母の嘘

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 あれは床板から冷気が感じられる冬のことだった。 私は地元を離れ、都会で一人暮らしを始めていた。この暮らしを始めた理由は、母との大喧嘩だった。確か、私は大学3年生で就職活動が始まろうとしていた頃だった。私と母の仲は基本いいか悪いかで言えばいい方で、周りの親子と比べると比較的賑やかな間柄だった。 母の口癖は 「孫の顔を見るまでは死ねない」 で、それを爆笑しながら 「無理無理無理無理、てか大学生にそんなこと言うなよ(笑)  それは、独身の息子に苦しみながらいうことやろ(笑)」 と話すのがわりとお決まりのパターンだった。  いつもなら会話が終わって静かになるが、その日は違った。  その日は賑やかなトーンからワントーン落とした声で、就職について尋ねられた。私もワントーン下がった声で 「考えてるけどやりたいことがしたい」  と返した。これを境にしばらくの間、沈黙が続いた。実際のところ、数秒、数十秒程度の静寂であろうが、元来賑やかな間柄である我ら親子にこのような空気が流れるのは大変珍しく、床の冷たさが余計に痛く感じられる程であった。母の私に対する教育方針としては、「犯罪以外は自由・死ななきゃ何をやってもいい」だった。私は、その言葉を心から信じ、自分がしたいことに対しても母からの賛同が飛んでくるものだと考えていた。しかし、母からの回答は 「やっぱり、世間の目もあるし、大企業に就職したら?」 だった。母はため息を出すと同時に、この言葉を吐いた。 母からとりあえずそう言われたが、私はその”世間の目”という言葉に妙に納得がいかず私と母史上稀に見る、大戦争が勃発した。やりたいことがしたい私と将来安定して欲しいと私のために願う母との戦い。私は、その時のことをほぼ覚えていない。怒りに任せて尖った言葉を母に向け、容赦無く鋭利な言葉を投げ続けた。母からは私の吐くような言葉は飛んでこないものの、大人特有の重い鈍器を投げ返してくる。勝敗はつかず、その日私が実家から出る(逃げる)という形で休戦した。  母にはどこに引っ越すかも、どこで何をするかも伝えないまま田舎を飛び出した。当時、母と話し合いを続けてもわかってくれないと考えた私は、逐一くる母からの連絡を無視し、母とのつながりの一切を遮断していた。  ところで気になった人もいるだろうが、私のやりたかったことは飲食店経営だった。経営というよりも純粋に自分が作ったものをおいしいと喜んでくれる顔をいつまでも見ていたかった。生来私は、自己肯定感が低かった。自分に自信がなく、何をしてもうまくいかないような気がして、自分ができることは他人にもできるような気がして、自分の存在意義がわからなかった。そんなとき、自信が持てたものが料理だった。  女で一人で育ててくれた母は毎日仕事で、毎晩十時に帰ってくるのが当たり前だった。幼かった私はそんな時間まで起きているはずもなく、母が帰宅する頃には布団に入っていた。もし、私が起きていれば母は私のために料理を作り、私は無言で夜寝ぼけながら食べていた。寝ぼけながら食べるんじゃなくて、もっと味わいながら食べろよなんて思われるかもしれないが、私は母とご飯を囲む時間が幸せだった。そして、そんな時間を寝ぼけながらも噛み締めていた。ある時、本棚にある料理の本を眺めていた。私は火を使わずに作れる料理や調味料を混ぜて、かけるだけの料理を見つけ、疲れた母を労おうと、その日簡単な料理を作り、母が帰宅するのを待った。 帰った母は目を丸くしていた。かっぴらいた目の渇きからか知らないが、涙を流し、ただ一言小声で 「ありがとう。おいしい」 と、呟いた。その出来事が衝撃的で、私はその日から料理を作って母を待つ生活が続くようになっていった。そんな中での喧嘩だった。  実家を出て行ってから一年が経過した。  私は居酒屋のキッチンでアルバイトをしていた。初めの頃は皿洗いや床掃除しかやらせてもらえず、調味料にすらさわれなかったが、ここ最近少しずつではあるがキッチンを任されるようになった。そんな私はバイトの賄いを作る機会が増え(各言う私もバイトであるが)、バイトちゃんに頼まれた賄いを作るようになっていた。そこのバイト先で出会ったのが現在の細君である。彼女は私が作った賄いを誰よりも美味しそうに食べ、バイト中には 「先輩のせいで、最近太り気味なんですよねぇ......。  ダイエットしないとですよ。」 と可愛い愚痴を吐いていた。私はどうでもいいと感じていたが、私の賄いで太ったことにどこか申し訳なさを感じ、彼女のダイエットを手伝うことにした。彼女に栄養バランスの良いヘルシーな賄いを毎回作るようにし、彼女の満足そうな顔を見ながら、彼女の大学であった嫌なこと、楽しかったこと、相談事など多くのことを聞く機会が増えていった。いつの間にか、自分も自分の悩みを自然と彼女に打ち明けるようになり、賄いを作る人・食べる人という関係からより親密な関係になっていった。そんな関係になってから、自然とバイト以外での時間も増え、自然と遊ぶようになり、気が付けば、世間が言う付き合う間柄になっていた。そこからの時間はあっという間で、気がつけば、月日が3年も経過していた。  いまだに母との連絡は拒み、彼女との同棲生活2年目を迎えようとしていた。彼女の両親への挨拶はすませたが、彼女は私の母との挨拶をしていない。していないというより、厳密にいうと、私が彼女と母に合わせていないだけなのだが。彼女には、母は忙しいからと小さい嘘をついた。彼女も疑うことなくすぐに納得してくれた。  嘘をついてからさらに一年後、彼女のお腹には新しい命が宿っていた。当然彼女と私との間の子であるが、このことも当然母には報告しなかった。報告しなかったというより、その頃から母からの不在着信が表示されなくなった。私は、何か胸につっかえるのを感じたが、彼女との間にできた子供があまりにも嬉しくてそれを究明しようとはしなかった。  子供が生まれる三ヶ月くらい前に、私は自分の店を持った。晴れて私の夢であった飲食店の夢を叶えたのだった。私は日に日に強くなる胸のつっかえが子供を養っていけるのか?という不安と捉え、日々料理を作り続けることで解消しようとしていた。自分の子供が誕生し、店の経営が徐々に軌道に乗り始めた頃だったが、自分のいとこから連絡があった。 「お前、どこで何やってんだ!お前の母さん亡くなったんだぞ?!」  何が起こったかわからなかった。育児による疲労、飲食経営による疲労、突然の衝撃告白により目の前が真っ白になり、右手に持っていたフライパンが落ちて、厨房内に金属音が鳴り響いた。床には、溶けたバターと生焼けの鶏肉が飛びちった。私は、その日作っていた料理を最後に、お客さんに本当に申し訳ない顔をしながら店を5日間臨時休業し、妻と子供を連れて、郷にかえった。  帰って、玄関を開けると同時に従姉妹から頬を思いっきり引っ叩かれた。乾いた音が玄関に響いたが、なぜか痛くなかった。むしろどこか納得した自分がいた。いとこと目も合わす事ができないでいると、遺書と書かれた和紙と束ねられた線香を渡された。和室に横たえられた母と実家を出て以来初めて対峙した。母はあの時より格段に細くなり、髪は白髪まじりになっていた。  線香を立てて、手を合わせたが私は気持ちの整理がつかず、しばらく母の写真の前でボーッとしていた。私が呆然としている中、妻の方をふと見ると、妻は険しい顔をしていないものの、どこか気持ちが晴れ、私の方を気の毒そうにちらちら見ている。私はしばらくの間、呆然としていたが、ふと遺書の事を思い出した。母の字は典型的な達筆であった。『遺書』という字からしみじみと母を感じながら、私は中身を改めた。手紙の内容は初めから、心が締め付けられる内容から始まるものだった。    手紙の内容は、以下の通りだった。 ・喧嘩したことへの謝罪 ・あの時の"世間の目"発言の真相  あの時の喧嘩の謝罪は、私の方からすべきだった。しかし、今現世にいない母からの謝罪に私は虚無感を覚えた。  手紙には、あの時の喧嘩で母が発した言葉一つ一つに対する言及がなされていた。私と違い母は私に対して発した鈍器を覚えており、一つ一つの言葉に対する鈍器に対する謝罪が丁寧に綴られていた。私はここまでですでに、瞳を十分に湿らせていた。そして、あの時の”世間の目”という言葉を発した母の真意は私の瞳から涙を流すのに十分な理由となった。  「あの時、私は貴方に対して”世間の目”と表現しましたね?私はあの時のことを一度たりとも忘れたことはありません。私も心のどこかで引っかかっていましたからね。私は貴方に対して、比較的自由な教育方針をとってきました。貴方が死ななければ何をしても良いと教育してきました。貴方はこの教育方針を忠実に守り、様々な意味で健康に育ちました。私は、嬉しかった。シングルマザーで世間からの冷ややかな目にさらされながら貴方はそんな私のことも世間に対して恥ずかしがることなく打ち明けていました。ここで気になる世間とは、社会のことです。私は、シングルマザーで苦労しました。これはシングルマザーだからというわけではありませんが、やはり苦労は多くありました。貴方がいたからというわけではありません。それは、やはり安定した職についていなかったからです。そういう意味で貴方には安定した大企業で働いて欲しかった。私と同じような苦労をして欲しくなかったから。そういう時、便利だったのが”世間の目”という言葉でした。でも、やはり、私の教育によって育った貴方。やっぱり予想通りの言葉を飛ばしましたね。”世間の目”って何だよって、私はあの時嬉しい反面やはり複雑な気持ちでした。私は”世間の目”という言葉を使って、社会に責任を転嫁しました。私は安定した生き方をしてほしい。私のように苦労して欲しくないと素直に言いたかったんです。それなのに、私は、どこか素直になれず、小さな嘘をついてしまったんです。あの時自由に生きて欲しかったんです。それをダメとは言わなかったでしょう?心では応援していたんです。言葉が足りなかっただけなんです。でも、この手紙を読んでいるっていうことは実家には変ええてきてくれたんですね?ありがとう。私は、貴方を責めるつもりはありません。貴方のことでしょうから、深く考えてしまうかもしれませんが、私はそれを望みません。強いていうなら私がついた小さな嘘を許してください。 最後に、ありがとう 」 「うそつき...」 気づいた時、私は遺書の両端をぐしゃぐしゃにしていた。また、和紙の遺書は私の涙のせいでインクが滲んでいた。これまで抑えていたものが全て流れていた。 その様子を母は笑いながら、棚から額縁越しに見ている。 「......うそつき」
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