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「ヘロドトスって何だっけ?」
……何だっけ?
夕方過ぎの家族の団欒。エビフライを旨そうに頬張りながら、10歳になる息子がそんなことを聞くものだから、僕は少し口ごもった。
……ヘロドトス。聞いたことはある気がするが、何だっただろう。僕は思い出せない。確かに聞いたことはあるのだが、全くもって思い出すには至らない。
息子はじっと僕を見つめて返事を待っている。答えてあげることが親の務めだと解ってはいるが、ヘロドトスに関して断片的にも思い出せないので、少し沈黙が流れる。
僕は息子の隣に座る妻に軽く目配せをした。妻は視線を外す。全てを僕に放り投げる気配が迸っていた。
妻の強引な無視の仕方に多少の苛立ちを覚えるが、10歳の疑問に答えられないとなると、やはり父親の威厳に関わる。妻にも見下される。この場合、妻もヘロドトスを知らないのだから卑下する謂れは無いはずなのだが、でも絶対に見下される。それだけは何としても避けたい。
……どう答えるべきだろうか。
ヘロドトスに対して何か少しでも思い当たるものがあれば、10歳児程度の疑問など上手くはぐらかすことができる気もするが、全く、一片たりとも糸口が掴めない。何か一つでもヘロドトスに関して思い出せる兆しが、気持ち良いほど無い。
息子は真っ直ぐに僕を見つめ、返事を待っている。
早く答えねば、知らないのだと悟られてしまう。
それは良いことではない。
僕はヘロドトスを知らない人間だと、息子の生涯を通して常に見下されてしまうことになる。
ヘロドトスも知らない父親に育てられたのだと、息子に生涯に渡る不信感を植え付けてしまう。
「ねぇ、何だっけ? ヘロドトス」
息子から催促される。
息子は僕から視線を外さない。
何故だ。
何故そんなにヘロドトスに興味があるんだ、この子は。
僕は焦り、再び妻を見る。妻の視線は既にテレビに向いていた。
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