3.摂氏八度の月光が差す

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 立ち並ぶ屋根の隙間から見える夜空には、三日月がそっと置いてあった。  俺はレンガ造りの娼館の壁に身体を預けて、夜を吸い込む。湿った夏の夜風に、先日の雨で上がった下水の匂いや軒連ねる娼館から漏れる香水の香りが鼻をつく。  交易都市、ライトプヒ。二つの運河に挟まれ数多くの商人が行き来する煌びやかなこの都市も大通りを外れて小路を進めばこんなものだ。  吐き散らかされた吐瀉物に、アヘン中毒末期の廃人が力なく倒れている。  月光はここまで届かない。無論、俺にも。  遠くから美しい音が響いた。教会が鳴らす午夜の鐘だ。 「やっと……だ」  それを聞いた俺は思わずそう呟いた。  五年、五年だ。  目を閉じればあの時見た煙の流れゆく様がはっきりと思い出せる。母の断末魔が、あの司祭達の誇らしげな顔が、今も頭の中にへばりついて消えない。  タールのように粘り気を帯びた黒い感情は、けれど止めどなく俺の心を侵し続けている。  長かった。  これは始まりだ。俺があの三人の司祭に復讐する、その始まりだ。  娼館の扉が開くと、そこから出てきた男が木製の靴底で街路を小気味の良く鳴らした。
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