風に言葉を感じてー1

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          昔 東京の片隅で 第9話                【1】  わたしの詩集を買ってくれませんか。  わたしは風に言葉を感じて、それを文字にしているのです。    ある日曜日の午後、JR目黒駅に面した歩道の(かたわ)らで、ひとりの少女がそんなプラカードを首から下げて、詩集を売っていました。  少女は今年、高校を卒業したばかりでした。  お父さま、お母さま。  一年だけ、わたしのわがままを訊いてください。  わたしは風に、言葉を感じるんです。  だからそれを詩集にして、多くの人に読んでもらいたいんです。  もしも誰も読んでくれなかったら、わたしは、お父さま、お母さまの言うことを訊いて、大学に進学します。専門学校に行きます。あるいはどこかの会社の、OLになります。  少女は両親とそう約束して、日曜日になると目黒駅に近い歩道で、自分が書いた詩集を売っているのでした。  わたしの詩集は、いかがですか。  風の言葉は、いかがですか。  わたしは風に、言葉を感じるんです。  風のささやきが、言葉に聴こえるんです。  そしてわたしは、その言葉を文字にして、詩にしてるんです。  少女は通りすがりの人々に、そう呼びかけました。  のんびりと、ウインドウショッピングを楽しむ女性。  高級そうな背広を着て、早足で通り過ぎる男性。  手をつなぎながら、楽しそうに歩いているカップル。  けれどそんな人々は、少女がそこにいることすら気づかず、そのまま通り過ぎていってしまうのでした。  思い起こせば、先週も先々週も、ずうっとその前もそうでした。  通行人は誰ひとりそこに立ち止まって、少女に気づいたり、少女の詩集を手に取ろうとはしなかったのです。  やがて夕暮れになりました。  今日はもう、店じまいしよう。  少女は暮れなずむ空を見上げ、売り物の詩集を片付けてから、とぼとぼと権之助坂を下りました。  権之助坂を下ると道は、目黒川を渡る橋になります。  少女はその橋の上から、目黒川を見下ろしました。  それから少女は、誰に語るというわけでもなく、つぶやきました。  あなたは小鳥の啼き声や、犬や猫の鳴き声が、言葉に聴こえますか。  あるいは黄昏の《たそがれ》の空のうつろいでいく姿に、ささやきを感じますか。  わたしはそんな情景に、言葉を感じるんです。  その言葉を伝えたくてわたしは、詩を書きました。 けれど誰もが、その詩を手に取ってはくれないのです。  やがて少女は目黒川の水面(みなも)に、たくさんの病葉病葉(わくらば)が浮いていることに気づきました。その病葉は、流れに身をまかせ、ゆっくりと少女から遠ざかっていきます。  そのとき少女に、あるアイディアがひらめきました。  そうだ。わたしの詩集を読んでもらう、いい方法がある。  来週の日曜日に、それをやってみよう。  そうしてわたしは多くの人に、わたしが書いた詩を読んでもらうんだ。                【2】  少女の詩集は、100ページ、100篇の詩を片面コピーして、それを簡易製本機で閉じたものでした。  少女はそれをバラバラにして、100枚の紙にしました。  そうして少女はその一枚一枚に手書きで住所を書きました。  名前は自分の苗字のあとに、『名もなき詩人』と書きました。  これで準備が整いました。   少女はこの詩を一枚一枚、通りすがりの人に渡すのです。  そうすると通りすがりの人々はそれを読み、風に言葉を感じる、少女の詩集を買うに違いありません。  少女は思いました。  そうだ。わたしは詩集を買ってくれたすべての人に、お友だちになってくださいと言おう。だってその人たちは、風に言葉を感じるわたしを、分かってくれり人たちなのだから。  翌の日曜日の午後。少女はいつものように目黒駅前の歩道に立ち、自分の詩集を売り込みました。  わたしの詩集を買ってくれませんか。  わたしは風に言葉を感じて、それを文字にしているんです。  けれど街ゆく人々はやはり、誰も少女を気にはとめませんでした。  それは少女が目黒の街に、すっかり溶け込んでいたからでしょうか。  それとも少女が、目黒の街の一部になってしまったからでしょうか。  いいえ。ほんとうは、そのどちらでもないのです。  それは少女の存在があまりにも小さすぎて、少女は目黒では路傍の石ころという存在でしかなかったからなのです。  少女は街ゆく人々に、一篇ずつの詩を手渡しました。  もちろん若い人を中心に、詩を分かってもらえそうな人を選んで、詩を渡したのです。  わたしの詩集を買ってくれませんか。  わたしは風に言葉を感じて それを文字にしているんです。  夕方近くになって少女は、100篇の詩すべてを配り終えて店じまいをしました。  結局詩集そのものは今日も、一冊も売れませんでした。  けれど今日は100篇の詩を、街ゆく人たちに渡したのです。  その人たちは絶対、わたしの詩集を読んでくれる。買ってくれる。  少女は少しううきうきして、いつものように権之助坂を下りていきました。  やがて坂道は、目黒川を渡る橋に差し掛かります。  そして少女はいつものようにそこに立ち止まり、目黒川を眺めました。  そのとき少女はあることに気づき、おや、と思いました。  少女が目を凝らして目黒川を見ると、その水面(みなも)にはたくさんの紙が浮かんでいるのです。  さらに少女がよく見てみるとそれは、少女が道ゆく人々に手渡した、風の言葉の数々でした。  晩秋の頃目黒川には、たくさんの落ち葉で埋まります。  また桜咲く春はその花びらが、目黒川を埋め尽くしてしまいます。  けれど今、目黒川に浮かんでいるのは、少女が道ゆく人々に手渡した風の言葉の数々でした。   少女が道ゆく人々に手渡した風の言葉たちは今、都会のゴミとなって目黒川に浮かんでいるのでした。  少女の目からは、とめどなく涙があふれました。  少女は声を殺して、くやし涙を流しました。  もうわたしは風の言葉を、文字なんかにしない。  詩集にして、みんなに読んでもらおうなんて思わない。  風の言葉も、わたし自身も、今、ここからすべてなくなってしまえばいい。  消えてしまえばいい。  少女がそう思ったとき、ふと少女は背中に、風の言葉を感じました。  振り返るとそこには、メガネをかけた若い女性が微笑んでいたのです。  この詩を書いたのは、あなたなのですか。  その女性は少女が書いた風の言葉の詩に興味を持ち、そう少女に訊ねたのでした。  少女が黙ってうなずくとその女性は、  その詩集を売ってください。五百円でいいんですよね。  やがて女性は少女から詩集を受け取り、軽く少女に手を振ってから、大鳥神社の方に歩いて行きました。  橋の上で立ち止まる少女の手には、五百円玉が残されています。  この五百円玉は、初めて少女の詩集が売れた対価です。  少女はその五百円玉を握りしめて、この五百円玉を一生の宝物にしようと思うのでした。  でも少女はそのとき、大事なことを忘れていたのです。  わたしとお友だちになってください。  少女は詩集を買ってくれたすべての人々に、そう言おうと思っていたのに、少女は一番最初に詩集をかってくれたその女性にさえ、その言葉を言うのを忘れていたのでした。  やがて少女は、家路につきました。  星なんて見えません。  都会では星なんて、滅多に見えることなんてないんです。  たとえ見えたとしてもそれはぽつりぽつりとしていて、あまりにも多くの願いを叶えるには、小さな存在でしかありませんでした。  少女は歩きました。  両親と猫がいる自分の家に向かって歩きました。  すると風が少女に、何かをささやきました。  そのささやきは少女には、こんな言葉に聴こえたのでした。  水面(みなも)に落ちたぼくたちの言葉を今、目黒川が読んでくれましたよ。  目黒川はそれを海まで運んで行って、もっと多くの海で暮らす生き物たちに、読んで聴かせるのだそうです。  あなたの詩集は、決してゴミではありません。  なぜならばあなたの詩集は、ぼくたちの言葉だからなのです。                         《この物語 続きます》  
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