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人に好かれるのは――ある種の努力なんだと、俺は思う。
例えばクラスメイトの衣笠。彼女は典型的な八方美人で、どこのグループにも属さない代わりに、誰かに嫌われることもない。クラス内のヒエラルキーとは別のところにいる。
いわゆる『ぼっち』とも違うのは、彼女は誰にでも優しく、とても気が利くという点だ。
ほら……ああやって、すぐ手伝おうとする。
「可愛いよなぁ、衣笠さん」
俺の独白に割り込んできたのは、前の席に座る亀井。どかりと俺の机に頬杖をつき、細目を薄く開けている。
「朴念仁の相馬でも、気になっちゃう感じ?」
「いや別に」
「嘘つけ。ずっと見てただろ、なめまわすように」
「お前と一緒にするな。俺は二次元に夢中なんだよ」
「うっわぁ、高校生にもなって言うかね、恥ずかしげもなく」
「嘘をつかないからな、こいつは」
そう言って手元の文庫本に目を落とす。残すところ十ページ余り。物語が終わりそうになって、さっきは軽く目を逸らしていただけだ。
「しっかしマメだよな、衣笠さん。当番制なんだから任せとけばいいのに」
「好きなんだろ、人助けが。亀井も見習ったらどうだ」
「無理。てかさ、あんなんしてたら勘違いしないか?」
「何を」
「そりゃあ……ちょっと俺に気があるんじゃないかって、そういうのだよ」
「まあ誤解する奴も居るんだろうな。お前みたいに」
「けっ、言ってろ。つかよ、相馬は何か手伝ってもらったことねぇの?」
文章から顔を持ち上げ、まばたきを数回。
「無いな。断ってるから」
「……マジかよ」
まるで珍獣でも見るかのような亀井。俺にしてみれば、衣笠に頼る方が変だと思うんだが。
好きで人助けをする分には構わない。けれど、それを嫌う人間だって居るんだ。他人の善意や親切を、押し付けがましいと思うのも、また勝手だろう。
「断るって、いつもか? どうして」
「いや当番制だし。衣笠に借りなんて作りたくないしな。何回か断っていたら、最近ようやく諦めたらしい」
「……それ、普通に嫌われただけじゃね? たぶん向こうは借りなんて思ってねぇぞ」
「そうかもな」俺は読みかけの文庫本を閉じて、「好きでやってんだろうから」と授業の準備を始めた。
亀井は呆れながら、「本当に二次元にしか興味が無いのな、お前」と正面に向き直る。
「放っといてくれ」
恋愛に興味が無いわけじゃない。ただ、好きになる人が居ないだけ。
偏った本ばかり読んできた所為か、どうにも『外面の良さが全て』だとは思えない。
俺は内面で人の好き嫌いを選ぶ。それで俺自身が嫌われることになったとしても……自分を偽るよりは、マシだと思うから。
後ろ向きな努力は不幸でしかない。
読んできた登場人物達の末路と、自分自身の経験則が、それを裏付けている。
午後の授業は座学のみ。秋晴れと涼風が、徹夜明けの目蓋を重くさせた。
▲▽▲▽
何か恐ろしい感情が湧き上がって、ぶるぶると身体が震えた。
教科書という名の枕から顔を上げると、いつの間にか教室は茜色に染まっている。
かろうじて覚えているのは、帰りのホームルームで終礼したところまで。
やってしまった――ことは仕方がない。俺は誰も居ない教室で背伸びをして、大きく息を吸った。
すっと冷たい空気が肺に満ちる。やけに肩が寒いのは、窓が開いていたからか。ご丁寧なことに、俺の席に近い窓だけが隙間風を吹かせている。
寝起きの固まった身体に鞭打って、笛の音が鳴る窓を閉めた。
グラウンドを眺めると、部活終わりの生徒達が正門の方へと歩いていく。閉門時刻より前に起きれただけ、まだラッキーだと思うべきか。
「……相馬くん?」
ぎょっと心臓が縮んだ。窓ガラスに反射した声の主は、衣笠だった。栗毛色の髪が差し込んだ夕日によって、鮮やかに映えている。
「驚かすなよ」と、俺は平静を装って振り返った。別に物怖じしない訳じゃないが――女子の手前、変に強がってしまう。
「あ、ごめんなさい。まだ寝てたんだと思って」
衣笠にしては妙にトゲのある物言いで、少し意外だった。お節介を断った後は、いつも申し訳なさそうな表情で謝るだけだったのに。
「……忘れ物か?」
なんとなく口が滑ったのは、そんな衣笠が気になった所為か。
額に冷たい汗が滲む。放課後の教室に二人きりとか、俺には絶対に訪れないシチュエーションだと思っていた。
正直、居たたまれない。
「うん、部活終わってから取りに行こうって」
「あー……そっか。んじゃ、俺帰るわ」
自分から会話を振っておきながら、早々に切り上げる。亀井よ、認めてやろう。俺は高校生にもなって恋愛下手だ。異性とは何を喋っていいのか分からん。
せかせかと教科書を机の中に押し込み、帰り支度を済ませていく。
文庫本を手に取り、カバンに仕舞おうとしたところで――
「待って、相馬くん」と、呼び止められた。
ピンと空気が張って、息が詰まるのを感じた。
衣笠を見ると、咄嗟に出た言葉なのか、よく分からないといった具合だ。胸に手を当て、なんとか次の台詞を探そうとしている。
「聞きたいことが、あって」
その一言で、帰る気が失せた。
察した――という方が正しいか。
「相馬くん、さ……きっと私のこと……嫌い、だよね?」
「好きではないな」
間髪入れずに頷く。
衣笠は、そんな俺を見て何故か安心したかのように、強張る肩の力を抜いた。
「どうして?」
「言わなきゃ駄目か、それ」
「お願い。知りたいの。私、相馬くんに何か悪いことした?」
「してないな、まったく」
誰にでも優しい。頼んでも断らないし、頼まれてもいないのに親切だ。邪魔にならない程度の能力だってある。皆に対して平等で。適度に察しては、笑顔を振りまく。
そんな八方美人が――どうしようもなく、俺は嫌いだ。
「理由を言ってもいいけど、少し待ってくれないか」
「え……?」
「こいつを片付けたいんだ」俺は手に持ったままの文庫本を見せて「五分で構わない」と言った。
初めは意外そうにしていた衣笠だったが、「それで話してくれるなら」と小さく首を振った。
「じゃ、遠慮せずに」
俺は机に腰掛け、しおりを挟んだページまで捲った。
誰も何も喋らない。ただ静かに時間が過ぎていく。
あらかた予想していた通り、結末はハッピーエンド。物語を締め括る後日談は、もう続きが無いことを暗に記していた。
この作者は残酷だ。『ひょっとしたら』も匂わせないで、風呂敷を畳むように終わらせてくる。主人公格は元より、サブキャラクターまでもが幸せになっていく。
なんて爽やかな気分なんだろう。この後で俺は、衣笠に嫌ってる理由を言わなければならないのに。
ふっと息を吐いて、俺は文庫本を閉じた。徹夜して読んだ甲斐があったと、そう心から思える。
「相馬くんって……本、好きだよね」
たった五分の間に、教室は随分と影が差していた。衣笠の明るめな髪色も、また彩りを変えている。
「嘘をつかないからな、こいつは」
「え、でも小説って――」
「全部フィクションだって言いたいんだろ。だから嘘が無いんだよ」
人生みたく中途半端に終わらないで、皆が不幸せになることもなく、解決しない問題だって残らない。
そんなハッピーエンドが――俺は好きで好きで堪らない。
手が届かないから、伸ばしてみたくなる。
「俺が衣笠を好きになれないのは、嘘しかない生き方だからだ」
見ているだけで、嫌でも過去の自分を思い出す。
誰かの顔色を窺いながら、思いやりという名のご機嫌取り。周りから必要とされない自分が、何より気味が悪い。
「そういう生き方は中学で辞めたんだよ、俺」
「そんなの――そんなの、私の勝手じゃない!」
衣笠が怒鳴ったのを、俺は初めて聞いたかもしれない。二人だけの教室に反響した声が、いつまでも耳の奥に張り付いている。
「私、相馬くんに悪いことしてないでしょ? だったら空気読んでよ! なんで断るの!? 分かってるなら邪魔しないでよ! し、信じられない。もう嫌いなままでいいから、皆と同じようにして!」
「嫌だ。お前が勝手なら、俺だって勝手にするさ」
「子供じゃないの」
「子供だろ、お前も俺も。大人ぶってんなよ」
あからさまに睨んでくる衣笠。晴れて嫌われたようだ。良かったな、亀井。
衣笠がしてきた努力を、俺は笑ったりしない。他人に優しくなれるのは、素敵なことだ。気の利かせ方も一朝一夕じゃ上手くいかないだろう。
だけれど肯定はできない。自分に嘘をつき続けて、壊れる寸前まで気付かなかった身としては。
今の衣笠を前に動揺しないでいられるのは、やっぱり歩んできた道が同じだから。俺の場合は、散々枕の中に叫び倒した怒りだ。
どうにもならないことは、どうにもならない。そんな当たり前を飲み込んで、やっと自分を納得させた。
「……相馬くんは、どうして平気でいられるの?」
説得が無意味だと悟り、我に返ったのか、掠れた声で訊く衣笠。俺はカバンに文庫本を入れて、後ろ手に担いだ。
「誰かを好きになった時、本当の自分じゃなきゃ嫌だろ?」
答えはシンプルで。それ以上の意味も無くて。
だから俺は、立ち尽くした衣笠を後に、暗い教室を出ていった。
▲▽▲▽
翌日、朝のホームルーム前。
がやがやと騒がしい教室の中で、俺は新しい文庫本を開いていた。出だしということもあって、中々に壮絶なストーリーが展開されていく。こいつも目が離せそうにない。
「よー、相馬。それ今週で何冊目だ?」
相変わらずの厚かましさで、俺の机に頬杖をつく亀井。読書中もお構いなしだ。
「三冊目」
「好きだねぇ、二次元。飽きてこない?」
「こない。読んだ分だけ身になってるからな」
「わっかんねー!」
「読書すらしない奴には分からんだろう」
ふんと鼻を鳴らして、俺はページを捲る。
と、不意に上から伸びてきた指先に、文庫本が奪われた。正面には横を向いて驚いた顔の亀井。パントマイムのように手が固まったまま、俺も盗人を目で追った。
読みかけの文庫本を無慈悲に閉じ、そっと机の上に置いたのは――衣笠。
「何をする」
「私、相馬くんのこと嫌いになったの。だから嫌がらせ」
小悪魔のようにクスクスと笑って、さっさと立ち去る衣笠。そんな彼女を見て細目を開き、あんぐりとした口の亀井。
「おま、おま、お前っ……衣笠さんと何があったん!?」
「見て分かれ。嫌われたんだよ、俺は」
「どう見ても嫌われてねぇだろうがぁ!」
やかましいな。これじゃあ本の続きが読めないじゃないか。
閉じた文庫本を手に取って、俺は嫌がらせしてきた張本人に目をやった。
ようやく開いた、青春の一ページ目。
どうやら俺にも、好きな人ができたらしい。
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