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ストレス
あれからどれくらい経ったのだろうか、だいぶスムーズに人を殺せるようになってきた。
考えてはダメだ、とリトルハンドに教わった。右にあるものを左に動かすだけ、殺す時は、殺すことだけを考える、余分なことは考えない。
殺し屋だけじゃない、何事も、そういうもんだ。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
ガシャーン。給湯室から大きな音と、女性社員の悲鳴が聞こえた。
「ちょっとなにぃ、これ誰がやったの!」
騒いでいるのは、柏原という54歳の小太りのオバサンだ。僕と新入社員の小林が給湯室を覗きにいくと、床にプラスチックの湯呑みがばら撒かれていた。
「誰、これやったの」
俺たちに柏原が怒鳴った。それは自分だろ、という顔で小林と顔を見合わせた。
「違う、洗ってここに出しっ放しにしておいたのは誰って聞いてるの」
「あぁ、それなら自分ですけど」
小林は恐る恐る答えた。
「こんなところ出しっ放しじゃ、やかん取るとき邪魔でしょ!」
事の発端は、給湯室のシンク横に洗った後の湯呑みを積み重ねてあったことだ。乾燥させるため、ピラミッド型にずらして並べて置いたのが、奥のやかんを取るかなにかして、このオバサンが倒して落ちただけのこと。ただ、ここに置いて乾かすことを提案したのは倒した張本人なのだ。
「いや、柏原さんが直ぐに仕舞うと臭くなるから、ここに置けって.......」
小林が言い訳をすると、柏原はシンクを大きな音を立てて叩いた。その拍子に、シンク横に残る湯呑みが数個落ちた。
「口答えしないで!浅野くん、小林くんの教育係でしょ!すぐ片付けて頂戴!」
柏原は給湯室から出ていった。べつに僕は小林の教育係ではないし、20歳近く離れているが、僕の方が上司だ。
健康食品と健康グッズを取り扱う会社で、営業部の係長。オバサンは事務のパート社員だ。パートが「下」だとは言っていない。でも威張られる筋合いはない。
ババアのヒステリーは今に始まったことじゃない。以前は事務室の自分の席が寒いと騒ぎ出し、この場所に冷たい空気が溜まりやすいのだと席替えを要求し、今度は窓際の席になると暑いと言い出し、面倒なのでエアコンのリモコンを彼女のデスクに置くことになった。
先日は休憩時間に部長が同年代のおじさん3人組で、たわいもない下ネタて盛り上がっていると、そこへオバサン乱入。
「気持ち悪い!これはセクハラです!」
と騒ぎ立てるが、若手男性社員からは、お前の方がセクハラだろ、と思われている。
「あのオバサン、やたら くっついて話ししてくるんすよね。ボディタッチ多いし、息臭ぇし」
俺と小林で、とりあえず散らかった給湯室を片付けた。小林は拾った湯呑みを左手に積み重ねながら、「あのババア、マジ殺してえっす」と言った。
どういう顔をしてやったらいいか分からず、多分困ったような笑顔をしていたと思うが、小林の肩に手を置いた。
「ちょっと屋上行くか」
「屋上」とは、喫煙所のことだ。
「なんなんすかね、あのババア。あいつが言ったからそうしたのに、自分の、なんつーか、さじ加減で怒るじゃないですか。自己中なんすよ」
小林は屋上の手すりに肘をかけ、タバコの煙を空に向かって吐いた。タバコを吸って幾分落ち着いてきたらしい。が、まだ腹の虫が治まらないようだ。
「お前、幾つだ」
「えっ、25歳です」
「俺も体がオッさんになってきて、若い奴らのやることが、ちょっと気に障ったり、理由もなくイライラするときとかあるぞ」
「浅野さんは、まだオッさんじゃないっすよ」
「まだ」というのも、少し前までなら気に障っていたかもしれないが、結婚もして子供もいて37歳にもなれば、素直に「オッさん」を受け入れられるようになった。
「あのババア、更年期障害じゃないっすか」
「小林、男にも更年期ってあるらしいぞ、俺も最近、立ちくらみとかよくあるしな」
「えー、それ二日酔いとかじゃないっすか」
小林と笑い合う。彼の砕けた喋り方も、数年前までなら、生意気な態度に説教をしていたかもしれないが、大人になった、というよりは、どうでもよくなった。浅野さんは部下に対して優しい、と言われるが、多分怒らないだけで優しいのとは少し違う。
他人に説教することが億劫なだけだ。この小林も、自分の子供ではないし、これからどういう社会人になろうが知ったことはない。
この接している時間だけ、何事もなければそれでいい。
むしろ、自己中なワガママを平気で言える柏原の方が、他人に対して優しいのかもしれない。
屋上には、ボロボロのベンチと灰皿、それに後付けのスチールの物置がある。物置には、バレーボールやグローブなどの草野球の道具などが入っている。むかしは昼休みに使っていたのだろうが、今では誰も使わない品々だ。金属バットだけ、外に立てかけてあった。
部長が金属バットで素振りをしていた時期があったが、四十肩の予防にといいつつ、素振りのし過ぎで肩を痛めた。小林は、部長年齢なら五十肩ですけどね、と笑いをとった。
この屋上も、今月一杯で立ち入り禁止にする予定だ。社員の未だ3分の1は喫煙者で、その連中からは非難轟々だったが、事務所を施錠しても、非常階段から誰でも登れてしまうため、防犯のための安全策というのが理由だった。実際のところは、柏原のババアが、社員の喫煙者がタバコ臭い、と騒いだのが原因らしい。
残り短いタバコをゆっくり吐くと、立ちくらみがした。眼球の奥の方から、ゆっくり前に押される感じがした。チリチリと白黒の斑点が視界の上から降りてくる。耳が遠くなり、頭頂部がザワザワと引っ張られる感じ。最近よくある。こういう時はぎゅっと目を瞑り、これが通り過ぎるのを待つしかない。
目を開けると、小林が金属バットを手にして、焦点が合っていない目で眺めている。
「こ、小林?」
小林は2.3度素振りすると、獣の雄叫びと地響きが混ざったような声を上げ、屋内に駆け込んだ。荒々しく階段を降りる革靴の音が響く。まずい!
小林は、金属バットを振り回しながら階段を駆け下りる。古いビルなので、階段の1段の高さが低く奥行きか狭いので、1段飛ばしでも歩幅が小さく、2段飛ばしだと踏み外しそうだ。迅速に足を運んでいるつもりだが慎重になってしまうため小林に追いつかない。
追いついた時には、予想通り柏原の前にいた。柏原は、さして重要ではない伝票を捲ったりしている。
他の社員は小林に気づき、彼らからなるべく離れ、壁際まで避難している。
「ババアー!」
小林が金属バットを振り下ろした。「ババア」の声に驚いた柏原は、立ち上がろうとしたが、自分に向かって振り下ろされたバットを避けようと体を後ろに下げた結果、キャスター付きの椅子が後ろに倒れた。
バットはスチール製のデスクを凹ませた。
柏原は椅子に座ったままの体制で倒れ、背中をついた状態で首だけをあげ、二重顎になった顔を震わせ小林を見上げる。
誰も止める隙がなく、間髪入れずにバットを振り上げる。ぶら下がった両方の脛に振り下ろした。コンクリートの上にボーリングの玉を落としたような鈍い音と腐った木が折れるような乾いた音が混ざり、今まで聞いたことない不快な音がした。
柏原の膝から下が、椅子の淵にぶら下がり揺れている。喉の奥からなにか絞り出すような音がして、彼女は恐怖のあまり声も出せない。目はこれ以上開かないくらい開いているが、黒目がない。血走った白目だかが見える。
小林は何度も何度も振り下ろす。
グリップの部分を両手で持ち、ヘッドを下に向けて、頭を狙って突き刺すように振り下ろす。
骨の砕ける音と、椅子の軋む音、金属バットの金切り音が何度も何度も聞こえる。
誰も声を発しない。
気がつくと、小林の白いワイシャツが赤黒く染まっていた。
散々バットを振り回して疲れたのか、肩で息をしていた。小林がこちらを振り返り目があったその瞬間、誰かに肩を叩かれた。
「浅野さん、大丈夫っすか?」
目を開くと、そこは屋上だった。声をかけてきたのは小林だ。俺は屋上のボロボロのベンチに横たわっていた。
小林のワイシャツは白かった。
「浅野さん、急にしゃがみ込むから。体調悪いっす?誰か呼んできましょうか」
「いや、大丈夫。ただの立ちくらみ。男の更年期だよ」
「マジ早退した方がいいっすよ。俺、部長に言ってきますよ」
何だったんだ、夢なのか。小林に聞くと、ほんの1分くらいは動かなくなってたらしい。気を失っていたのか。
大事をとって、半休扱いにしてもらい早退することにした。
部長からは、ちゃんと病院で診てもらえ、と言われ、柏原からは、正社員はそういうのあっていいですね、と嫌味を言われた俺は、会社を後にした。
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