169人が本棚に入れています
本棚に追加
93
フィットに乗り込んだ2人は、路地と大通りの行き来を繰り返して進んでいく。その道中で露木は行き先がどこかを分かっていた。
住宅街に滑り込んで徐々にスピードが落ちていく。鞄を肩にかけて助手席から降りると、露木は六石学院高校の校舎を眺めた。既に卒業生も在校生もいない、伽藍堂のような校舎が寂しく佇んでいる。一条は車から降りて鍵をかけるとぐっと背伸びをした。
「なんか、また制服着てここに来るとは思わなかったな。」
「ちょっと変な感じしますね。」
自宅の冷蔵庫から持ってきたペットボトルのキャップを外し、ミネラルウォーターで喉をごくりと鳴らす。どこにも人がいない校舎を外から眺めていると、まるで世界が終わった後のようだった。
半分まで飲み干すと彼はため息をついて、黒い門扉に両腕を乗せた。
「俺さ、卒業式の思い出っておふくろが倒れたイメージしかなくて、あまり覚えてないんだよな。その後友達とどんなことを話したのかって。でも確認する術なんてねぇからさ。ちょっとここでゆっくりしたくて。」
ビー玉のような彼の目に燃える日がめらめらと揺れている。露木は数年前の出来事を思い出していた。
処女を捧げようと勝手に決めていたが、一条香織が倒れたとの連絡を受け、岡村と共に江戸川総合病院に向かった。卒業の余韻など一切ないまま日々は過ぎていた。
「なんかさ、不自由って本当は一番の自由だったんだなって思うんだよな。」
「そう、なんですか?」
「ああ。金は払ってるけど、最悪大学なんて自主休講って言ってサボれる。でもそれって自由の代わりに責任がつきまとって後々自分を苦しめるんだ。高校はちげーじゃん?義務教育じゃねぇけど行かなかったら家に連絡入るし。それにおふくろが死んでから余計に痛感するっつーか。」
露木はどこか悲しかった。それは一条香織の声を思い出せないということだった。少しだけ掠れていた、その印象しかない。人は何故か人を声から忘れていく。
「野菜食えとか腹出して寝るなとか、うるせー小言だと思ってたけど、あれがなくなったらガキってどうしたらいいか分からないんだよな。散々不自由だと思ってたのに、いざそれがなくなるとどうしたらいいか分からない。社会に出たら余計にそう思うような気がするんだ。だから、大人って過去を懐かしんで羨むんだよ。あの不自由が良かったって。」
彼女はまるで実感がなかったものの、一条の寂しそうな横顔を見て無理に理解した。
やがて彼は自らを嘲笑うように鼻から息を吐くと校庭に向かって指先を向けた。
「あそこさ、校庭の真ん中。俺が1年生の頃あそこにプレハブ校舎があったんだよ。改修工事だって言って。すげー邪魔だった。」
「そうなんですか?体育面倒臭そうですね。」
「本当だよな。3年のフロアを改修してたらしいんだけど、体育の授業中に窓から言われたよ。うるせーぞ1年って。でも工事中だからしょうがねぇよな。」
「ねぇ、景先輩?」
「あ?」
「私のこと、最初はどう思ってたんですか。」
「どうって。一目惚れだったけど、嫌われっかなーとは思ってた。」
「へぇ。私は先輩のこと最初嫌いでした。」
「だろうな。知ってるわ。」
「でも、今は違いますよ。」
「今も嫌ってたら問題だろ。」
「ですよね。」
「おお。」
「懐かしいですね、もう3年前なんて。」
「あっという間だよな。」
「これからもあっという間ですよね。」
「きっとそうだな。だからこえーんだよな、人生って。」
「これからも隣にいてくれますか?」
「当たり前だろ。ババアになっても好きだよ。」
「おばさんになってもおじさんになっても、色々な場所行きましょうね。」
「また動物園とか行こうか。」
「あ、でもまた原宿行きたいです。」
「あー。4人で行ったなぁ。」
「先輩ってあの時緊張してましたよね。」
「正直な。だってお前のこと好きだったし。」
「あ、ようやく認めた。」
「陽介からも言われたよ。どうせ好きなんだろって。まだ付き合ってないのとかも言われた。」
「それ私も恵里から言われました。」
「マジか。」
「だって景先輩全然告白してくれないし。」
「しょうがねぇだろ、そういうの得意じゃねぇんだもん。」
「確かに先輩、めちゃくちゃ緊張してましたもんね。」
「うっせーな何度も言うな。」
「最初なんて教育してやるよ、とか言ってたのに。いざ2人きりになったら口ごもっちゃって。」
「いじってんだろ、なぁ、いじってんだろ。」
「だってもっとオラオラ系なのかなって思ってたのに、借りてきた猫みたいだったんですもん。可愛い人だなぁって。」
「はい、年上をいじらない。」
「年上に感じないですけどね。」
「全く、お前はいつも生意気だな。俺ダメ男みてぇじゃんよ。」
「でも、告白された時は嬉しかったですよ。」
「あそこか、丁度。資料準備室。」
「そうですね。あそこで、しかも出会った場所で。意外とロマンチストなのかなって思いましたよ?」
「だけど資料準備室って場所が地味すぎねぇか?」
「それでいいんですよ。変に夜景が綺麗なところよりも、そっちの方がリアルですよ。」
「そっか。リアルか。」
「はい。」
「まぁそれならいっか。」
「あ、景先輩。」
「ん?どうした?」
門扉から離れて露木は鞄の中を漁った。もう使うことのない学生鞄から黒い筒を抜くと、ぽんっと音を立てて蓋を外す。ぐるぐると円を描いて畳まれた卒業証書を抜いた。紙の両端が翻って不自然に暮れなずむ空を睨みつける。
ローファーを鳴らして彼の方を向き、ぴんと両腕を伸ばす。
「あの時言えなかったと思って。景先輩、卒業おめでとうございます。」
呆気にとられていた一条は少しして吹き出すように笑った。
「今言われたら俺留年してたみてぇじゃん。」
「でも言いたかったんですもん。」
そっか、と呟いて門扉から離れる。2人は人が消えた校舎の前で向かい合い、卒業証書を渡しあった。一条はそれを受け取って半分に畳むと、わざと一歩引いて頭を下げる。露木は力が抜けたようにくすくすと微笑んだ。
「なんか、ロボットダンスみたい。」
「でもこうだっただろ?そんでぐるっと回って席に戻るんだよな。」
「その時に手足同時に出しちゃう人もいますよね。」
「あーいたわ。あれ間抜けだけど仕方ねぇよな。」
ふぅと息をつく。彼は改まったように卒業証書を開くと、その表面を眺めてから口端を吊り上げ、先程の彼女と同様に両腕をぴんと伸ばした。
「じゃあ俺からも。萌華、卒業おめでとう。」
春風が吹いた。花弁の甘い香りを乗せて2人の髪を掻き乱す。
露木は彼を見ていた。
細身の体、円らな瞳にすらりと伸びる鼻筋。控えめな唇に瞼の上を覆う明るい茶髪。
一条は彼女を見ていた。
ぱっちりとした目に主張しない鼻筋、ぷっくりとした唇は綿飴よりも柔らかい。柔らかなシャンプーの匂いを含む、肩甲骨を覆う黒髪。
あえて口にはしなかった。だからこそ2人は春風を浴びながら、同時に頬を緩ませて笑い合った。
白とクリーム色の混じる校舎、やたらと大きな体育館に2人が出会った六石棟はたっぷりと夕焼けを浴びて輝いている。誰かの出会いと別れを見届けてきた建物の前から離れ、2人は数日後の再会を約束して車に乗り込み、六石学院高校の前から去った。
最初のコメントを投稿しよう!