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しっとりと肌に染み付く湿気が強く感じられるようになり、本格的な梅雨はすぐそこまで近付いている。それは森下駅前にも広がっていた。土曜日の人混みは徐々に駅の構内へ吸い込まれていき、他の町へ散り散りになっていく。露木はガードレールに背を預けて後ろで結んだ髪を肩にかける。白い無地のTシャツに同色のレースのカーディガンを羽織り、短いデニムスカートからはすらりと足が伸びて、黒いコンバースがコンクリートの上にあった。
「よう。お待たせ。」
水縹色のダメージジーンズに白いワイシャツ、黒い革のジャケットを羽織った一条は明るい茶髪をワックスで整えて、真ん中で分けている。
「今日どこ行こうか。何も決めてないもんな。」
「え、先輩。まさか覚えてないんですか。」
何気なくそう言う露木に、彼は不思議そうに首を傾げる。すぐにポケットから携帯を抜いて画面の上に指を滑らせる。液晶をぐっと睨みつけながら一条は呟いた。
「えっと…付き合った記念日でもないし。初キス、初デート、初めて会った日はまだ先だし…ていうかカレンダーに載ってねぇんだけど。」
「逆にカレンダーに全部書いてるんですか?」
「おお。お前との記念日は全部赤でな。で、なんだ。今日は何も書かれてねぇぞ。」
「はぁ…がっかりです。」
「待ってくれよ。カレンダーじゃねぇとこに書いてねぇかな…。」
ぶつぶつと呟きながら携帯の画面を指先で擦る。その様子を見て露木はため息をついて、辺りを見渡した。
「もう。忘れちゃったんですね。」
わざとらしくそう言って彼女は駅前のロータリーに手を伸ばす。それまで道端に待機していた深緑色のタクシーがゆるりと動き出し、2人の前に停車する。後部座席のドアが開かれたタイミングで、彼女はポケットから黒いアイマスクとイヤホンを取り出した。
「はい、これつけて乗ってください。」
「丁重な拉致?」
ガードレールを越えて後ろに乗り込み、イヤホンとアイマスクを素直に装着する。露木も後を追いかけて隣に乗り込むと、携帯のイヤホンジャックに差し込んで音楽をシャッフル再生した。
「わ、うるせ。」
「運転手さん。船堀公園まで。」
軽く返事をしてタクシーは動き出す。彼の反応をちらりと伺ったものの、何も分からずにイヤホンから流れる大音量の音楽を聴いている。ぽかんと開けていた口が微かに動いた。
「何だこれ、どこ行くんだ。怖いな。」
「安心してください先輩。」
「あ、この曲知ってる。」
本当に聞こえていない様子の彼は、見えていないにも関わらず辺りを見渡している。露木はしっかりとそれを確認して携帯を取り出した。LINEを立ち上げて岡村とのトークを立ち上げる。簡単に文章を打ってから2人を乗せたタクシーは街を抜けていった。
横に広がった川のような大通りを出て公園前の通りにタクシーは滑り込む。ゆっくりと停車して、料金を支払った露木は恐る恐る彼の手を取って、たっぷりと時間をかけて降車した。
銀の柵を越え、真っ直ぐ伸びるレンガ道を歩き出す。隣の一条は依然としてふらふらとした足取りのままだった。
「なぁ、これどこ行くんだよ。」
彼の耳へ注ぎ込まれていた音楽を止め、ゆっくりと外してやる。
「もう着きましたよ。先輩、今日は記念日ですよ。」
「いやだから何のだよ。このままだとデスゲーム始まるみてぇじゃん。おい、黒幕はどこだ。閉じ込められて脱出するんだろ。」
「鎖とかで繋ぎませんから。」
「あ、ボロ出したな。これ主人公の彼女が黒幕ってパターンだな?」
アイマスクを着けたままそう言う彼の手を取っていた露木は、ゆっくりと立ち止まった。
数週間前まで満開に咲いていたであろう桜並木はすっかり緑を蓄えている。いつの間にか散りゆき、いつの間にか咲いている。ぐるぐると巡る季節の三分の一、彼女は静かに告げた。
「じゃあ、先輩。アイマスク取ってください。」
その声があまりにも神妙なものに聞こえた一条は、何も言わずにアイマスクを外した。数十分ぶりに見る日の光に目を細める。恐る恐る目を開いて視界が慣れ始める。
彼は道の先を認識して言葉を失っていた。
ベージュの柔らかそうなニットを着て、車椅子に腰かけた一条香織は弱々しくも穏やかな笑みを浮かべている。その周りには岡村、白河、葛城が家族写真のように並んでいた。
「お、おふくろ…どうしてここに?」
「外出許可を貰ったんです。一条先輩と2人きりで話し合ってもらうために。」
車椅子を押す葛城に続いて2人もやってくる。一条は呆気に取られてそれ以上の言葉が見つからない様子だった。そんな彼の背中を押すように露木は続ける。
「先輩。もう嘘つくのやめましょうよ。強がるのはもう終わりにしましょうよ。素直に話しましょうよ。私、考えたんです。もしかしたらこのまま本音を明かさないまま終わるんじゃないかって。そんなの悲しいじゃないですか。自分を騙して、強がる気持ちを殺すよりも素直に言葉を伝えあった方が簡単ですよ。」
2人の前に到着した葛城は車椅子を回転させ、持ち手を一条に向けた。抗がん剤治療の影響か、彼女のくたびれた髪は少ない。まるで田舎の方に見られる、手のつけられていない畑のようだった。
「私たちが出来るのはここまでです。後は2人で素直に話し合ってください。」
彼の手首を持って手押しハンドルに添える。それをゆっくり握り締めた彼は神妙そうな顔で微かに頷いた。
4人の間をすり抜けて一条親子は禿げた桜並木へと歩き出す。段々と小さくなる背中を眺めて岡村はふと呟いた。
「これでよかったんですかね。」
「むしろ、これ以外に方法は無いよ。後は景と香織さんに任せるしかない。今日はあの親子がようやく本音を話し合う記念日なんだから。」
4人は横に並んで一条親子が帰ってくるのを待っていた。それはひどく長い時間に感じられたものの、露木は少しばかりの不安と、冬の時期に見られる霧のような期待を抱えていた。
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