カンダタの糸は深海に堕ちて

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 ゴポポ……。 「……調子はどう? リョウジ」  マイクをオンにして、探査艇に様子を尋ねる。  確認半分、励まし半分。何しろいくら最新型の探査艇とは言え、これが初潜航なのだ。それも最初から8500メートルへの挑戦。潜航開始から3時間という道のりだが、それも後少し。  太陽の光はとうに届かない。べったりと纏わり付くような暗闇に覆われているのが、海上に待機する支援船のモニターからでも伝わってくる。  光の届かぬ深い海は震えるほどに恐ろしい。  若い頃は深海生物調査で人類の限界深度に挑んできたものだが、視界の利かない大深度の潜水は時として上下左右の感覚とて失う事がある。  そこは、いつ何処から深海サメやダイオウイカのような凶暴な生物に襲われるかも知れない世界。或いは装備に不具合が生じでもしたら、それで終わり。  ヒシヒシと精神を蝕む、その耐え難い恐怖が深海の闇なのだ。  狭くて暗い艇内はさぞかし心細いだろう。  例え保証された頑丈な耐圧殻に守られているとは言え、暗黒の世界へ降下していくのは慣れていても気分のいいものではない。 《やぁ、キョウコ。こっちは順調だよ。ま……少しばかり街の明かりが恋しくなって来た頃合いかな?》  探査艇からは軽口が返ってきた。  以前の探査艇は交信を音波に頼っていたが、今回投入した『かいこう12000』では糸のように極細の光ファイバーケーブルを併用している。有線は破断のリスクもあるが信号伝達速度と情報量が桁違いだから、軽口を叩く声が微かに震えているのも手に取るように伝わってくる。 「街の明かり? ふふ……『夜の街』の間違いじゃないの?」  気づかないフリをして笑って返す。  そうね……例え一緒にいる相手がではなく、心細いのは変わらないでしょうから。 「『かいこう12000』、深度8500メートル。海底まで残り3メートル……2メートル……1メートル……着底です!」  エンジニアが私の方を向いて大きく頷く。 「やりましたね、大島先生。日本記録ですよ」  胸にでかでかと会社のロゴが入った長袖の作業服を着る飯島が、握手を求めてくる。 「ええ、ありがとう」  仕方なく、握手を返す。いくら探査艇メーカーの担当とは言え、こんなイケてない中年太りと触れ合いたいとは思わない。私にとってそれは、夫であるリョウジ以外にはありえないのだから。  ……ああ、早くあなたに会いたい。  と、その時。  ビィィ……!  船内に警報が走る。 「何事っ?」  振り返って叫ぶと、エンジニアが真っ青な顔をしていた。 「大変です! 『かいこう12000』で異常発生! システムの一部が動作不能(フリーズ)です!」
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