育って欲しくなかったの。お酒とギャンブルにハマってしまうような、あんな人には。でもね、離婚してから私が働くようになって、今度は、私がギャンブルとお酒に溺れてしまった。その時に考えたの。私は、反面教師になるしか、ないんだって。頭も良くないから、勉強を教えることは、できないし。だったら、将来こんな家庭を持ちたくない、こんな家族を作って欲しくない。そう思って、景を嫌うようになった。」 「で、でも、それって自分勝手だと思います。」 次に口を挟んだのは岡村だった。心の底から悲しんでいるように、眉尻を下げて彼女は言う。 「だってその結果、一条先輩は深く傷ついて、でも一条先輩はそれを知らなくて…そんなの親のエゴですよ。」 「私もそう思います。」 露木は咄嗟に同意した。自分を心の中で責めているであろう彼女の表情は、全てに疲れていた。そんな彼女を揺さぶるように露木は声を張った。 「香織さん、景さんの左肩の傷を覚えていますか。あなたが押し付けたタバコの痕です。景さんは今もそれを忘れていないんです。いや、忘れられないんです。子供を想っているなら傷つけちゃいけないと思います。」 「でもね、あなたたちは知らないでしょう。自分の子供がどれほどまで恐ろしい存在か。」 反抗するように口を挟んだ2人をキッと睨みつける。その圧は嫌われるような態度をとる今までの彼女ではなく、母親としての目だった。 「子供は、すごいパワーを持っているの。一度感情を表せば、すぐに辺りを、あっという間に支配してしまう。それにね、自分の子供と目を合わせたら、分かるわよ。自分の血が混じっているからこそ、自分がお腹を痛めて産んだからこそ、本当は私の思いに気付いているんじゃないか。本当は傷つけたくないけど、仕方なくやっているんだ、それを見抜いているような、純粋な目。怖いの。全部、見透かされていそうで。相談相手もいない、親戚だって頼りにならない、あの子と私しかいない。だから、あの子には、心の底から恨んでほしかった。将来、あんな大人には、こんな大人には、ならないように…」 再び彼女の目から大粒の涙が零れ落ちる。その時に露木はふと香織の胸中を想像して苦しくなった。 10年以上彼女は実の息子に嫌われようと振舞ってきた。自分のような大人にはならないように息子への愛を隠したまま、子供を傷つけることしかできない。そんな正反対な行動は全て愛する子供のため。 あまりにも不器用だった。お互いが本音を上手く隠しあって、やがて香織はすれ違ったまま終わろうと考えている。それがひどくやるせなかった露木はごくりと息を飲んだ。 「確かに景さんは、あなたのことを嫌っています。親だと思いたくないって言ってました。でも景さんはあなたが倒れたと聞いて真っ先に飛び出していきましたよ。口先でいくら嫌っても、どんなに悪態をついても、体はすぐに反応しちゃうんです。香織さんが10年以上嫌おうと努力しても心配なんですよ。それが家族なんです。」 家族は不思議なものだと、露木は改めて感じた。どんなに仲が悪くても、どんなに会っていなくても、何かあればすぐに心配になってしまう。 そして家族が亡くなった場合、その後悔は計り知れないものになる。 「いくら話し合っていない、顔も見合わせていないって言っても、幼少期の思い出はお互いに残り続けていると思います。それが家族を結ぶんです。どうやっても過去は拭えないから今があるんです。僕だって時折親を疎ましく思うこともありますけど、それでも病気で倒れたら心配になりますし、体が弱っていたら昔を思い出して悲しくなります。育ってきた年数が多いし、幼いからこそ面影が強く焼き付いているんです。だからどんなに否定しても嫌っても、あなたが一条先輩にとってたった1人の母親であることに変わりはないんですよ。」 白河の穏やかな言葉が病室に染み渡る。レースカーテンがふわりと揺れて、窓の向こうの景色が垣間見えた。病院の周りを埋める青々とした木々が擦れる音を鳴らしている。 天気も病室内も穏やかな空気が流れていた。しかし香織は再び自分を嘲笑うように、ふっと息を吐いて笑った。 「ありがとうね、皆。だけどね、もう、戻れないのよ。たった数ヶ月じゃないの。私は、何年も、十数年も、あの子を嫌おうとしていた。現に私とあの子の仲は、最悪よ。いくら今から、頑張っても、関係が修復、することはないわ。だから、もういいの。」 諦めたような声でそう呟くと、香織は激しく咳き込んだ。咄嗟に薄い掌で口元を覆う。心配そうに距離を詰めた3人をもう片方の手で制して、窓から吹く春の終わりの風のように柔らかく笑う。 「体調が悪いのは、分かってた。だけどあの子に、負担を、かけたくないから。黙ってた。だから分かるのよ。私はもう、長くない。お医者さんも、気を遣って、心配してくれる、けど。抗がん剤治療なんて、ただの気休めにしか、ならない。もう、仕方ないの。」 途切れながらもどうにか言葉を紡ぐ香織を見て、露木は信じられずに首を横に振った。今ここにいる一条香織の命が長くないこと、どんなに悪態をついていても最期を迎えてしまうこと。 人の命は儚い。どれだけ足掻いても勝つことはない。亡くなってしまう人も、残された人も、何も打つ手がない。ゆっくりと忍び足で迫り来る死をどうにか濾過するしか方法はない。そんな残酷な事実が3人の胸を平等にきつく締めていた。 耐えきれずに露木は拳を握った。肩を震わせて、香織のベッドに両手を置く。彼女は弱々しくも驚いている様子だった。 「こんなのダメです。やっぱり2人でまた、きちんと正面から向き合って話し合いましょう。」 「でもねぇ、景がそれを、望まないと、思うわ。」 「だったら、私が説得します。」 力強い声が春の終わりの風に混ぜられていく。ぐるぐると病室の中を巡り、やがて届いた時、香織は再び大粒の涙を零した。 「でも、そんなの、頼めないわ。」 「いいや。絶対にやります。説得してみせます。だってこのままお別れなんて、私が嫌です。どんなに否定しても親子じゃないですか。だったら、素直になりましょうよ。」 1週間後には早くも梅雨の時期に差し掛かると、テレビに収まった女性アナウンサーは話していた。今吹く風はまるで春の終わりを悲しんでいるようだった。 風に揺れる彼女の髪は力無く煽られ、土色の肌を隠してしまう。しかし3人は香織が微笑んでいることを、感覚で理解していた。やがてゆっくりと顎の先を胸元に沈める。 「じゃあ、お願いしても、いいかしら。」 その言葉に3人は顔を見合わせた。まるで大仕事を依頼されたかのように、それぞれ胸を張って頷く。ぼんやりとそれを眺めていた香織は緩んだ表情で言った。 「あなた、名前は?」 段々と白い日の光は橙に変わっていく。オレンジの手を浴びて、彼女は香織の目をしっかりと見て答えた。 「露木萌華です。」 もうグレーの影は宿っていない。ビー玉を埋め込んだような純粋な目。その水面が微かに揺れ動いて、香織は微笑んだ。 「そう。いい子ね。こんな優しい子が、あの子の彼女なんて、私の教育も、間違ってなかったのかもね。」 その言葉に3人は答えなかった。というよりも答えられなかった、に近かった。何故ならそう呟く香織の表情が今までに見たことがないほど穏やかで、そのまま透けていくのではないかと思ったからだった。
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