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「戻りたい」が言えなかった。
たった5文字が言えなかった。
それを言ってしまえば、楽になれるかもしれない。
しかし、同時にそれを許せない自分がいた。
カインの店を後にした後、俺はふらふらと住宅街をうろついていた。
彼と話し合ったことで、かなりすっきりしていた。
しかし、どこかでもやもやとした部分が残っていた。
これでようやく荷を下ろせたと思ったのに。
素直にこの町から立ち去れないのは、まだ未練があるかだろうか。
エルダと過ごしたこの町を捨てることはできない。
今ならまだ何とかなるかもしれない。
心のどこかでそう叫ぶ自分がいる。
今は必死に無視をする。無視する以外に、方法がないのである。
「藍!」
後ろを振り返ると、ヴィオラが駆け寄ってきた。
彼は最初で最後の友人だった。
それも人間ではなく、機械の友人だ。
この町に来て、初めてできた。
もう二度と会わないつもりだったのに。
「ようやく見つけた……カインさんのとこに行ったって聞いたから。
あの後、必死に探し回ったんだ」
GPSはおろか、ネットワークも切っている。
外部との情報伝達はできないようにしていた。
誰にも見つからないと思っていたのに。
自力で見つけたとしたら、すごい執念だ。
ヴィオラは俺の腕をつかむ。
「ほら、戻ろう。みんな待ってるんだ」
つかんだ腕を引っ張る。
かたくなに動かない俺を見て、不思議そうに首をかしげた。
「俺は戻らない」
「え……」
「俺がいても迷惑なだけだよ」
主人であるエルダがいなくなった今、俺は処分される対象だ。
今頃、研究機関の職員が血眼で探し回っているだろう。
黒歴史を排除するために、走り回っている。
機械によって作られた「心」を消し去るために、俺を探している。
そもそも、彼はエルダとは無関係だ。
こんなくだらないことに巻き込まれるべきじゃない。
エルダとお互いに同じ思いを抱いていた。
彼だけでも逃がさなければならない。
「お前は好きなように生きればいいんだ。
もっと自由に、今までできなかったことをすればいい」
エルダにさんざん言われてきた言葉をそのまま伝える。
今の俺が言ったところで、説得力はほとんどないのは分かっている。
心を持ち、主人に反抗できる俺だからこそ、エルダは何度も伝えていたのだろう。彼女がいなくなった今、俺にできることはない。
「だから、俺のことなんて気にしなくていい」
ただ、そう簡単に壊されてやるつもりはない。
ひたすらに逃げて、どこかで朽ち果てるだけだ。
「そんなの、藍が決めることじゃないだろ!」
ヴィオラは声を荒げた。
普段、性格が穏やかなだけに想像もできなかった。
「確かに藍は不良品かもしれないけどさ。
機能面だけを見たら、俺より劣ってるかもしれない。
けど……」
「けど?」
「それでも、俺は迷惑だとは思わない。
そんなこと言ってたら、俺なんか廃棄されててもおかしくないし」
ヴィオラは俺たちの住む屋敷の警備を任されていた。
エルダを狙う人物を何人も退けていた。
裏を返せば、それだけの人数を傷つけてきた。
彼に心はないから、人を傷つけてきたことに悲しむことはない。
ただ、危険な存在であることには変わりはない。
「だから、一緒に戻ろう?
もしかしたら、俺たちを引き取ってくれる人が現れるかもしれないし」
彼は腕をさらにぐっとひっぱる。
その希望にすがることができたら、どれだけよかっただろうか。
「ごめんな」
俺は何度も首を横に振った。
彼の手を振り放し、俺はまっすぐ道を進んでいった。
***
ヴィオラを置いて、すべてを捨てて町を出た。
何もかもを吐き出して、本音を言ってしまえばよかったのだろうか。
「戻りたい」って。「行きたくない」って。
そういえばよかったのかな。
ぎりと、奥歯をかみしめる。
すべてを置いて、俺は一人旅立つ。
この声は誰にも聞こえない。
ひとり、そっとつぶやいた。
「俺は大切なものをなくしました」
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