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「ねえ、結城くんは覚えているかしら?」
公園のベンチに座っている彼女が言った。この公園から街が見下ろせる。公園といっても遊具はブランコやすべり台だけで、後はベンチが二つあるだけの小さい空間だ。街の高台に位置しているせいか、遠くに立ち並ぶビルと手前に見える家々の風景のコントラストが良く、夕暮れ時などには天空にでもいるかのように感じてしまう。
「え?」
「私たちが出会ったあの日から5年も経つのよ。あの時の夕日もきれいだったわ」
「あっ…、そうですね。そんなになるんだ」
「本当にそうね」
「……」
その時、春風がすっと僕らの間を吹き抜け、彼女の肩にかかる黒い髪が優しく揺れた。白いワンピースが良く似合っている。僕は、彼女のことが気になっていた。
彼女と初めて出会ったのは、夕焼けがきれいなあの日だ。僕は彼女が座っているベンチに近寄った。ベンチに座っていた彼女が僕を見て挨拶をしてきた。
「こんにちは。」
たったこれだけの言葉なのに、なぜか急に彼女の艶のある唇に、一瞬で心を奪われた。形がきれいというだけではない。薄紅っぽい色をしているのだが、夕陽が当たって、もっと妖艶に見える。笑う時に口角がきゅっと上がる所も、何もかもが個人的に好みだった。
それと同時にこんな想いに駆られたことに焦りを感じていた。
「こんにちは。きれいな夕日ですね」
彼女に声をかけられて、慌ててそう返す。
にこりと微笑んでくれた。柔らかそうで口角の上がった唇から目が離せなかった。彼女の顔を見ているのだと思ってくれたらと祈りながら、隣のベンチにゆっくりと腰をかけた。
「私、ここから眺める夕日が大好きで。毎日来ているんです」
「僕は、今日初めて公園に入りました…」
僕は、夕日に照らされた彼女の唇の美しさに見とれていて気の利いた言葉が出てこない。こんなこと初めてだった。
今まで誰に対してもそんな気持ちを持ったことはない。どうしても彼女の唇に引き寄せられてしまう自分に戸惑っていた。
それから僕らはだまってそこに座って景色を眺めているふりをしながら時々チラチラと彼女の唇を盗みみていた。
夕日が翳る頃、彼女の唇がそっと動いた。
「私、そろそろ行かなくちゃ。これから仕事なんです」
ベンチを立とうとした彼女に名前を聞いてみた。
「あの、お名前は…?」
「立花ユリといいます。じゃあまた」
「僕は、結城といいます」
彼女はにこりと微笑んで、ワンピースの裾をなびかせながら、ゆっくりと公園を出ていった。僕は彼女の姿が見えなくなるまで見つめていた。そして、彼女の美しい唇だけが頭に残り、何度も思い出していた。
僕は、彼女の美しい唇に恋をしてしまったようだ。そんなことを考えてはいけないとは思いつつも、仕事中も彼女の「じゃあまた」の唇の動きが頭から離れなかった。
翌日、僕は午後の同じ時間に公園へ向かった。道中、どこからか桜の花びらが舞っていた。この近くには桜の木は一本もないし、4月も終わりだというのにまだどこかで咲いている桜の花がここまで風に乗ってやってきたらしい。
公園に着き、ベンチに座ろうとしたとき、急に雲行きが怪しくなってきた。あっという間に、雨が降り出しそうな灰色の雲が空を覆っている。さっきまでの青空はどこへ行ったのだろう。これでは夕焼けを見ることはできない。
ベンチの座面に水滴がついている。小雨が降り始めた。手のひらを上にして雨の強さを見てみる。細かい雨粒を感じる。
腕時計を見ると、もう5時半を過ぎている。彼女はまだ来ない。それも当たり前だ。小雨になり、しばらくするとベンチの脇に植えられているナナカマドの青々とした葉からも雨滴が落ちてきた。もう今日は彼女は現れないかもしれない。そう思いながらも僕は、彼女を待っていた。
「結城さん?」
その声に振り向くと、ビニール傘を差し、公園の入り口に立っている彼女がいた。
「ユリさん!」
僕はベンチから立ち上がると急いで彼女の所へと走った。僕は精一杯笑って見せた。彼女はちょっと困ったような笑顔で言った。
「やっぱり来てくれたんですね」
「こんな雨なのに…。もしかして、昨日言ってたから待っていたのですか?」
「はい。」
そう返事をすると、ますます彼女は困った顔をした。僕は彼女に近づきすぎたのかと一瞬不安になった。
「ごめんなさい。仕事が長引いてしまって。濡れてしまって、風邪をひきますよ」
彼女の優しい言葉に救われたような気がしてきた。
「私の職場、すぐそこなんです。衣服を乾かさないと」
「ありがとうございます。大丈夫ですから」
「私、そこの病院で医師をしているんです」
僕のことを気にかけてくれる彼女に好意を見た気がした。彼女の傘に入れてもらい、病院に着くと、彼女は看護師に何かを言っているようだった。一度だけこちらを見て笑顔を見せてくれたが、別の看護師と共に院内にのどこかに行ってしまったようだ。
濡れた服を脱ぐと、看護師が持ってきた白衣を着た。しばらくすると、さっきの看護師が乾かした僕の服を持ってきてくれた。
それからの僕は、何日も同じ時間に同じベンチで彼女を待つようになった。晴れて夕日が見られる日も、曇っている日も彼女は僕のそばで笑顔を見せてくれた。その度に、彼女の話を聞き、唇を見つめていた。
ついに僕は彼女の唇にどうしても触れたくなって、その想いを止めることができなくなっていった。理性をおさえこめることが苦しくなっていった。
こんな気持ちを持つことはいけないとわかっていながら、気持ちを止める方法を探していた。
彼女の「こんにちは。」ってかけてくれる言葉には温かさ感じていたし、話もきちんと聞いていた。だが、唇の美しさや妖艶さを感じる動きには気持ちをおさえるのが難しかった。
5月に入って、僕はとうとう感情を抑えることができず、ゆっくりと彼女の顔を見て、頬に触れ、唇を重ねてしまった。本当はこんな事をしてはいけない。それはわかっている。でも、僕は欲望に負けてしまった。
彼女の唇は、想像していたよりもずっと柔らかく、しっとりとしていて、温かだった。この世のものとは思えない最高の感触に自分を見失ってしまっていた。
僕が唇をそっと離すと、彼女は驚きを隠せない表情をしたかと思うと、僕と会うのは初めてだというような顔をした。
そして、何かを思い出したようにこう言った。
「ねえ、結城くんは覚えているかしら?」
彼女の記憶がまた初めからになっている。もう何度目だろう。
医師である僕は、患者に対して特別な気持ちを持ってはいけない。そんなことはわかっている。どんな事情があろうとも、患者の唇に触れてしまうなんてことは許されない。それにこんな行動をしてしまったことも…。
わかっているはずなのに、どうしても彼女の境遇に、封じ込めてしまった記憶に対して衝動を押さえることができなかった。「触れたい」という欲求を抑えられないなんて、医師として失格だ。
「覚えていますよ」
そう言って、彼女に話を合わせて、一緒に公園から出て病院に向かった。
「あら、今日は先生が連れて来てくださったんですね」
「あぁ、今日くらいはね」
「さぁユリさん、病室に行きましょうか」
そう言って看護師が僕に代わって、彼女の手を引いて病室へと促した。
「結城先生、カルテ入力をお願いします」
「わかった、今行きます」
そう言って診察室に入ると、看護師が立花ユリのカルテ画面を出しておいてくれた。入力していると、看護師が聞いてきた。
「先生、立花さんの妄想は、良くなることないのでしょうか?」
少し哀れみ混じりの声だと思った。
「彼女は、重度の妄想性障害だからね。しかもPTSDもあるから、難しいところだよ。今のまま、ここにいた方がいいんじゃないかな」
「でも、珍しいですよね。彼女の妄想。自分が医者で、先生のことを妄想性障害の患者だと思ってしまっているだけでなく、同じ部分を何度も繰り返しているんですものね。」
「ただ彼女は僕のことを救おうとしてくれているのは確かだよ」
ユリさんは、確かに僕を救おうとしてくれた。僕は、そんな彼女の妄想の世界に半分ほど引きずりこまれたのかもしれない。そして、彼女の魅力に囚われた。彼女の毒気に当てられただけだったのか、それとも恋だったのか。何にせよ、僕はもう彼女の唇に触れるようなことはしない。やってはいけないのだ。
彼女は今、また僕と出会い、僕を助けるという何度目かの妄想の中にいる…。
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