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自動ドアが開かれて勢いよく入ってきたのは、一匹のマルチーズだった。リタという女の子で、彼女は、私の顔を見るなり入ってきた勢いのまま吠え出した。日曜日の夕方六時。いつもの時間だ。リタちゃんに少し遅れて、75歳ぐらいの背の低い老人が店に入ってくる。
サクラダさんだ。
「店の中に犬を歩かせないでくださいって言っているんですが」
「ああ、すまんねぇ。シエちゃん」
すまない、と思ってはいないような軽い謝罪だった。
多少吠えすぎる嫌いはあるが、リタちゃんは可愛い女の子だ。つぶらな黒い瞳に、綿菓子のようにふわふわな白い毛並み。私こそがマルチーズのアーキタイプであるぞと言わんばかりの正統派なマルチーズだ。
サクラダさんはリタちゃんを片手で抱えながら、エコーひとつと私に注文する。私はカウンターに設置した煙草の棚から、オレンジ色の小さい箱を取り出した。エコーやわかばは、メビウスやセブンスターと比べると値段が低い。日本たばこが昔から作っている国内産のたばこだ。根強いファンがいるのだろう。個人の酒屋は、酒だけを売り出しているのではない。小さいスーパーと言っていいものが揃っている。日用品、食料品、それから雑誌だ。
サクラダさんはリタちゃんの飼い主で、私がバイトをしているこの酒屋の裏に住んでいる。夕方のリタちゃんの散歩を日課としていて、散歩の最後にこの店に寄って、たばこと酒やら何やらを買っていく。
「サクラダさん、いらっしゃい。リタちゃんも」
リタちゃんの声に反応して、店の奥から店長が顔を出した。店長はサクラダさんの腕に収まったリタちゃんの頭をいい子いい子と撫でた。動物を店の中に入れない、というのは商店の暗黙のルールとして存在するが、店長は何故かサクラダさんとリタちゃんには甘い。抱っこしていればいいよという空気を醸し出していた。
それにしても、だ。
「……なんで店長には吠えないんですかね」
私はめちゃくちゃ吠えられる。親の仇のように吠えられる。この差はいったいどこからくるのだろう。店長に撫でられてリタちゃんはご満悦だ。私の疑問に、店長はリタちゃんを犬っ可愛がりしながら答えた。
「女同士だからじゃない? 証拠に、うちのカミさんもリタちゃんに吠えられるし」
そういえば、猫は同性を好きになる傾向のある珍しい動物であると一説がある。ならば犬は逆なのだろうか。
サクラダさんはエコーの他に、アーモンドと日本酒のワンカップを購入した。見事にニコチン中毒者と酒好きが買うチョイスである。こんなんばっかり飲んでちゃダメだよ、リタちゃんがいるんだから長生きしないと。そんな気遣いを言う店長は、次の瞬間、サクラダさんに新作の酒の紹介をしていた。気が向いたら買うよと言って、サクラダさんは勘定を進める。気が向いたら買う、なんてことはない。いつだってサクラダさんが買うのは、このワンカップの日本酒だ。私はサクラダさんから渡された小銭を数えると、少々金額が合わなかった。
「すみません、10円足りないんですが」
「ありゃ、こりゃ悪いね」
サクラダさんはリタちゃんを抱っこしたまま、ジャージのポケットから平成元年に製造された10円玉を出した。
コンビニ袋を下げ、リタちゃんを抱いたまま店を出るサクラダさんの背中は、ちょっとだけ幸福の色に染まっていた。愛犬、たばこ、酒。
「サクラダさん、本当にリタちゃん大事にしてますよね」
「ああ。カミさん亡くしてから、ずーっとリタちゃんと一人と1匹だからね。そりゃ、大事にするさ」
サクラダさんの奥さんは、5年前に胃がんで亡くなったそうだ。私がバイトを始める前で、その時を知らない。店長が言うには相当落ち込んでいたらしいが、リタちゃんがいてなんとか立ち直れたそうだ。
「犬、飼いたいなぁ」
サクラダさんを見ると、犬を飼っているという一点がものすごく羨ましく感じる。店長は保護犬の活動もしていて、よく「里親募集」の貼り紙を店の入り口に貼っている。今は一枚もないけれど。
小さい頃から、私は猫よりも犬の方が好きだった。猫の気まぐれさは確かに可愛いけれど、飼うなら犬だと決めていた。仔犬から飼うならブリーダーだけど、保護犬もいいなと思っている。
「まぁ、良い子いたら紹介するよ。その前にシエちゃんは就職かな。もう4年生だもんね」
そうですねと軽く笑い、仕事に戻った。
7時にバイトをあがると、秋の夜風がもの悲しく吹いてきた。サクラダさんが来店した頃にはほんのりと明るかった空が、今は藍色に染まっている。自転車に乗って家路に着く。店の裏手のサクラダさんの家の窓からは、オレンジ色の薄暗い灯りが漏れていた。家に帰ったら、エントリーシートの書き直しと、やりかけの卒業論文が待っている。
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