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77
グリップを握る掌が湿り、何度も掴み直す。車椅子を押すのは初めての経験であるため、一条は緊張した面持ちで前に座る母の頭部を見た。
いつの間にここまで寂しくなってしまったのだろう。久しく母を見ていなかった。青い肘掛けに乗った彼女の腕は濡れた小枝のように細い。強く握れば簡単に折れてしまいそうだった。それが悲しくて一条は目を逸らす。
数分かけて10mを歩き、先に口を開いたのは香織だった。
「大学は、どうなの。」
ぼそりと呟く。弱々しい声が余計に胸を締め付ける。唾をごくりと飲んで彼は答えた。
「ぼちぼちだよ。」
「ああそう…まぁ、それはよかったわね。」
一向に会話は続かない。そんな2人を囃し立てるように吹き荒ぶ風は、湿気を含んで重くなっていた。
「ごめんね、景。」
思わず立ち止まり、一条は固まってしまった。たった数文字がレンガ道に落ちていく。それをしっかりと聞きとっていた一条は呆れたように笑った。
「は?今更何言ってんだよ。ていうか、何に謝ってんだよ。」
「今まで、全部よ。私が、あなたにした、こと。」
再び車輪が回って2人は歩き出す。謝罪する母が記憶になかったため、どう反応したらいいか分からず黙り込んでしまう。その隙をついたように母は途切れながらも畳み掛けた。
「これは、決して嘘じゃないわ。だけど、信じられないとは、思うから、そのまま、聞いてちょうだい。私は、あなたのために、嫌われたかった。恨んで欲しかった。あの人を選んでしまった私を、同じようにギャンブルと酒に、溺れてしまった、私を憎んで欲しかった。将来、こんな家庭を、持ってはいけないって、反面教師になる道を、選んだの。」
一条の頭の中で今までの思い出がメリーゴーランドのように巡る。端々に映り込む母の表情は、どれも鬼気迫るものだった。
「私のことを、嫌ってくれたら、将来こんな、家族を作らなくて済むと、思ったの。このまま、あなたに嫌われたまま。そうするしかないんだって。だから…」
「ふざけるなよ!」
震える拳でハンドルを叩いた一条は声高に叫んだ。風に揺れて何重にも葉音を奏でる桜並木に声が滲んでいく。辺りを彩るという役目を終えた木々の真ん中で、一条は母の後頭部に向かって言葉をぶつけた。
「それじゃ何か?俺があんたを忌み嫌ったのは全部あんたの思惑通りなのか?何度も叩かれて、飯も服もろくに与えられなかった。俺はそれでもよかったんだ。あんたを苦しめる親父の存在が消えたから、これからは2人だけで、貧しくても幸せな日々を送れるんだって。それなのに、それなのに…今更何が反面教師だよ。俺がどれだけ苦しんだか知らねぇだろ!」
「知ってる、わよ。」
「はぁ?マジでいい加減にしろよ、俺の苦しみを知らねぇからそんなことができんだよ!」
「あなた、覚えてない?高熱を出した雨の日。」
その瞬間一条の脳内にある映像が浮かび上がった。寂しい団地の狭い一室。つんざくような大雨が曇り硝子を叩いている。意識が朦朧としていたことを彼は覚えていた。
「病院にも連れて、行けなかったから、仕事を終えて看病していたの。あなたが小学校2年生の、時よ。高熱にうなされていた、あなたは寝言で、私の名前を呼んでたの。お母さん、助けてって。それが熱のせいなのかは、分からなかったけど、でも、揺らいだの。今からなら、引き返せるかも、しれないって。」
「だ、だったらそこでやめたらよかっただろ!」
「もう、できなかった。これは私の、責任よ。あなたの10年以上を、嘘で塗りたくって、騙してしまって。本当に、申し訳なかった。」
彼女の言葉は信じられないほど弱々しく、掠れている。しかし一条は鉛よりも重く感じていた。10年以上の時間を裏切った母からの謝罪と愛が憎悪を染めていく。
「どうか、あなたには、あんなひどい家庭を、持って欲しくない。あんな男には、ならないでほしい。そのためなら、私は悪魔にも、鬼にも、なるわ。だからくれぐれも…」
「もういいよ。」
べたつくような風が肌を舐める。木々のアーチを見上げると、開けた空は薄いグレーの雲を写していた。今にも隕石のように降り注ぎそうな曇天を眺めていた彼は、諦めたように続けた。
「もう悲劇を演じるのはやめろよ。」
潤む瞳をどうにか誤魔化そうと、一条は頻りに唾を飲む。しかしそれは意味を為さなかった。
「分かったから、もういいから。もうこれ以上悲劇を演じないでくれよ。ふざけんなよ…なんでそういうことを、もっと早く言わないんだよ…。」
顔をぐしゃぐしゃに濡らして一条は嗚咽交じりに呟いた。混乱する頭の中で唯一透き通っていて、いつまでも変わらなかった感情が立て続けに口から漏れていく。
びゅうと強い風が吹いたものの、一条の涙を攫うことはできなかった。
「俺はおふくろを助けたかった。いつも親父に殴られて、理不尽なことで怒鳴られて、でも、それでもおふくろは俺に優しくしてくれた。俺は正直、その優しさが痛かったんだ。ただ守られているばかりで、俺の代わりにおふくろが毎日傷ついていくのが、辛かった。だから親父に立ち向かいたかったけど、できなかった。だから決めたんだ。おふくろみたいに不幸と巡り合ってしまう人を助けたいって。ガキの頃、おふくろと2人で行ったショーに出てくるヒーローみたいに、大切な人を守る存在になろうって…」
今まで彼は母親と接する度に、数少ない母親との大切な思い出を押入れに閉じ込めるように、無理やり隠していた。それは悪態をつき続ければならないという強迫観念によるもので、10年以上乾いた泥のように固め続けていたプライドは、薄い曇天の下でみるみるうちに剥がれていく。
啜り泣く弱々しい母に、一条は涙ながらに続けた。
「どんなに傷つけられても、あんただけを守りたかった。今度はあんたに傷つけられても、それでも守りたかった。おかしいだろ。俺はあんたのことを、嫌いになれなかったんだよ。」
一条は果てしない後悔に駆られていた。それは何故今までこの思いを閉じ込め続けていたのかということだった。
露木の言う通り、説得し続けてくれた葛城の言う通り、すぐに打ち明ければよかった。今になって戻ることのない日々。どうして人間は分かりきっている後悔を続けて生きていかなければならないのか。
「ごめんなさい…私は、感情に任せた時も、あった。これは、この教育は、間違いじゃないんだ、そんな自分を肯定する、ようにあなたの肩に、タバコを押しつけたりした。今も、残ってるわよね。」
「ああ、まだあるよ。」
「治療費、渡すから、治しなさい。今なら簡単に、治せるとは思うから」
「治すもんかよ。」
震えながら声を振り絞る。一条は自然と黒い革のジャケットの上から、掌で優しく左肩を包み込む。
いつの間にか折り返し地点に辿り着く。緩くカーブしていた一本のレンガ道の先、鉄の柵が置かれていて、その向こうには住宅街が広がっている。
擦れるような葉の音が鼓膜を撫でる。今まで何度も憎んできた火傷。まるでそれを握り潰すように服の上から爪をねじ込んだ。
「あんたからの間違った愛情でも、それでもいい。バカだよな。俺とあんたも。このタバコの痕が最初で最後のプレゼントなんだぜ?あんたが死んだら、あんたがいた証が無くなるだろ…。」
公園の外に並ぶ住宅街に背を向け、来た道へゆっくりと歩き出す。禿げた桜並木が奏でる自然の音に耳を傾けながら2人はレンガ道を戻る。壁のような木々から薄い陽の光が差していた。
「おふくろ。」
「なあに?」
「俺、大切な存在ができたんだ。」
「あの子の事ね。」
「そう。」
「いい子ね、萌華ちゃん。」
「だろ。俺、あいつを守りたいんだ。」
「ふふ、ヒーロ、みたいに?」
「おう。」
「そう言ってくれて、嬉しいわ。」
「なんでおふくろが嬉しいんだよ。」
「いい家庭が、築けそうだから。」
「いや、結婚はまだはえーよ。」
「そうかしら。案外、あっという間よ。幸せはすぐに、終わっちゃうの。だから、噛み締めないと、いけないのよ。」
「あっそ。おふくろは俺との思い出は噛み締めてたのかよ。」
「そりゃ、今も、昨日も、してるわよ。あなたが幼稚園の、帰り、口から血出して、泣いてた時とかね。」
「ああ、それ覚えてる。」
「あら。覚えてるの?」
「確かあれだよ。敦己って奴いただろ?あいつが珍しい虫見つけたっていうんで、先生に報告しに行ったんだよ俺。その時に転んで口の中切っちゃってさ。」
「敦己くんね。」
「覚えてねぇだろ。」
「あれよ、果物店の息子さんよ。」
「は?あいつの家果物屋だったの?」
「そうよ。いつも、みかんを、おまけしてくれてたの。」
「あー、あのみかんか。」
「あなた、みかん嫌いだったっけ。」
「それキウイな、文字数しか合ってねぇじゃん。」
「あんた、野菜は食べてるの。」
「急に何だよ。」
「健康にならないと。お酒は、ほどほどに。タバコはダメよ。」
「あのな。俺まだ未成年なんだけど。」
「だから、先に、言っておくのよ。健康で、いてね。」
「…いや、言われなくてもそうするわ。」
「何。泣いて、るの?」
「バーカ。耳も悪くなったんじゃねぇの。」
「分かるわよ。だって、お母さん、だもん。」
「だからさ…今更、おせーよ。」
「ふふ、そうね。時間かかって、ごめんね。」
「遅刻しすぎだよ。親父とのデートでもそうだったのかよ。」
「意外とね、あの人、約束の時間よりも早く、来たりするのよ。意外と律儀、でね。」
「へぇ。そんなイメージないな。」
「変わる、前までは、優しかったのよ。あなたに、似て。」
「今、親父何してんだよ。」
「分からない。あれから、どこで何を、してるのかも、分からないわ。」
「ふーん。教育費とか入れてねぇのかよ。」
「今まで、一度も無かったわ。」
「最低だな。」
「だから、そんな人には、ならないでね。」
「当たり前だろ。死んでもならねぇよ。」
「そう。なら、良かった。」
あまりにも足りない。たった数十メートルの辿々しい会話。しかしそんな会話も、大切な人とするセックスも、自転車と同じなのかもしれない。体が覚えているのだ。一歩踏み出せば自然と前に進む。その道がイバラ道なのか、遥か上空にある雲の上なのか、公園のレンガ道の上なのかは分からない。
しかし2人は足掻くように、10年以上の時間を埋めていた。
車椅子を押す手が止まる。長い一本道の先には4人が陽炎のように立っている。大きく手を振っているのは岡村だろうか。ぼんやりとしていてその正体がはっきりと見えないのは、いつの間にか潤んでいた涙のせいだった。
先程よりもゆっくり、足りない時間や言葉を求めるように、ゆっくりと4人の元へ戻っていく。
一条は手の甲で涙を拭った。それは4人に泣き顔を見られるのが恥ずかしいという理由ではなく、2人だけの空間に閉じ込めておきたかったからだった。
「なぁ。」
「はい。どうしたの?」
「きつくねーのか、毎日。」
「大丈夫よ。」
「そっか。」
「うん。」
「なぁ。」
「ん?どうしたの?」
「病院食、まじーだろ。」
「あれは、栄養バランスを、整えたやつ、だからね。」
「ああそうか。ならいいのか。」
「うん。」
「なぁ。」
「なあに…どうしたの?」
「俺さ、幸せになるよ。」
「うん。」
「誰も傷つけないように、誰かを守るために。」
「うん…。」
「だから、頑張る。」
「そうね。頑張らないとね…。」
「そうだな。」
「うん。」
「なぁ。」
「どうしたの…?」
「お母さん。大好きだよ。」
「私もよ、景。愛してる。」
4人に出迎えられ、病院へ戻っていく最中。一条は母を見てほっと胸を撫で下ろした。いつ以来か分からないその穏やかな笑顔が、日の光を浴びてシャボン玉のようにキラリと光っていた。
「先輩。」
病院へ戻る住宅街の道のり、車椅子を押す葛城の背中を眺めながら一条は答える。
「ん?」
「記念日になりましたか?」
「まぁ、な。ありがとう。」
露木はその答えを待っていたように安心した笑顔を浮かべる。それを見て一条も笑った。やがて前を歩く彼らに見えないように、恐る恐る露木の手を握った。
最初は驚いていた彼女だったが、すぐに握り返した。暖かく小さな掌。もう後悔しないようにと一条は心の中で決めていた。
もう少しだけ早く素直になれたら、もっと沢山の想いを伝えられたかもしれない。もっと時間をかけて許し合えたかもしれない。それでも道はずっと前に伸びている。それは非情にも帰り道ではない。残酷で厳しい世界だからこそ、一条は露木の何もかもを離したくないと感じた。
開けた大通りに吹き荒ぶ湿気を含んだ風が6人を平等に殴る。ゆっくりと掌を広げ、一条は葛城の肩を叩いて、もう一度手押しハンドルのグリップを握り締めた。
「おふくろ、帰ろうか。」
「そうね。」
信号が青に変わる。
最期の会話は、日常に溶け込んでしまうほど軽く、果てしなく残り続けるシミのように、病院前の通りに漂っていた。
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