アイスミントティー

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アイスミントティー

 茶髪の若い男はこちらを一瞥(いちべつ)して、スマホをいじりながらビルの中に入っていった。俺は何も考えずについていった。男はエレベーターのボタンを押すが、そのまま脇の階段を上っていった。 「このエレベーター、遅いんですよ」  歳は小林と同じくらいか、もう少し若いくらいだろうか。後ろについて階段を上る。ふわっと脂っこい食べ物の匂いがした。  あの色黒の小さいオジさんの風貌(ふうぼう)といい、この茶髪の若い男の雰囲気といい、ますます「殺し屋」とは思えない。普通のオジさんであり、普通の若者だ。普通の俺は、警戒心が薄れてしまい、ついてきてしまった。彼の後ろについて階段を上る。彼は左手でスマホいじりながら、右手に袋を下げている。マクドナルドの袋だった。  事務所の入り口のドアは、古いビルにお似合いの昔風のノブがついたドアで、顔の高さのところに曇った型板ガラスになっていて、そこにも事務所の名前が入っていた。  探偵事務所  GESBK  と、二段で印字されているが、「探偵事務所」の上に二文字分消された跡があり、やはり、以前は澤村探偵事務所という名前だったのだろう。 「ちゃお!」  事務所の扉を開けると、澤村は昨日とは違う、甲高い声で陽気に声をかけてきた。 「来てくれると思ったよー。まあまあ、座って」  澤村は安っぽい田舎のスナックに置いてあるような赤いソファに座っている。膝くらいの高さのガラスのテーブルを挟んで向かえにも同じソファ。仕切りなしのワンルームで、入って左半分が応接室、奥には簡単なパーテーションで仕切ってある。右半分はデスクは迎え合わせで4台、計8台。うちの事務室と変わらない、オシャレでもなんでもない普通の事務所だ。  茶髪の若い男は、入ってすぐのPCしか置いていない席に座った。マクドナルドの袋をPCの横に置き、座るとすぐにPCを立ち上げ、なにやらキーボードをえらい速さで打ち始めた。山のようにファイルか積み重なっているデスク、週刊誌や旅行会社のパンフレットが乱雑に置いてあるデスク、綺麗に整頓されかわいい文房具などが並ぶデスク、使われていないのかなにも置いていないデスク。探偵事務所なんて来たことないし、テレビドラマでしか見たことがないので、この雰囲気が普通なのかそうでもないのか判別がつかない。 「ほら、なにやってんの。早く座って」  ぼおっと突っ立っていると、再度座るよう促された。渋々座る。やたらに硬く座り心地の悪いソファだ。 「ミーちゃん、お茶出して」  澤村が言うと、パーテーションの奥から冷蔵庫を開ける音がした。続いてカランと、ガラスに氷を入れる音。  まもなくして、背の小さな女性がトレイの上に、深さの浅いガラスのコップを2つ乗せ、パーテーションの奥から出てきた。見た目、中学生のような幼い雰囲気の女だった。  丸い襟の白いブラウスにデニムのサロペットという格好が更に幼く見せている。  こんな人も、ここで働いているのか。こんな子供みたいな女に、探偵など務まるのだろうか。俺の中でもう「殺し屋」というのは消えていた。探偵事務所の普通がどういう感じかわからないが、殺し屋であるわけがないのだから、ここはただの探偵事務所であるはずだ。 「ミーちゃんの入れたアイスミントティーは、うまいんだよ」  彼女は無表情で、澤村と俺の前にガラスのコップを置いた。蚊の鳴くような声小さな声で、どうぞ、と言った。  こんな対応じゃ、探偵どころか普通の仕事も務まらないのではないか。  俺は一口飲んだ。たしかに美味い。苦味は軽く、ほんのり甘く感じる。後味が爽やかだ。飲み込むとミントの爽やかな香りが鼻に抜ける。乾いた喉をミントの香りが軽く冷やしてくれる。 「あったかいと超不味いんだけどね」  彼女は一重の瞼で軽く澤村を睨み、トレイを両腕で抱えて、顔を真っ赤にしてトレイを片付けにパーテーションの奥に消えた。小股の小走りで出てくると、かわいい文房具が並べられた席につくと、おもむろに引出しを開け、そこから少女漫画を取り出し読み出した。  こんな子がうちの会社にいたら、柏原のババアの格好の的だな。 「まだ疑ってるね。ここは殺し屋の事務所だよ。でも彼女はね、殺し担当じゃなくて、クライアントの素性とか事実確認とかが担当。うちは変な殺しとか受けないからね。まあ、探偵みたいな仕事かな」  まだ「殺し屋」で引っ張るつもりか。  はなから信じてないから、ここまで来たのであって、この事務所の雰囲気も、茶髪の若い男も、この女の子も見て、やっぱり「殺し屋」は嘘だと確信したところで、まだ続けている澤村の冗談に、もう飽き飽きしていた。 「なになに、ああいう子がタイプなの?」 「いえ、べつにそういうわけじゃ......」 「ああ見えて、37歳」 「え!俺と同じ歳」 「そんでもって子持ち、シングルマザー」  漫画を読む小さい背中を見ていると、娘の里穂と重なった。まだ小学生の娘も、何処の馬の骨かもわからないような男を連れてきて、結婚だ妊娠だとか言ってくるのなんて、あっという間だろう。そしてその男が、娘を捨てたりなんかしたら、やっぱり殺意とか芽生えるのだろうか。 「旦那さんがさ、暴力?DVって言う?そういう人だったらしくてさ。苦労したらしいよ」 「それで離婚したんですね」 「違うよ、死んだんだよ。不審死だって」 「え?」  そこで「死んだ」という単語に、「殺し屋」という単語が、頭の中で妙な具合に絡みついてきた。 「まだ信じたわけじゃないですけど、彼女は殺しは担当じゃないんですよね」  相手に合わせた質問をしてみた。 「担当ではないよ。でもね、他の社員が空いてなくて、どうしてもって一回彼女に仕事頼んだことがあるんだよ」  俺はチラッと彼女の背中を見た。  彼女は、こちらの話が聞こえてないのか、聞こえていて無視しているのか、漫画を読み続けている。 「彼女どっかの有名な大学の理工学部出身で、なんか『菌』の研究してたらしいの。毒と違って、解剖して見つかったとしても、専門家でもない限り、それが死因だって気づかないみたいよ。取り扱いも菌の方が簡単で、相手の飲み物に、ちょっと入れるだけなんだって」  俺は口にしていたアイスミントティーを吹いた。
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