「行かないで」を言えなかった。

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

「行かないで」を言えなかった。

たった5文字が言えなかった。 そんな簡単なことをどうして言えなかったのだろう。 勇気があれば、彼を引き留めることだってできたはずなのに。 俺はひとり、カインの店に戻った。何もできなかった。 裏口の横で彼はタバコを吸っていた。 どうやら休憩中らしい。 ひとりで戻ってきた俺を見て、何も言わなかった。 「そうか……無理だったんだな」 彼はそれ以外、何も言わなかった。 「藍の決意はそれだけ固いみたいでした」 「これからどうするつもりなんだろうな。アイツ」 「分かりません。もしかしたら、死ぬつもりなのかもしれません」 「ロボットが自殺する時代がついに来たか」 「彼以外にはできないことなんでしょうけどね」 全てひとりで背負わなくてもいいのに。 その荷物は、彼が背負うにはあまりにも重すぎる。 せめて、少しでも分けてほしかった。 そうすれば、一緒に戦えたかもしれないのに。 孤独じゃないことを理解してほしかった。 彼を待っているのは、茨なんてものじゃない。 地獄の業火の中を進むようなものだ。 その先に、エルダはいるのだろうか。 彼女の存在を感じているから、自らその道に飛び込んだのだろうか。 「最後までよく分からない奴だったな。 人間臭いのを必死に隠そうとしててさ……」 「さっきまで、話してたんですよね。 藍、なんて言ってました?」 「エルダのこと、まるで恨んでもいないらしい。あの女がいたからこそ、自分がいる。 感謝してるんだってさ」 嘘のような定型文だ。 嘘であってほしいと、願ってしまう。 「アイツの本音、一度でいいから聞いてみたかったもんだな」 今思えば、本音で話し合えたことは一度もない気がする。 その判断は自分にはできないが、少しでも話せば気は楽になったはずだ。 「あの女もあの女だよ。すべてうやむやにしたまま捕まっちまってさ。 俺らに少しくらい話してくれてもよかったのに」 死後の世界には何もない。目の前の男は以前、そう語った。 残された奴が悲しまないように、エラそうな奴が適当におとぎ話を作っただけだ。 どこまでも残酷な意見でありながら、これほどまでに的を射た話もない。 「行かないでって、言えばよかったのかな。 何を言えば、彼はここに残ってくれたんでしょう」 首を横に振った時の、彼の表情が忘れられない。 少なくとも、別れ際にする表情じゃない。 「……何を言っても、アイツは出て行ったと思うよ。 そういうところだけ、エルダに似てるんだよ」 「そうかもしれませんね」 どうしたら、よかったのだろうか。 隣にいないだけで、こんなに頼りなく感じるなんて思わなかった。 エルダが捕まった時、藍は「心に穴が空く」ような感じがしたらしい。 それが今、ようやく分かった。 これは大切な友を失った悲しさであり、寂しさでもある。 彼はゆっくりと紫煙を吐き出した。 俺は大切なものをなくしました。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!