prologue

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何の変哲もない人生だと思った。 朝起きて、顔を洗って歯磨きして。トイレ行って洗濯機回して。朝食を作りながら子供達を起こして。正直もうそれほど手がかかる年じゃないから勝手に起きてくるし。 一通り家事をこなし、子供達を送り出したら自分は仕事に向かって。旦那は長い間単身赴任だから年に何回かしか会わないし、今更戻って来られても調子が狂う。 満員電車に揺られながら携帯のネットニュースを確認してみる。 あ、今日お天気持つみたいね、良かった~! 後は無駄に占い見たりして。今日は恋愛運がいいらしい。…だからといって私のことを相手にする人なんかいないけどね。 会社にだっていない。 だって私、役職付きのお堅いお局みたいだもの。誰も寄って来ないし、寄って来て欲しいとも思わない。 「うん…いいんじゃない?この案でいきましょう。」 知的に見せる為の眼鏡がいつの間にかしっくりくるようになって、年を取ったなって思う。 コーヒーカウンターで使い捨てカップに淹れて一息。身体にコーヒーが染み渡る。 何か私、カラカラだな。 「久保木課長、これなんですが…」 いいな、情熱があって伸び代があるって。肌もピチピチしてるし。目がキラキラ光ってる。二十代の若い子なんて、冷や汗かきながら私に話しかけてくる。そりゃそうだ。 気付いたら私…会社でも笑わなくなってた。 「このまま進めてくれる?」 「はい、わかりました。」 若くして結婚して早々と子供産んで。育児休暇をMAXで取って保育園入れてバリバリのキャリアウーマンに戻って。 役職に就いた時は回りに敵も多くて肌荒れが酷かった。それでも仕事を手放さなかったのは、これしかないと思ったから。 私はキャリアや自分の生き方を優先して旦那を捨てたんだと思う。だから彼は逃げるように単身赴任の道を選んだ。 「…はい。承知致しました。」 電話越しの部長の脂っこい声が耳に響き胸焼けする。 思えば私は結婚に向いてなかった。 争い事が嫌いな私は、旦那となら心穏やかな道を歩めると思った。 でも間違いだった。 よく考えたら心穏やかにって…裏を返せば興味がないのと一緒なのに。何もかもさらけ出して生きれたら良かったのに、私は分厚い鎧を纏ったように繕って生きる選択をした。 家庭は大事、家族は大事。 子供達が一番大事。 でも、時々思う。 私、このまま平坦な道を行き、死に行くのかなって… アップダウンの激しい坂を登り降りるには、それなりに体力が必要だ。そして、変化を求めて生きるには、幾分年を取り過ぎた。 「…いただきます。」 子供達に作ったお弁当の残りを詰め込んだ、大して手も込んでない至って普通のお弁当をデスクで食べる。…メールをチェックしながら。さっさと食べ終えたら、向かい側のビルの一階にあるカフェで甘い飲み物を買うのが日課だ。 「ホットココア。クリーム追加で。」 スーツにヒール。巻き髪は古いかもと、これでも見た目には気を付けてる。いつも束ねて丸めてシニョンにしてしまうけど。 女を捨てた筈なのに、髪が長いなんて滑稽かな…。 カフェに若いカップルが居た。 寄り添い楽しげにしている姿を見て、私は羨ましく思ったけど、今だけだよっと半分は冷めた気分だった。 40歳過ぎて、今更トキメキとかってないし男を求めようとも思わないのが現実。 カラカラに渇いた身体を、みずみずしい身体に仕向ける術なんて恋愛しかないけど、それを旦那に求めるには離れすぎた。 心も、身体も。 「ありがとうございました~!」 店員さんの明るい声を背に、私はオフィスへと戻った。 子供を産んでからかな。いや、元々淡白な人だったから半ば無理矢理子供を作った感じだった。つまらないとは思わなかったけど、情熱的かと言われると頭を横に傾けてしまうようなセックス。つまり、イクことを知らないから俗に言う溺れるのも知らない。 「…うん。甘い…。」 甘いココアが私の口の中を甘く染めたから、まるで心までも癒された気分になる。 身体が溺れるって、こんな風に甘いのかな… 午後も企画会議やコンペへの資料作り。 いつもと変わらない。それが終われば普通に帰宅して夜食の準備。今日は子供達が塾と部活だから遅くなるし、少しはマシな料理出来るかな。いつもと違うスーパーに行こうとしたら途中で雨に降られた。 「!?何よ!天気予報当たらないじゃない!」 急いで建物の軒下に入り回りを見渡した。 「あ、コンビニで傘買おう!」 この辺りのタワーマンションの一階にコンビニがあるのを思い出し、私は兎に角目の前にあるタワーマンションのエントランスをくぐった。 「いらっしゃいませ。ご予約の方ですか?」 コンシェルジュだろうか、エントランスをくぐって直ぐ受付カウンターのようなものがあって。 「あ、え、」 私は間違えたと思った。マンションだと思ったらホテルだった!?雨足が酷くてもう辺りも暗くなり始めてて見にくかったのもあるけど… 「すみません、雨に降られたもので…。コンビニはどちらにありますか?」 華奢で綺麗な女性コンシェルジュにコンビニの場所を聞いたんだけど。 「申し訳ございません。弊社にはコンビニは無く、一番近場ですと裏通りを抜けて大通りに面した場所になります。」 この雨足で歩いて行けるような距離ではなかった。はぁ、最悪。 「…傘貸しましょうか?」 奥のバックヤードから出てきた私より年上に見える女性に声をかけられた。 「いえ…タクシーを呼びます。すみません到着まで暫くあちらで待たせて頂いても宜しいでしょうか?」 「ええ、どうぞ♪気にせずゆっくりなさっていって下さい♪」 きちっと髪を纏めた清楚な女性だった。衣服で品の良さがわかるし、私達は何となく見た目からして『同類』だと思った。 私はロビーのふんわりしたソファーに腰かけてタクシーを呼んだ。 「もしもし?タクシーを一台……え?そんなぁ…!」 この豪雨でどうやらタクシー会社も総出で対応しているよう。一時間~二時間待ちと言われてしまい。アプリで空席のあるタクシーを探したけれど見つからず… 「はぁ…最悪。」 私が項垂れていると先程の女性が温かい飲み物と一緒に現れた。 「お急ぎですか?」 「子供がおりますので。出来れば早めに帰宅したかったんですが…。これじゃ何時になるやら。」 頂きます、と声をかけて温かい紅茶を頂いた。匂いもとても上品で。ルピシアかな?それともフォション? 「良かったら、私が家までお送りいたしましょうか?」 「え!」 「この雨ですし、タクシーも何時になるか読めません。駅までも少し歩きますし、残念なことにバスも通っておりません。」 「いえ、そんな!初対面の方にそこまでして頂くのは…」 「あ、申し遅れました。私、このマンションのオーナーを務めております、キム ジュウォンと申します。」 にこやかに微笑み、名刺を渡してきたジュウォンさんに私はギョッとしてしまい。 この高層マンションのオーナー?!私みたいなのとは月とすっぽんよ! それを顔に出さずに名刺を受けとる。 こんなの仕事で朝飯前。こういう時に仕事で培ったものが私生活でも生きるのね。 「ジュウォンさんって…」 「はい、韓国人です。父が韓国人でして。」 「そうなんですね。…っと私は…」 私は胸元の内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚丁寧に抜いてジュウォンさんに渡した。 「すみません、若干湿ってますが…」 「ありがとうございます!久保木 麗さんですね!私達、いいお友達になれそう♪」 「…?はぁ…。」 今思えば良い鴨だったのかもしれない。 私をそちらに引き込む為の…鴨。 「さぁ善は急げ!参りましょう♪」 「あ、え?」 私はジュウォンさんに半ば引きずられるようにして、地下駐車場へと向かった。 地下駐車場には高級車がずらりと並んでいて。私にはここは車のディーラーか何かなのかな?って思ってしまう程だった。 「ちょっと狭いですが…」 そう言って助手席のドアを開けて貰った車は黒のポルシェ。 「…なんか恐縮です。」 「恐縮?何故?あ、もっと広い車の方がいいかしらね?ゆったり座れるのは…」 「あ!いいです、いいです!ありがとうございます!」 「?」 ちょっとズレてるところもやっぱりお金持ちの発想なのかな。 「じゃあ行きましょう!」 高級車ならではの重低音が響き、車は雨の中走り出した。 私の家はここから5つ先にある駅前マンション。こんなタワマンじゃなく15階までしかない。でも住所を言って直ぐに場所がわかる辺り、ジュウォンさんは不動産経営でもされてるんだろうか? 名刺には『House of LOVERS 代表取締役』としか書いてないけど。 ジュウォンさんの人懐こい雰囲気も相まって、私達は車の中で色々な話をした。ジュウォンさんは私と年齢も近かった。だけど若くてスタイルも良くて。 「サプリメントのおかげかな~♪」 明らかにサプリメントだけではないと思った。あの年で若々しいなら理由は一つ。 男だ。 「わぁ、あっという間!楽しかったわ♪また会いましょう、麗さん!」 「ジュウォンさん、色々為になりました。ありがとうございました。またお時間が合う日に是非お礼をさせて下さい。」 「あら、そんなこと言っていいの?本気にするけど。」 「え、、、」 何とも含みのある言い方だった。 普通にまたランチでもしてお礼させて欲しかっただけなのに。 「私、あのマンションで別な会社も営んでるの。」 「別な会社?」 差し出されたもう一つの名刺。 そこには『Club 7』 しかも…… 「え!?レンタルパートナー!?」 「そう。完全会員制で予約制。良かったらネットで検索してみて。」 ジュウォンさんは艶っぽい声色で私にこう囁いた。 「いつもと違う自分になれるかもよ…?」 名刺を素早く内ポケットに仕舞い、私は駅のロータリーの降車場で降ろして貰った。ここだと歩道橋の踊場が頭上にある為、雨に濡れることはない。 「…ありがとうございました。」 「連絡くれるの、待ってるわね。麗さんには必要なことだと思うから。」 じゃ、っと軽く微笑みジュウォンさんは帰っていった。 随分見くびられたものね。必要なことだって?全く…知り合ったばかりの人に何言ってるんだか! 苛立ちを抑えきれず、私は自宅の玄関のドアをバタン!と大きな音を立てて閉めた。 「母さん?」 「…ただいま。今、ご飯作るわね。」 「うん。兄貴はまだ塾から帰ってきてないよ。」 「了解。」 いつもの会話と代わり映えのない景色。子供と呼ぶにはもう青年の年齢で。会話も段々少なくなってきた。 適当に食事を済ませ、お風呂に入り、ベッドに潜ってスマホで検索してみる。 「……え」 どうやら完全会員制は確かみたいだ。パスワードがないと閲覧出来ない仕組みになっている。私はな~んだつまらないな、とベッドの端にスマホを置いた。このシングルを二つ並べたベッドが無駄に広くて、まるで私と旦那の距離を表してる様だと思った。 私は起き上がって、名刺ケースから先程貰ったジュウォンさんの名刺を取り出した。 「やっぱり…」 裏面にはパスワードが。 「元々用意してたのかしら…?」 何か腑に落ちない。 私はどんな会社なのか覗いてやろう!と普段垣間見ることのない黒い部分を全面に出してパスワードを入力した。 何か怪しいことしてたら通報しよ。 HPを開いて見てビックリ。予想より遥か上を行く文言がずらり。疑似恋愛、デート、冠婚葬祭などの人員合わせ。 これはきっと…一種の派遣業のようなものだ。 「ふーん…。」 在籍パートナーは七人。 それぞれのプロフィールに顔写真と学歴や職歴、趣味と一言アピールメッセージ。口コミもあったからそれとなく読んでみた。 「自分の身体がこれ程までに感じやすいとは知らなかった…か…。間違いなく黒じゃない。」 口コミの中に凄く目を引く物があった。 『私を笑顔にしてくれてありがとう。』 私はその文章から目が離せなかった。私もここを利用したら笑顔を取り戻せるの…?そんなこと求めてない癖に何を今更…。 そう思うのに隣を見て寂しくなった。もう何年も人肌に触れてないし、頬を擦り寄せたのも忘れてしまった。思い出すのは幼い頃の我が子のぬくもりばかり。 「……っふ」 気付いたら自然と溢れ出た涙。その霞む目でもう一度HPを見てみた。 『自分の新しい扉を開き、人間本来の姿になりませんか?』 そんな謳い文句と、 『恋に落ちるも前に進むも貴女次第…』 もう一度自分を取り戻したいと思った。こんな渇ききった身体に今更とも思うけど…髪を短く切れないのが証拠だ。私は女を捨てきれずにいる。 そして笑いたかった。心から。 私はHP宛にメッセージを送った。会員になりたいです…と。後日返事が来た。 『利用規約を説明致しますので、御来館頂けますようお願い致します。つきましては、日程を…』 ここは『House of LOVERS』 またの名を『Club 7』 完全会員制、予約制の… レンタルパートナーを斡旋する館。 貴女はどの部屋の扉をノックしますか?
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