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フクを飼い始めて1年が経った。
仔犬だったフクは立派な中型犬になり、外の散歩も堂々とできるようになった。トイレもなんとか覚え、家の中をもともといたかのように快適に過ごしている。寒い日はたまに私の布団に潜ってくる。仕事から帰ってくると、フクが玄関まで迎えに来てくれるのがとても嬉しい。夕方に、フクの散歩に出るのが私の日課になった。
その日も、仕事から帰ってきてフクの散歩をしていた。家を出て、通っていた小学校やら神社やらを通る。なるべく車通りの少ないところを選ぶ。たまに元バイト先まで足を伸ばして、店長にフクの顔を見せる。フクはもっと早く歩きたいらしく、先へ先へとぐいぐい私を引っ張っていく。
通り慣れた赤い鳥居。愛宕神社は河原の近くにある。河原はフクが好きなスポットで、鳥居の下で河原を眺めたあと、ゆっくりと家路に着く。最近は雨とかあまり降らなかったからか、川の流れが穏やかだ。
ーー鳥居の下で、小柄な老人が立っていた。
サクラダさんだ。
「サクラダさん、お久しぶりです」
顔を合わせるのは、実に1年ぶりかもしれない。フクを初めて店長のところに見せに行ってから、とんとご無沙汰していた。ああ、シエちゃん、久しぶりとサクラダさんは血色のない顔で笑った。そこで気がつく。
「リタちゃんは今日いないんですか?」
「ああ、ちょっとねぇ」
勝手ながら、リタちゃんとサクラダさんはセットなイメージがあった。いつも一緒。まぁ、私がみる時がいつも一緒なだけかもしれないが。
「この道はねぇ、リタとよく歩いたんだよねぇ。あの子は小型犬の割にパワフルで、長い散歩を好んだものさ。この鳥居から見える夕日が好きで、鳥居の中に太陽が入るのが良いだろう?」
全部過去形なのが気になった。私は西の方を見やった。真っ赤な鳥居に夕日が徐々に入っていく。そのうちに川の中に沈むのだろうか。
「シエちゃん、フクちゃん撫でても良いかな?」
私はフクを見た。フクはちょっと神経質そうな顔をしていた。飼っているうちに、犬の個性というものが出てくるもので、フクの場合、身内には容赦なく甘えてくるが、よく知らない人は少し苦手な傾向があった。少し屈んだサクラダさんが触れると、フクはびっくりして体を固くさせた。
「前にリタに吠えられちゃったからねぇ。それがちょっと気になって」
「ああ、あの時」
「あの子、結局最後までシエちゃんに懐かなかったねぇ」
苦い笑いを返すしかない。でもリタちゃんとしては、自分のご主人が他の犬を撫でていたらちょっと嫌だったのだろう。それよりも、最後まで、という単語が気になった。
「犬は可愛いねぇ。従順で一途で、愛想良くて懐っこくて。……だけどどんなに可愛がっても、人間よりも先にどっかに行っちまうんだ」
そう話すサクラダさんは、少し寂しそうだった。リタちゃんがこの場にいないからだろうか。サクラダさんの手がフクから離れた。フクは、あからさまにホッとした雰囲気を出した。
「じゃあね、シエちゃん。フクちゃんと仲良くね」
サクラダさんは軽すぎる足取りで、川の向こうへとふらっと歩いて行った。サクラダさんの家と逆方面だった。緊張を解いたフクが、私の右脛に頭を擦り寄せてきた。
散歩の帰り道、元バイト先に寄ってみた。自動ドア越しにフクを確認すると、福の神のような顔をしてやってくる。さっきサクラダさんに撫でられた時より、だいぶ安心した顔だった。
「そういえばさっき、サクラダさんに会いましたよ」
リタちゃんはいませんでしたけれど、というと、店長は何故か少し笑った。
「またまた、シエちゃん。それ人違いだよ、絶対」
「いやぁ、あれはサクラダさんでしたよ。リタちゃんはいなかったですけど」
「そんなことないって。シエちゃん、たぬきに化かされたんじゃない?」
店長が何を言っているかわからなかった。あれは確かにサクラダさんだった。話の噛み合わないことに気がついた店長が、一つの事実を教えてくれた。
「あれ、シエちゃん。知らないんだっけ? サクラダさん、1ヶ月前に亡くなったんだよ。リタちゃんはその半年前」
「ええ?」
思わず目を丸くさせた。
「そう。1年前に体を悪くしてね。シエちゃんにフクちゃんを紹介するタイミングだったからよく覚えてるよ。それで、通院してなんとかよくしようとしていたんだけど、その前にリタちゃんが亡くなってしまって。そのあとは一気に……だったなぁ」
店長はエプロンのポケットからエコーを一本出して、火をつけた。リタちゃんは普通に老衰だったらしい。朝起きたら冷たくなっていたと。私が会ったあれは、一体、なんだったのだろうか。サクラダさんの幽霊か何かだろうか。
「……あんまり得意じゃないねぇ、エコー。サクラダさん、よくこれ吸ってたよね」
シエちゃん吸ってみる? と聞かれて丁重に断った。
「さっき会ったサクラダさん、フクを撫でてくれましたよ」
それで河原の向こうに歩いていったと店長に伝えた。
「じゃあもしかしたら、フクちゃんを撫でるために、あの世に行くのを少し待っていたのかもしれないねぇ」
そして今頃、あの世で一人と1匹で散歩してるんじゃないかなと店長は付け足した。断ったあとだけど、多分吸わないだろうけど、私はエコーを一箱買ってみた。
オレンジ色のエコーの箱を弄びながら、藍色に染まりつつある道を、フクとゆっくり歩いた。フクはいつもみたいにぐいぐい引っ張らなかった。少し疲れているみたいだった。
「フク」
家の手前で止まって、フクの首っ玉に抱きついてみた。フクの毛並みはふわふわして、けものの匂いがした。フクに触れたサクラダさんの手は、物凄く冷たかったに違いない。リタちゃんを亡くしたサクラダさんは、病気とともに生きる意思を失ってしまったのだろうか。
どんなに可愛がっても、人間よりも先にどっかに行っちまうんだ。
「……今度、ドライブ行こうか」
フクを抱きしめたまま、小さくつぶやいた。
サクラダさんは最後までリタちゃんを可愛がっていたはずだ。たとえ先にどこかに行ってしまっても、その時に後悔してしまわないように。この子と思い切り楽しい時間を過ごしたい。
私の言葉にフクは尻尾をくるんと丸めて、大きく振った。
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