識閾下の赤い本

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序章 「軍鶏を買って来い」 そう指示しておいた使用人の少年が戻ったのは、日も暮れかけた頃だった。言いつけたのは、お昼だ。随分時間が掛かっている。それに屋敷に戻った少年は、死人のように顔面蒼白だった。買い物に妙に時間が掛かったのといい、魂を抜かれたような顔色といい、何かあったのか? 主人は、少年に訊いてみた。 「黒い影に出会った」 少年は震える声で言った。 「黒い影?」 「はい…森の入り口の所で…。×××の街に行く途中に、薄暗い森があるでしょう。その森を通った時に…」  軍鶏を買うために、隣町に向かっていた。 隣町との境界には奥深い森に陽光を閉ざされた暗い道がある。 この森には幽霊がでる。 そんな噂も耳にしていた。 森の入り口にある、細い獣道を見詰めた。 隣町までは、森を迂回する道もある。 しかし森を抜けた方が近道だ。 少年は暫く勘考した後、『幽霊なんて居るはずない』と自分に言い聞かせて、獣道に分け入った。 「それで?幽霊を見たのかね」   その質問に、少年は首を振った。 「では何が、君の生気をそんなに抜き取ったのかね」 「…黒い影です」 「それはさっき聞いたよ。でも君は、それを幽霊ではないと言うのだろう」 「…あれは。悪魔…です」 「悪魔?あの角と羽根の生えた?」 「角も羽根もありませんでした。木陰から姿を表した影は、段々とくっきりと見えるようになって、その内はっきりとした紳士の姿になったのです」 「坊や…坊や…」   奇妙な呼び掛けが聞こえた。   幽霊の呼びかけかもしれない。 だから少年は怖気を感じながらも、声を無視して、軍鶏を買いに向かった。 森を抜けると、隣町までは直ぐだ。 しかし漸く森を抜けようとした時、再び紳士が立ちふさがり、行く手を邪魔をした。 「坊や坊やと、呼んでいるだろう。何故返事をしない」   それは紳士の事を幽霊だと思ったからだ。 「私を森の幽霊だと勘違いしたのか」   少年が返事をする前に、心を見透かしたように言った。   幽霊ではないのなら、何なのだろう。 「私はバアルと言う紳士なのだよ。君に話しがあって、さっきは呼び止めたのだよ」 「何の話しでしょう…。自分は主人の言い付けで、軍鶏を買いに行かなければいけない。通してくれませんか?」 「主人に忠実なのだね。私の思った通りだ。どうだい、賃金をはずむから、私の召使いになってみないか?」   急にそんな事を言われても困る。少年は戸惑いながら目を瞠った。 「この赤表紙の本に、君の名前を書くだけでいい。それで主従関係が契約される」   少年はますます困惑した。しかし自分を雇ってくれた今の主人を裏切る訳には行かない。 「主人に報告しないと。自分の一存では決めかねます」 「それでは今夜、今の主人と相談するがいい。そして明日の夕時に、またこの場所で会おう。もし君の主人が嫌がるようならば、私が見受け金を出しても良い。そう伝えるのだよ」 「それで、軍鶏が遅くなった訳か。で、どうするのだい?私の下を去って、その紳士の従者になるつもりなのかい?」 「そんなつもりはありません。幼い頃からお世話になった御主人様を裏切って、あんな得体の知れない相手の従者になるなんて…」 「そうかい、では良い方法を教えてあげよう。明日、森の中で君が取るべき対策をね」   ※  ※ 翌日の夕方、少年は例の森を訪れた。   木立に隠れた悪魔バアルは、少年が現れたのを見とめて、歓喜した。 まさか人間が本当に約束を守るとは思ってもみなかった。 歓喜したのは、それだけではなく、少年の魂を奪うチャンスでもあるからだ。 久し振りに人の魂に舌鼓をうてる。   バアルが木立から獣道を覗いていると、少年がナイフを使って、地面に何かを書いているのが見えた。 「何を書いている」   その声に少年は振り向いた。   しかしバアルは視線を合わせる事無く、その地べたに描かれた幾何学模様に目を瞠った。 少年が描いていたのは、悪魔から身を守る結界の魔法円と、その中心に刻まれたイエスの名前だった。 「誰かに教わったのか」 「貴方は悪い人なのでしょう。主人がそう言っていました。だから、この魔法円を書いて身を守れと」   それを聞いて、バアルは渋い顔をした。 「中々博識な主人のようだな。だが私に使えれば、今の主人以上に重宝しよう。だから、さあ結界から出て。赤の本に署名をする事を勧める」   主人の言った通り、あの本に署名したが最後、魂を奪われるに違いない。 少年は、そこで主人から入れ知恵された行動を取った。 「魔法円の外に出れば、貴方に殺されるかもしれない。主人がそう言っていました。その悪魔は本当は、僕の魂を喰らうのが目的で、金貨や銀貨を与えて召使いにしようなどは考えておらず、嘘に違いない、と」   言われてバアルは困った。 確かに召使いにしようか、それとも喰ってしまおうかと、まだ思案中だ。 だが少年を手に入れるために、どちらにせよ取り敢えず署名をさせる必要がある。 「この赤の本に署名をするだけで、金銀が手に入るのだよ?」   すると少年は魔法円の中から両手を伸ばした。 「では、署名をするから、その赤の本を此方に渡して下さい」   大事な赤の本を一瞬でも手放す事に躊躇したが、署名が貰えるならば仕方がない、と赤の本を少年に渡した。   すると少年は赤の本を懐にしまって、魔法円の中に座り込んだ。   バアルは訝しげに、 「署名はどうした。早くしてくれ」   しかし少年は、うずくまったまま返事をしない。   バアルは気付いた。騙されたのか。 赤の本を奪うために私を騙したのか。 少年に入れ知恵をした主人も、それを実行した少年も、何て狡猾な奴なのだろう!   バアルは怒りの余り、紳士の姿を消して、悪魔本来の姿に戻り、魔法円に座る少年を威嚇した。 蛙や猫の頭に、蜘蛛の胴体と手足。 恐ろしく不気味な姿に次から次にへと変身して、少年をたじろがせて魔法円の外に追い出そうと試みた。   しかし少年は目蓋を堅く閉じ耳を塞いで、魔法円の外で繰り広げられるおぞましい幻影を知覚しないようにしていた。 そうして一晩が過ぎた。   やがて鶏鳴の時が来た。 東の山脈の稜線が光が帯びている。   バアルは悔しさの余り叫んだ。   そして暁から逃げるようにして、西の空に飛び立った。   その後、アッピンの赤い本が、何処へ行ったのかは判らない。 この本には、バアルの本名やその眷族の名前が記されており、本を開いて名前を呼ぶだけで、バアルを始めとするその悪魔達を召喚出来るという。   その希少な魔導書を追い求めて止まない人々がいる。   例えば自殺したイングリットの祖父であるユアン・カーライルのように。   ※   ※ 後ろ手に扉を閉める。 暗がりの中に、誰かの後ろ姿が見えた。 背格好に見覚えがある。 マーサの気配に気付いているのかいないのか判らないが、人影は、壁に向かって無心に何かを描いている。 「お父さん?」 呼び掛けてみた。   しかし背を向けた中腰の影は振り向きもしない。 父親ではないのだろうか。 人違いかもしれない。 しかし誰であれ、呼び掛けたのだから返事をしても良さそうなものだ。   マーサは、父親かどうか良く確認するために、背伸びをして、扉の横のスイッチを押した。   部屋の明かりが点く。 やはり見覚えのある父親の後ろ姿だ。 「お父さん?何をしているの?」   それまで彼女の存在など気にもしていなかった父親は、壁に何かを描き終えると、満足そうに頷き、やっと此方を振り向いた。 父親の腹から何かが突き出していた。 ナイフの柄だ。   大量の血液が滴り落ち、足元の血溜まりが、生臭い臭気を立てている。 「血が出てる」   マーサは恐る恐る訊いた。   すると父親は、虚ろな双眸で娘を見据えた。 「お嬢ちゃんは誰だい?」   その質問に、マーサは眉を寄せた。 自分は、貴男の娘のマーサだ。   そう言い掛けて、ふと壁に描かれた幾何学的な紋様に気付いて息を呑んだ。 それは、恐らくは父親自身の血液で描かれていた。   マーサが見詰めているのに気付いて、父親は微かに笑った。 「興味があるかい?これは紋章だよ」 「お父さんが描いたの?」   すると父親は、「嗚呼」と声を上げて彼女を見詰めた。 「君はマーサだね。チャールズの娘の」   奇妙な事を言う。 娘である事に今頃気付いたり、自分を名詞で呼んだり。 「御免よマーサ。私はもう死ぬんだ。ナイフで肝臓を刺したからね」   では、お医者さんを呼ばないと…。 マーサが口を開こうとすると、父親は、 「そうだ、君に頼みたい事がある」 「お医者さんを呼ぶの?」 「否、医者なんか呼んでも、私は助からない。意識も無いからね。それよりも…」 壁の紋章を指差した。 「この紋章が悪魔バアルの紋章だと、大人の人達に伝えて欲しいんだ。特に義父フランクさんにね。判ったかい?」   マーサは、父親の不審な言動に不安げな表情で身動き一つ取れなかった。 「判ったのかい?必ず伝えてるんだよ?」 父親が念を押す。   マーサは、怯えながら僅かに頷いた。 「それでは、私はもう行く。また会おうね、マーサ」   そう言い終えると、父親はその場に崩れ落ちた。 糸の切れた人形のように。 第一章 その報せが、私の耳に初めて入ったのは、大学から帰郷する、深夜の車の中だった。 ついさっき、義兄チャールズが亡くなったというのだ。 死因については、まだ聞いてない。 が、電話口で、父フランクが、警察官が大挙して館に押し寄せて来ている、と、警察官の喧噪の声を背後にしていた。   まだ幼い一人娘のマーサはどうしているのだろう。 そう訊くと、泣いているよ、とだけ答えがあった。 「兎に角早く帰って来い。お前に見せたい物もある」   そう言って電話は切れた。 その唐突な通信切断は、まるで、今は言えないが、帰宅したら詳しく話したい事がある、と暗示している様でもあった。   マーサ、何て気の毒に。 マーサは良い子だ。 大人しくて、少し口下手な所もあるけれど、まだ六歳の女の子らしく純粋で、私はそんな姪を妹の様に可愛がっていた。   父親のチャールズは叔父リチャードの古本屋を手伝っていた。 チャールズの妻で姉のリニーがハイランドを離れたくないと言ったのが、故郷サマセットを離れて館に引っ越して来ていた原因だ。   父フランクもそれを歓迎し、叔母のエヴァなどは姪のマーサを溺愛していた。   フランクも、晩酌の相手が増えたと、チャールズの存在を喜び、毎晩リチャードも交えて三人でポーカーに興じていたものだ。   そんな折の、突然の死だった。   それはともあれ、警察が乗り込んで来たという事は、病死ではない。 事故や事件、もしくは自殺だろうか。   義兄が何かのトラブルに巻き込まれていたなどという話しは聞かない。   では事故?あの館で?火災でもあったのだろうか。 否、あの安全な館で、事故など起こり得ない。 火の元はコックが安全に管理していたはずだ。   では階段から転落したとか? それも有り得ない。 あの二階建ての館に在る緩やかな階段を、サッカーで鍛えた健脚なチャールズが踏み外す筈もない。   そういえば、父が、見せたい物が在ると言っていたな。 それもしかし電話口で言うには、憚れる話しらしい。   一体何の話しだろう。 父の周囲には、警官の気配しかしなかった。 その警察官達には聞かれたくない話しという事か。   嫌な記憶が蘇った。 警察官に聞かれて拙い我が家の秘密といえば、アレしかない。   一週間前の例の、交霊会だ。   魔導書。   得体のしれない丸薬。   トランス状態。   全員の意識と記憶の喪失。   儀式の最中に、一体何が起きたのか。   私が覚えているのは、そう、魔導書の表紙に描かれていた、悪魔バールの紋章だけだった。     館に着くと、庭はアプローチから車止めまでパトカーで埋め尽くされていた。 その隅っこに車を停めると、慌てて玄関に飛び込んだ。 そして行き交う警察官の間を縫う様にして、階段を駆け上がり、チャールズの部屋に向かった。 途中、家族に鉢合わせる事はなかったため、何の事情も分からない。   部屋に着くと、恐らくはチャールズのものだろう、血だまりがあった。 遺体はもう無い。 その周囲を鑑識係が輻輳しているだけだ。 「貴女は?」   ぼーっと血だまりを見つめていると、鑑識係の一人に声を掛けられた。 不審者でも見る様な、訝し気な顔つきで。 「ここは、私の自宅です。次女のイングリット・カーライルと申します」 「御家族の方ですね。それなら、居間に向かって下さい。今、家族全員から刑事が事情聴取の最中です」   それで家族の出迎えも無ければ、誰の姿も見当らない訳だ。 「義兄さんの遺体は?」 「御遺体なら、検死解剖のために、搬送しました。お悔やみ申し上げます」   「叔父さんの死因は?警察が事情聴取しているという事は事件なんですか?」   すると、鑑識係は声を潜めて、 「まだ、検死解剖が終わってないので詳しくは判りませんが…我々は大筋で自殺と判断しております」 「死因の見立ては?貴男が見た限りの推知で構いません」 「失血死です。腹にナイフを刺しての…。防御創もないし、部屋からは、恐らくは一人分であろうAB型の血液しか見つかってません」   そこまで話した時だった。 背後から大声で呼びかけられた。 聞き覚えのある野太い声だ。 「イングリット、戻ったのか!」   父だった。 大柄な体を左右に揺らしながら、駆け寄って来る。 そして、私の腕を掴むと、見ろ、とばかりに、壁の一角を指さした。 そこには、床の血だまりと違い、血液を擦り付けた後に伸ばした様な痕があった。   それを私が見届けると、鑑識係から引き離す様にして、私を自室に連れて行った。   そして、こう言った。 あれは、警察が来る前に、私がやった。   一瞬、血液を擦り付けたのが父なのか、と思ったが、否、違う。 これは、そういう意味では無い。   警察が来る前に擦って消さなければいけない、拙いものがあった、という意味だろう。    血液を擦り付ける行為のみでは意味を為さないが、何か拙い物が書かれていて、それを消した痕と見るなら、あの擦った痕も意味を為すからだ。   つまり、チャールズが自分の血液で何か書き、それを父が消したという意味にとれる。   しかし警察に見せたくない血液で書かれた物とは何だろう。   遺体が残した血文字をイメージした私が、当然の様に、まず最初に頭に浮かべたのはダイイングメッセージだ。 しかし、それではおかしい。 ダイイングメッセージなら、警察に真っ先に見せるのが普通だろう。   それを問うと、父は首を横に振った。 そして一言、紋章だよ、と呟いた。   紋章?何の?   私が訝し気に、父の次の言葉を待っていると、父は、それを察した。 「あの交霊会で使用した、魔導書『アッピンの赤い本』の最初の頁にあった悪魔バアルの紋章だよ」   第二章  例の交霊会が行われたのは、今から一週間前の事だ。   アッピンの赤い本というのは御存知だろうか。 ××世紀に、ある少年が悪魔バアルから奪い、手に入れたと伝わる、伝説の魔導書だ。 少年が手に入れた後、その魔導書がどうなったかは判らない。 少年は奉公人だったというから、主人の物になったのかもしれないし、高値で売られて行ったのかもしれない。 つまり、アッピンンの赤い本は、行方不明となったのだ。   それから数世紀経ち、その本の捜索に夢中になった人物が居た。 私の祖父ユアンだ。 彼は古書店を営みながら、生涯を賭けてアッピンの赤い本の捜索に全力を尽くした。 そして晩年、亡くなる一年前に、遂にある貴族の書庫から、その本を見付けたというのだ。 貴族からその本を譲り受けたユアンは、人生に悔いを残す事もなく、永眠した。   その後、娘であるエヴァ叔母さんは、リチャードと結婚した。 本好きのリチャードは、閉店していたユアンの古書店を継ぐと、直ぐに、店にあった祖父の日誌から赤い本の事を知った。   実は、リチャードが祖父の所有する赤い本について知ったのは、これが初めてではなかったらしい。   他の古書店に勤めていたリチャードは、店主から祖父が赤い本を手に入れたという噂を仄聞していたらしいのだ。   リチャードがエヴァに近づいたのは、赤い本を手に入れたいという野心があったかららしい。   しかし、後を継いだユアンの古書店からは、赤い本は見付からなかった。 それをイルザに問うと、館に在るのではないか、と答えられたそうだ。   そこでリチャードは、ロンドンの店を閉めると、このハイランド地方の館に引っ越し、館の在る街に店も移した。   そして、休みの日に、早速館中を歩き回り、赤い本を捜した。 捜した、というのは、祖父の自室の書棚からは、その本は見付らなかったからだ。 館の何処かに隠されている。 そう直感したと、語っていたのを覚えている。   リチャードは祖父の花壇を掘り返してみたり、壁を叩いて隠し部屋が無いか捜してみたり、とにかく赤い本の捜索に、まるで憑りつかれた様に夢中だった。   しかし本は見付らない。 そこで再びエヴァに相談すると、お母様なら何か知っているかもしれないわ、と教えられた。   祖母のマーガレットは病気だった。   ユアンが赤い本を手に入れた、その年の冬、ラテン語で書かれたその本の翻訳を漸く終えた祖父は、ある交霊会を開いた。 参加者は、ユアン、マーガレット、そして祖父の親友で、同じ古書店経営のビリントン夫妻だ。   その交霊会がどんな物だったのかは、今の私にも想像はつく。   丸薬。   トランス状態。   意識と記憶の喪失、だ。   その交霊会の後、ビリントン夫妻は、床に魔法円を描いて、その中心で手首を切り息絶えるという怪死を遂げた。   祖母は祖母で、館の塔の一室に引き籠り、次第におかしくって行った。おかしくなるにしたがって、それは引き籠りではなく、幽閉に変わって行った。   そして一か月後、祖父は自殺する。   そんな事件があったのだ。   エヴァ叔母さんは、祖母なら赤い本の行方も知っているのではないか、と言う。   すると、リチャードは、祖母との面会に、私を仲介にしたいと頼み込んできた。   最初は戸惑った。 祖母が毎晩、錯乱し、叫び声を上げているのを聞いていれば、当然だ。   しかし、館に引っ越して以来、塔に幽閉されたままの祖母と面識が無かったリチャードは、どうしても仲介して欲しいと、食い下がってきた。 だがそれでも私は断りたかった。 祖母が幽閉されてから三年、面倒を任されているメイドのミニー以外、家族は誰も、塔に近付こうとはしなかった。 何か祖母に用がある時は、全てミニーに頼むのだ。 だからもう、三年も顔を合わせていない。 現在の祖母がどんな状態に在るのか想像に難い。 否、深夜の絶叫から、その姿を想像したくなかったのだ。   しかし、リチャードに、お祖母様は今どんな状態にあるのか?と訊かれて、服はボロボロかもしれない、涎を垂らしているかもしれない、目は虚ろで、話しかけても叫び声しか返って来ないかもしれない、等と想像してしまった。   会いたくない。 つくづくそう思った。 だから仲介は断ったのだ。   だがしかし、リチャードはどうしても祖母に会うと言って、私が仲介しないなら、一人で塔に行くと話し合いの席から立ち上がった。   それは危険だ、祖母が知らない男の侵入に驚いて、暴れたり攻撃したりするかもしれない。 だから、仕方がなかった。渋々リチャードについて行った。つまり仲介を引き受けてしまった。   ※   ※ あの日は奇しくも、祖父が交霊会を開いた三年後の同じ大雪の日だった。 塔の中、冷たい螺旋階段を上る。 ヒタ、ヒタ、と二人の足音が煉瓦に反響し、まるで誰かに尾行されている様な気分で、何度も後ろを振り返った。 しかし、手に持つランプの明かりに照らされた自分の影しか見えない。 だが蝋燭が風に揺れた刹那、その影が揺らめいて、覆い被さる様に伸びて来た。 その姿は、まるで髪を四方に振り乱し、痩せ細った老婆の様に錯覚して、息を飲んだ。 これから会いに行く祖母を彷彿とさせたからだ。   塔のてっぺんの小部屋の前に着くと、叔父さんは、何の躊躇もなく扉をノックした。 私は、ノックの次には老婆の奇声が響くに違いないと、身を竦めて身構えていた。 すると、どうだろう。 奇声どころか、品の良い老婆の声が、 「ミニーなの?どうぞ入って」   耳に届いた。   どういう事だろう。 あの毎晩叫び声をあげている祖母の返答とは思えない。 正直拍子抜けした。 まるで、正常人の声音だ。 では、毎晩の奇声は何だったのか。 祖母は、とっくに正気を取り戻していて、異常者の演技でもしているというのか。   叔父さんは、返事を聞くと、鍵穴に鍵を差して回した。 扉が開く。   そこで、私の推測は、間違っていたと気付いた。 扉を開けた瞬間の、この異臭。 正常人が住む、正常な部屋の臭いではない。   叔父さんは、鼻と口を押えながら、室内に入っていく。 私も、叔父に仲介を頼まれた以上、それに続く。 室内は伽藍としていた。 机にベッド、キッチンに書棚。 あるのは、それだけだ。 否、違う。 祖母の異常性を示す物が、壁面一面に飾られている。 祖母は絵画を描く人だった。 壁一面に、その自作品が、所狭しと飾られているのだ。 それも、隙間を開けず、額縁と額縁が、触れて並ぶようにして。 つまり、壁は見えず、絵画に覆われている。 良く見ると、額縁の上に額縁が重なっている個所もあるくらいだ。 こんな飾り方は見た事も聞いた事もない。   それに、異臭の正体も見付けた。 部屋の隅に置いてある、おまるだ。 この部屋には、お手洗いが無い。 軟禁されているのだから、おまるがあるのも当然なのだろう。 だが、私には、到底その臭いが耐えられなかった。 「あら、珍しい。ミ二―じゃないのね」   老婆は、キッチンで調理の最中だった。 片手にナイフを持って、キュウリを切っている。 「お初にお目にかかります。エヴァの夫のリチャードです」   叔父が恭しく挨拶する。 「あら、エヴァが結婚したなんて、聞いてないわ」 「三か月前に式を挙げました。挨拶が遅れて、大変申し訳ありません」   老婆は、手元のナイフを見詰めたまま、 「いいのよ、私は、この館に居ないも同然ですもの。報せがなくても、仕方がないわ。でも、こうして挨拶に来てくれて有難う、リチャード」 「大変申し訳ない」 「構わないわ。要件はそれだけ?」   すると、叔父さんは、それまでの恭しい態度を崩して、突然目を光らせた。 「時に、お義母様、この館には、伝説にあるアッピンの赤い本が隠されていると仄聞したのですが、御存知ありませんか」   すると、老婆のナイフを持つ手が、震えだした。 行先の定まらないナイフが、キュウリの上で揺れているのだ。   何か、老婆の心に負荷を与える拙い話しだったのだろうか。 「何故、貴男は、そんな事を訊くの?」   振り向いた老婆の顔は、怯えていた。 「私は、亡きお義父様の古書店を引き継ぎました。古書に興味があるのです」   叔父は、にべも無く老婆の恐れを一蹴して、話しを続けた。 「そんな物に興味を抱くべきではないわ。忘れなさい」   老婆の怯えた表情が、威嚇に変わる。   私は、このまま話しを続ければ、何か悪い事が起こるのではないかと、危惧して、よっぽど部屋を出たかった。 しかし、叔父と、祖母は、本が在る無いの問答をしていて、話しは終わりそうもない。 そこで、不安を紛らわせるため、何気ない態度を演じながら、壁一面の絵画に目をやっていた。   その中に、一段と古く、祖母の署名ではない、人丈程の絵があった。 その絵だけ、どこか色がくすんでいて古臭い。 何故だろう、と思案していると、叔父が呼んだ。 「イングリット、仲介を頼んだのだから、君からも、本の在処を教える様に頼んでくれ」   その叔父の視線につられて、祖母も此方を見た。 すると、どうした事だろう。 祖母は、もの凄い形相で此方を睨むと、ナイフを持ったまま、あっという間に間合いを詰めてきたのだ。   そして、私にナイフを突きつけると、言った。 「ディッキーが来るよ」 「ディッキー?あの砦の管理人の?」   ディッキーとは、丁度、祖父が開いた交霊会の直後に行方不明となった、館の敷地にある砦の管理人の事だ。 初老の気さくな男性で、館の家族みんなから好かれていた。 特に、祖母とは、仲が良かったようだ。   そのディッキーが来る、とはどういう意味だろう。 ディッキーは行方不明の筈だ。 この老婆は、その行方を知っていて、帰還を予知でもしているのか。 「その絵から離れな。ディッキーが来てしまうからね」   この絵? 何の関係があるのだろう。 「早く、その絵から離れるんだよ!ディッキーが来る!ディッキーが来る!」   老婆は突然、絶叫した。 まるで、それまでの正常人の様なふるまいが、人の皮を被った狼でもあったかの様に。 その迫力と、異常性に押されて、私は、その絵から一歩退いた。   それでも、錯乱した老婆は、 「ディッキーが来る!ディッキーが来る!夢の悪魔に言われたんだよ!ディッキーを手に掛けろと!それでもディッキーはやってくるんだよ!」   叫び続ける。   見かねた叔父さんが、私の二の腕を掴んだ。 「部屋を出よう」   その目には、悪魔を憐れむ様な、やはり御祖母様は病気だったね、と言わんばかりの失望が込められていた。   私は事態に驚き、何が起こったのか把握出来ず、逮捕されて連行される犯罪者の様な惨めな表情のまま、叔父に引き摺られて部屋から連れ出された。   叔父は、外から扉を施錠すると訊いた。 まだ室内からは、ヒステリックでエキセントリックな祖母の声が響いている。 「ディッキーというのは誰なんだい」   そんな奇声など、どこ吹く風で、叔父が落ち着いた声を奏でた。 内心、祖母の豹変ぶりにショックだった私は、その低音の叔父の声に、少し安堵した。 「ディッキーというのは…」   私は、塔の小窓から、岬の先に建築された砦を指さした。 「あの砦の管理人だった男です」 「だった?」 「今は行方知れずなんです」   叔父は、暫く小窓から砦を眺めた後、 「生きているのか、死んでいるのかも判らない状態なのかい?」   と、ディッキーの安否を気遣った。   それを聞いた瞬間、私の腕に鳥肌が立った。 あの噂。 世にも忌まわしい噂を思い出したからだ。 それは、近隣に住む住民や、姉のイーディも目撃したという、あの怪しい存在の事だ。 「生きていて欲しいとは思います。でも…」 「でも?何なんだい?」   あの妙な噂について、話すべきだろうか。 そう思案していると、叔父が私の重い口でもこじ開ける様に促した。 「亡くなっているという、結論にたどり着く論拠か何かあるんだね?」   論、ではない。 何せ荒唐無稽な非科学現象の目撃談が、その根拠なだけなのだ。   私は「論」ではない。 という事を説明するために、話してみる決意を決めた。 「幽霊の存在は信じますか?」 「幽霊?私は目撃した事は無いが、世の中には沢山の目撃談があるね」   そう言われて、私は頷いた。 決して、幽霊の存在を真っ向から否定しない叔父の態度に安心したからだ。 「深夜になると砦の周囲をうろつく、人影の目撃談が幾つかあるんです」 「人影?誰なんだい?」 「あの砦は、周囲を高いフェンスに囲まれていて、誰も敷地に入る事は出来ません」   すると、叔父は、再び砦を見遣って、そのフェンスを確認すると、ははあん、と唸った。 「誰も入れない筈の敷地に人影が目撃されている。そこでは管理人の行方不明事件があった。だから、その人影は、管理人の幽霊ではないかと噂でもあるのかな?」   私は結論を先に言ってもらえて、自分で四方山話をしなくてすんだと、内心安堵した。 「それで、管理人は既に亡くなっていると憶測が成り立っていたりするんだね?どんな目撃談なんだい。もっと具体的に話しておくれ」   目撃談は簡単な内容ばかりだ。   姉のリニーが話す所に拠れば、深夜に友達と、岬の下の浅瀬に夜釣りに行ったら、頭上の砦の辺りからザクザクと、人の足音がしたそうだ。 そして見上げると、人影があった。   近所の住民の話しでは、夜中に、お手洗いに行った際、窓から砦を見遣ると、灯りが点いていて、砦の窓に人影があったとかの、眉唾ものの話ばかりだ。   それを叔父に話すと、 「ゴロツキか何かが、不法に侵入したのではないのかい?」   と眉を顰めた。 「でも、家族の者は、行方不明になって、どこかで亡くなったディッキーが、帰って来たのではないかと話していました」   しかし、人影、だけでは幽霊と言い切れないのか、叔父は失笑してみせた。 だけど直ぐに真顔になって、 「確かに、あの高いフェンスを乗り越えられる人間が居るとも思えないな」   そう言って、暫く沈思黙考した。   何を考えているのだろう。 幽霊騒ぎに、合理的結論でも出す気だろうか。 私が、その横顔を、じっと耐えて見つめていると、叔父は「あっ」と声を上げた。 「あの砦は、どういう理由で建築されたんだい?」 「中世に、この館の所有者だった貴族が、敵に攻められた時に備えて、籠城するために、建築したそうです」   すると、叔父は、獲物の赤ずきんの来訪を喜ぶ狼の様に、ニヤリと笑った。 「どうしたのです?」   私が訝しむと、叔父は更に口角を吊り上げて、 「アッピンの赤い本を、見付けたかもしれない」   と不敵な態度を見せた。   私が声を上げて驚くと、 「探索に付き合うかい?」   目星はつけたが、これから冒険でもするかのような言い方をした。 「ミニーを呼んで来てもらえれば、直ぐにでも、出発出来るよ」   その時、もう叔父の中では、私を冒険に付き合わせる事は、決まっていたようだった。   そう、あの奇怪で怪しげな、地下への探索にだ。   第三章 ミニーが来ると、叔父は、祖母を散歩に連れ出す様に命じた。   最初はミニーの提案を嫌がっていた祖母だったが、この館で唯一信頼出来るミニーが説得すると、小一時間の後に、漸く説得に応じ、出支度を始めた。 三年間軟禁されていた部屋を出ると、最初は不安気な表情をしていたが、塔を降りた頃には、それが緊張に変わっていたようだった。   一部始終を傍観していた私は、祖母の様子を余程心配したが、そんな心配など他所に、叔父は祖母の部屋へ再び戻ろうと誘う。 鬼の居ぬ間になんとやらだ。 この場合、冒険へ、という言葉がなんとやらに当てはまるのだろう。   そう、叔父は、この祖母の部屋に、赤い本の隠し場所に繋がる入り口があると踏んでいた。 だから、入り口の見張り役である邪魔な祖母を、部屋から連れ出したのだ。   叔父は、部屋に入ると、あの古ぼけた人丈の絵に関心を抱いた。 「イングリット、そこのナイフを取ってくれ」   さっき、私が刺されそうになった、あの忌々しいナイフの事だ。 キッチンから、ナイフを取って渡すと、 「この絵だけ、古ぼけている。おまけに署名は御祖母様のものではない。理由が判るかい?」   祖母が余所から購入した絵だから? それともゆずって貰った絵だから? 突然の質問に、あれこれ黙考していたが、結論は出ない。 「署名が違うのは、この絵が、御祖母様が監禁される前から、ここにあったからだよ。そして、古ぼけているのは、修復出来ないから、つまり、ここから持ち出すために、額縁を壁から外せないからなんだ」 「それが、これから行う探索と何か関係あるのですか?」   すると、叔父はナイフを額縁と壁の隙間に差し込んで抉った。 「答えはここにある」   額縁が埃を舞いながら、手前に倒れる。 私は、慌てて絵を支えた。   するとどうだろう、額縁の裏の壁には、ぽっかりと空洞が口を開けていた。 叔父が、その空洞に頭を差し込んで、中の様子を窺う。 「縦穴だ。ずっと下まで続いている。縄梯子が備え付けてあるみたいだ」 「入るのですか?」 「懐中電灯が二つ必要だ。持って来てくれ」   わたしは言われた通り、細めの懐中電灯を自室に戻り用意した。 細目の懐中電灯を選んだ理由は、両手足を使って縄梯子を降りると思ったから、口に咥えられる大きさが良いと考えたからだ。   塔に戻って、それを叔父に渡す。 「気が利くな。これなら、両手足が使える」   叔父はそう言って懐中電灯を口に咥えた。 そして、空洞に身を託すと、縄梯子を下り始めた。 私も、それに続く。   縄梯子は長かった。 一体全体何処に繋がっているのだろう。   五分もすると、その答えが出た。 叔父がまず、縄梯子を降り切ったのだ。 続いて、私も足裏に硬い石畳の感触を確認する。 「ここは、塔の、と言うより、館の地下だな」   叔父が、地下空洞の周囲の壁面を、灯りを回して確認する。   どうやら、空洞は通路になっていて、何処かに繋がっているようだ。 「この先に、書庫でもあって、其処に赤い本が隠されていると踏んでいるんですか?」 「探索する価値はある。隠し場所としては、絶好の場所だ」   そう言って叔父は、通路の先を照らしながら歩き始めた。   しかし、実を言うと、私はこの時、怖気づいていた。   ジメジメと、真っ暗で、冷たい石壁の、閉塞感の在る、秘められた地下道だ。   何か、怪しく、知らなかった方が良い場所なのではないか。 そう思えたのだ。   この先に在る物を知ってしまうと、後で後悔するのではないか。 後悔するほどではなくとも、知らなくて良かった秘密を抱え込む事になるのではないのか。 そんな事が頭を過ぎっていた。   そこへ来てだ。 突然、懐中電灯の灯りが、明滅した。 点いたり、消えたりするのだ。 電池が切れかかっているのか、電球が切れかかっているのか知れないが、この真っ暗な地下道では命取なハプニングだった。   思わず、懐中電灯を叩いた。 すると、ふっと灯りが点かなくなった。   辺りは真っ暗闇だ。 自分の指先すら見えない。 遠くを見ると、微かに、叔父の持つ電灯の灯が遠ざかって行くのが見える。   私は焦った。 周囲の闇が全身を包む。 まるで、闇に身体を侵食される様だ。 ジワジワと、体内に闇が浸透し、身体が消失して行く。 そんな錯覚を覚えた。   何とか灯りを点けようと、懐中電灯を弄る。 しかし、その間にも、闇は私を取り込もうと、侵食して来るのだ。 あたかも、自分が存在しなくなる、そんな感覚に捕らわれた時だった。 自分は今、焦っている。 これは「闇」に侵食されているのではなく、「不安」という心の闇に侵食されているのだ。 そう気付いた。   落ち着こう、そう自分に言い聞かせた。   そして、電池を一旦抜いて、入れ直すと、電灯の灯りが戻った。   何だ、落ち着いてやれば簡単な事じゃないか。   ほっと、安堵して、胸を撫で下ろした刹那、再び電灯の明滅が始まった。   再び心が不安で充満する。   少しでも、灯りで周囲が確認出来る内に、叔父に追い付こう。 そう考えて、通路を小走りした。 叔父の居る筈の前方に明滅する灯りを向けると、遠くに叔父の背中が見えた。 灯りが消えると、それが二人の足音だけに変わる。 そして灯りが点くと、徐々に叔父に近付いているのを確認出来る。 早く追い付きたい。   何度か、それを繰り返し、叔父の背中を明滅の中で確認していた、その次の瞬間。 ふと、灯りが点くと、叔父の背中が消えていた。 突然消えたのだ。 電灯が消えている一瞬の内に、叔父は何処かへ行ってしまった。 慌てて叔父の居た地点まで駆け寄ると、まるで壊れた灯台の様に、明滅する灯りで身体を左右に反転させながら、辺りを照らした。   しかし見えるのはテラテラと滑り光を反射する石壁ばかりだ。   人が消える、などという事はあり得まい。視認外に叔父は隠されているのだ。   思わず天井に灯りを向けた。 しかし、木の根がぶら下がる罅割れたコンクリートの天板しかみえない。 では足元は? もしかしたら、石畳に躓いて、叔父は倒れているのかもしれない。 光を床に向ける。 その時だった。 視界の隅に、進行方向に向かって左側の底面から、高さ一メートル程の正方形の穴を捉えた。   横道だ。 姿の見えない叔父は、この中に消えたに違いない。   私は、その場にしゃがみ込むと、横道の中を照らした。 「叔父さん、居る?」   呼んでみた。 すると異界からでも届くような、くぐもった声が響いてきた。 「こっちだよ、イングリット」 「この低い通路ですか」 「そうだよ、君もおいで」   妙にくぐもった声だ。 あれは本当に叔父の声だろうか。 まるで、この闇の先にある異界からの使者の呼び声にも聞こえる。 私を何処かに連れ去るための、偽りの呼び声に。   そんな風に逡巡していると、声が意外な事を言った。 「イングリット、扉があるよ。早くおいで」   扉ですって? もしかして、この闇の世界からの出口だろうか。 漸く陽光の下に出られるのかもしれない。   私は、意を決して横道に身を委ねた。 狭い。 そう感じながら、しゃがんだままの姿勢で、前進する。 すると、横道は右に折れていた。 身体を右に旋回すると、明滅する灯りの中に、叔父の横顔が見えた。 その刹那、どんなに私が安心した事か。   叔父は左手にある何かを見上げている。 叔父に追い付いて、視線の先を見遣ると、それが十段程の階段と、その上の踊り場には木製の扉がある事が判った。   漸く地上に出られるのか! 私は歓喜しかけて、言いさした。   何故ならば木戸には、隙間があるが、一向に陽光が差し込んでいる様子はない。   隙間の向こうは、暗闇だ。 ――異界への扉。   そう頭に、フラグが浮かんだ。   開けてはいけない。   そんな気さえする。   開ければ、もう地上には戻れない。   そんな気さえもする。   しかし叔父は、私の逡巡するのをにべもなく無視すると、階段を上って踊り場で立ち上がった。 踊り場の天井は高い。   私も心細さから従ってみた。   扉の触感を利き手で確かめる叔父。 「木製だが、大分厚い様だ」   私は、その動きを目で追いながら、ふと、木戸の木目と節穴が、絶叫する人の顔に見えるのに気付いて、身震いした。 「施錠されている。何の部屋なのか中が見えないかな」   叔父がぽっかりと瞼を開いた節穴から中を覗く。しかし何も見えないのか、 「判らない、残念だ」   と踵を返した。 「この扉の調査は後回しにしよう」   そう言って、カツカツと階段を降りる。   残された私は、叔父と同じように部屋の中が気になって、節穴に片目を近付けた。   しかし中は真っ暗な筈だ。 このまま覗いても叔父の猿真似で何も見えはしない。 私は、懐中電灯の灯りを節穴から差し込んで、中を覗けないか試みた。 しかし、懐中電灯を節穴に中てると、小さな節穴は塞がれて覗くスペースが無い。 かと言って、顔を節穴に寄せると、懐中電灯の角度が悪くなり、光が部屋の中まで届かない。   そんな風に悪戦苦闘していると、 「ふふふ」   と微かに誰かが笑った。   振り向くと、叔父が階段下から、横道の更に深部に向かう所だった。   今の笑い声は、滑稽な私を見ての、叔父の声だったのだろうか。   しかし、声は木戸の方から聞こえた気もした。   叔父の声の反響ではないとしたら、木戸の向こうに誰かが?   ふと、懐中電灯を節穴から離して、自分の顔も遠くから節穴を覗けば、両者が邪魔にならないと気付いた。 そう思って、一歩退くと、懐中電灯を向けた。 その瞬間、灯りが再び消えた。 辺りは真っ暗だ。 暗闇に包まれながら、次に灯りが点くのを待った。   その数秒間に、瞬間的に恐怖を覚えた。   この扉が、異界への入り口で、さっきの笑い声が、扉の番人、つまり木目と節穴の顔の奴だとしたら。 灯りの点いた瞬間、奴の絶叫した顔は笑い顔に変わっているかもしれない。   そう考えると、さっきまで恐れていた闇が、明るくなる事こそに恐怖に感じた。   そして私は踵を返すと、その瞬間点灯した灯りを頼りに、階段を駆け下りた。   振り返る事は出来なかった。 振り返れば、半開きになった扉の隙間から、何か、蛞蝓の様な気配を持った何かが、こちらへにじり寄って来ているかもしれないからだ。   私は横道に降りると、再びしゃがむ姿勢で、一目散に叔父を追った。   その間にも、蛞蝓の気配はジリジリ、背後から追い上げて来る様な気がした。 足音はしない。 奴は床を舐める様に這うからだ。   その静寂を破る様に、前方から叔父が呼んだ。 「イングリット!縄梯子だ!地上に向かって伸びているぞ!」   私は、歩調を速めた。漸く出口を見付けたのだ。 早く地上の陽光を浴びたい。   背後の奴も、地上までは、追っては来まい。   叔父に追い付くと、確かに井戸の様な縦穴に縄梯子がある。 叔父は私が追い付いたのを確認すると、そくささと登り始めた。 その後を追う。 頭上を見上げると、塔から降りた時の縄梯子よりも、短い気がした。 高所から垂れ下がった縄梯子ではないのだろう。   地上はもう直ぐだ。 天井が近付いて来る。 叔父が天板を押し上げると、隙間から明かりが差した。   縄梯子を登り切ると、先ず叔父が、続いて私も、天板の上に立った。   周囲を見回すと、其処が砦の厨房だと判った。 窓から景色を眺めると、館が見えた。 「ここは砦だね」   リチャードが窓からひょっこり頭を出して呟いた。 「間違いありません、子供の頃に、まだここで管理人をしていたディッキーと、クッキーを焼いた記憶があります」 しかし何という事だろう。 砦の中は荒れ果て、まるで廃墟だ。 ディッキーが居なくなってから、手入れを怠っているのだから当たり前か。   それにしても、蜘蛛が多い。 至る所に糸を張り巣食っている。 キッチンからでると、廊下も蜘蛛の巣でビッチリだった。 私達が廊下を進むと、人の背丈に空間の続くアーチ状の蜘蛛の巣が、フルフルと動いた。 外敵の侵入に驚いているのだろう。   しかし、それだけならまだ良かった。 巣を作るスペースのない余り物の蜘蛛達は、まるで彫刻の様に凸凹とした塊を作って、天井の角にたむろしていた。   それが、外敵の侵入に怯えて、頭上にバラバラと落ちて来たのだ。   蜘蛛の雨が、頭に肩に胸に降り注ぐ。   蜘蛛の長い脚が、髪の毛に絡まって、そのまま毛の中に入って来る。 ある蜘蛛などは、私の耳や口に入って来ようとした。   赤黒い蜘蛛の群れは、必死に逃げようとする私達の靴の下にも入って来た。 赤黒い蜘蛛の体液は、その胴体に似て以って赤黒かった。   滑った転びそうになったが、必死にバランスを取って耐えた。 倒れれば蜘蛛の海に寝転がる事になる。   悲鳴を上げながら、二人は廊下を駆け抜けた。 蜘蛛の雨は続く。 堪らず叔父は窓から外に飛び出した。   一方私はと言うと、手近な扉を体当たりする様に開けると、逃げ込んだ。   部屋に入ると、蜘蛛の雨は止んだ。 安堵しながら身体に付いている蜘蛛を払い落して、一息吐いた、その瞬間。 部屋全体の壁一面に何かレリーフされているのを見て取って、血の気が引いた。   レリーフでは無かった。   壁一面に大小の蛾の群れがへばり付いているのだ。 その蛾の群れが、時たまゆっくりと羽を動かす。   蜘蛛の次は蛾か。とんでもない所に来てしまった。   私は、叔父の真似をして、窓から窮地を脱しようと、蛾の群れを刺激しない様、ゆっくりと摺り足で扉の対面にある窓に向かった。   部屋の中を見回すと、どうやら此処はディッキーの書斎の様だ。   机の上に目を遣ると、一冊の赤い本が置いてあった。   すわ、アッピンの赤い本か?と思い、思わず手に取る。   しかし、頁をパラパラと捲ると、それはディッキーの日記だと判った。 日記の内容は、砦の周りであんな虫を見付けたとか、岬から釣り糸をたらしたらこんな魚が釣れたとか、そんな記述ばかりだ。   行方不明になる様な動機らしき記述は、どこにも無い。 こんな平凡な毎日を送っていて、何故突然姿を消したのだろう。私が暫し思いに耽っていると、窓がノックされた。 窓の外から叔父さんが手招きしている。 「何か見つかったのかい?」   窓ガラスを開けると、叔父は私が手に持つ赤い本に視線を遣った。 「いいえ、これはアッピンの赤い本じゃないわ。ディッキーの日記よ」   すると、叔父は少し残念そうな顔をして、 「そうかい。残念だ。でもこっちは見付けたよ」   と地面を指さした。 「足のサイズは二十三センチって所だ。履物はサンダル。ぐるぐると、とりでの周囲を回っている足跡だよ」 「幽霊の足跡ですか?」 「いいや、まだ何とも言えない」   そう言い終えると、窓から部屋に入って来た。そして部屋を見回し、 「珍しいレリーフだ」   と頷いて、書斎の書架を物色し始めた。しかし目的の本は見付らないのか、 「やはり、地下のあの部屋が怪しいな」   私に戻ろうと促した。   あの真っ暗な地下道にか。思わず身震いした。蛞蝓の気配の奴が、まだ縄梯子の下で待ち伏せしているかもしれないからだ。 「戻るんですか?あの地下に」   すると、叔父はすっと扉を開けて、蜘蛛の雨がもう止んでいるのを確認すると、 「蜘蛛達は、もうどっかに行ってしまったよ。さあ行こう」   二人は安全になった廊下を天井を気にしながら、蜘蛛の巣のアーチに引っかからない様猫背で縄梯子まで戻った。   ぽっかりと口を開けた穴からは、もう蛞蝓の奴の気配はしない。 まず叔父が、続いて私が縄梯子を降りた。   地面につくと、またあの横道をしゃがんだ姿勢で進む。   木戸の扉に着くと、叔父はそれを蹴り始めた。 木目の顔が歪む。 何回かの内に木製の扉は軋み、更に続けると、木版が割れて穴が開いた。 そこから腕を差し込んで、内側から解錠する。   木戸が開くと、中は真っ暗だった。 「電気はないのかな。あったあった」   叔父が扉の横にスイッチらしき物を見付けて、点けた。部屋にオレンジ色の明かりが灯る。 天井からぶらさがる、ナトリウムランプだ。 漸く懐中電灯を消す。   部屋は煉瓦造りで、中央には書架が三つあった。 叔父が、その書架に駆け寄る。 そして暫く物色した後、感嘆の声を上げた。 「すばらしい!ここはコレクションの山だ!」   私も書架を覗いてみた。 すとそこには、ゾハルだのソロモンの大鍵だの偽エノク書だのといった、古今東西の魔導書が並べられていた。 「いわゆる珍書や奇書の類じゃありませんか」 「否、これは宝の山だよ。これだけの魔導書を集めるとは…。恐らくはキリスト教徒が持っていてはいけない本ばかりだから、ここに隠していたのだろう。アッピンの赤い本も此処に在る筈だ、君も探してくれ」   言われるがままに、私はアッピンの赤い本を探して、左端の書架から探す叔父とは反対に、右端の書架に収められた本の背表紙を順番に見て行った。   書架に収まった本の中には、ラテン語やドイツ語、それに何語だか判らない題名の本もあった。 その中に一つ、背表紙には何も書かれていない、赤いなめし皮のカバーの付いた本があった。 まさか…。   手に取った瞬間、本の向こう側から、真っ黒な女の髪束の様な艶やかな化け物が躍り出て来た。 「ひっ」   と悲鳴を上げる。   その声に気付いて、叔父が駆け寄る。 床に落ちた髪束は、ウネウネと身を捩らせて動いた。 「蛇だよ、でかいな。あの節穴から入ったのかもしれない」   そして、逃げ去る蛇から、視線を、私の手元に移すと、 「それは?」   と訊いた。 「題名も何もない本です。中は…」   パラパラと頁を捲る。 「ラテン語の手書きの本です」 「ちょっと貸してくれ」   叔父に手渡す。   叔父は、内容を吟味しているのか、暫く中身を見詰めていた。 「ラテン語が読めるのですか?」 「いいや、でも、挿絵の図解に見覚えがある。この最初の頁にある紋章は、悪魔バアルの紋章だ。アッピンの赤い本の伝説では、森で少年が出会った悪魔はバアルだったとある。この本かもしれない」   塔に戻ると、まだ祖母は散歩中で不在だった。 叔父は、館の居間に私を連れて行くと、暖炉に火をくべながら言った。 「イングリット、君は大学に通っているのだろう。大学の図書館に、ラテン語の事典はないかい?」 「あると思います」 「では、翻訳を頼めないかな」 「それは、一向に構いませんが…。この本が、アッピンの赤い本なのですか?」 「私は、そう踏んでいる」   そうして、私は大学の授業が終わると図書館に籠り、翻訳を始めたのだ。   そして、悪魔の召喚には謎の丸薬や、儀式の部屋のお膳立てや、長い呪文の詠唱が必要だと理解した。   そして、あの交霊会が行われたのだ。   参加者は父のフランク、叔父のリチャード、姉のリニー、その旦那のチャールズ、そして私の五人だ。   交霊会は危険なものだった。   丸薬。   トランス状態。   全員の意識と記憶の喪失。   思い出すだけで、怖気がする。   そして一週間後の今日、チャールズが死んだ。自殺だという。   フランクは、その現場にあった血で描かれた紋章を擦って消したのだという。 「あんな紋章が描かれているのを警察にみられて、交霊会の事を知られて、記憶喪失になったなどと明るみになれば、儂等は全員病院行きだ。だから消したんだ。警察の聴取でも、交霊会の事は話していない」   これからどうするつもりなのだろうか。 「前回の降霊会では、ビリントン夫妻は死に、ユアンも自殺して、マーガレットは病んでしまった。今回の交霊会の参加者は残る四人。そのメンバーにも、何か不幸が起きるかもしれない。お前も気を付けていろ」   父フランクの話しは、それだけだった。 そして、その予想は当たったのだ。 翌朝、リニーの遺体が、氷の海から発見されたのだから。   第四章 フランクの飼い犬マーティを、毎朝六時から散歩に連れ出すのは、住み込みメイドのミニーの日課だった。  その日も、昨夜の騒動に追われての寝不足の眼を擦りながら、マーティをリードに繋ぐと、館を出た。この時期、北半球の日の出は遅く、まだ陽を浴びていない空気は、肌寒く、皮膚を浸透して身体を凍りつかせる。  それでも、主人であるフランクと、この散歩の時間を楽しみにしているマーティのためにと、気合いでいつもの散歩コースを廻った。  散歩コースは、館の周囲を一周と、近くの林の獣道、それに砦のある岬の突端まで行ったら終了だ。  館の周囲と林には何事も無かった。しかし岬の突端に着いて、やっと終わったと生欠伸を出した途端だった。  マーティがまだ流氷に覆われている海面に向かって吠え出したのだ。 「どうしたの?マーティ」  犬の視線を追うと、薄い流氷の下に何かが浮いている。  眼鏡を取り出して鼻先に乗せると、それが何か判った。  人間だ。  その薄い氷の下に浮かぶ女性は、まるでガラスケースに横たわる人形の様に美しかった。眠れる氷の美女、そう形容するに相応しい。その美貌、尖った顎と鼻、厚い二重の大きな瞳には見覚えがあった。イーディだ。  ミニーはマーティを引き摺る様にして、館に走った。フランクを始めとするカーライル一家にそれを伝えると、まだ寝起きだった彼らは寝間着姿のまま館を飛び出し、岬へ向かった。そして氷の美女を認めると、イーディかどうか確かめるために、また館に戻って彼女の寝室が空である事を確認したり、再び岬に戻って、もっと近くから女性を確認しようと、岬の下の浜辺に降りてはみたものの、高度があった方が良く見えると、また岬に登ったりしていた。  要は、上へ下への大騒ぎだ。  その間に、しっかり者のミニーは、警察とレスキューに連絡したりしていた。  やがてレスキューが物々しく到着すると、彼らはゴムボートで薄い氷を割りながら、氷の美女に近付いて行った。  果たして、眠れる氷の美女は、本当にイーディなのか。  昨夜、父親を亡くしたばかりのマーサは、まさか母親までも一夜にして亡くすとは思えず、その呼吸が吐く時のみならず吸う時にも泣き声を上げている程だ。  イングリットはというと、そのマーサを抱きしめたまま、不安げな眼で、氷に穴が開きそうな程、レスキューのボートの行く先を見詰めている。  フランクとイルザは恐怖の余り、古くなってばらつく音を立て始めたエンジンの如く、ガタガタと不規則に震え、その震える音が、まるで聞こえてきそうな程だ。  唯一リチャードだけが冷静さを維持していた。 「お義父様、警察が到着したようです」  振りむくと、砦までの砂利道を、数台のパトカーが家長に呼応するが如く、ガタガタと車体を小刻みに揺らしながらやって来る。  最初に、先頭のパトカーから降りたのは、昨夜カーライル一家を聴取した、フロッガー刑事だった。 「チャールズの奥さんが亡くなったって?」  フランクに撫し付けに訊く。海上では、レスキューが遺体を回収して引き揚げて来た所だ。 「今、レスキューが回収した所だ。娘かどうか確認する」 「登って来るぞ」  フロッガーが顎でしゃくる方角を見ると、レスキューが担架に乗せた美女を連れて、岬の脇の小道から、上がって来る所だった。 「ああ、イーディ!」  レスキューが小道を上がりきる前に、年老いて目の悪いフランクにも、それが娘だと確認出来た。 「お母さん…」  とマーサが駆け寄ろうとするのを、 「見ちゃダメ」  とイングリットが制する。  一家がイーディだと確認したのだ。それからは警察の出番だった。無遠慮にイーディの自室に入って、遺書が無いか確認したり、刑事達は海に入った時刻を、鑑識と推定したり。  捜査が一段落したとみると、フランクはフロッガーに訊いた。 「刑事さん、娘は…イーディは自殺だったのでしょうか」  するとフロッガーは、慌ただしかった捜査で乱れた髪を直しながら、襟も正して。改めて遺族に向き合った。 「夫を亡くしての、後追い自殺の線も考えております。しかし、少しおかしな点もあるのです」 「おかしな点?」 「ほら、この岬の上から眺めると、イーディが海に入って氷を割って西に向かった軌跡がわかるでしょう」 「氷の割れ目が一目瞭然です。確かに判ります」 「その軌跡を追うと、途中で、そこで暴れまわったかの様に、周囲の氷が大きく砕け、今度は陸までの最短距離で戻ろうとしたのか、そこから折れ曲がっている」  確かに、軌跡は7の字の様に折れ曲がり、陸に向かっている。しかし、その陸に向かう途中で力尽きたのか、軌跡は浜辺まで届いていない。 「しかし力尽きた娘さんは、氷の下に沈んでしまったと思われる」 「娘は、何で、そんな事を?」 「疑問点は、それだけではありません。遺体を回収した時、娘さんは脱いだ上着の両袖を握ったまま凍り付いていました」 「その二つの謎を解く、合理的解釈でも何かあるのでしょうか」 「あります。娘さんは、溺れていた誰かを助けるために、氷の海に入ったのではないでしょうか」 「救助活動?それに失敗して自分も溺れたのですか?」 「溺れている人間を正面から抱きしめて救助しようとすると、暴れられて抱き着かれて上手く泳げない。だから背中側から抱えて救助するのが普通です。娘さんは、救助の対象に上着を掛けて、両袖を脇の下に通して、その袖を引っ張る形で救助しようとしたのではないでしょうか」 「そうなのか…イーディ」 「我々は、もう一人、沈んでいると推測しています」  だからレスキュー隊は、さっきから氷の海をウロウロしながら、海底を棒で突いているのか。  その話しを聞いていたカーライル一家とは少し離れた所で、その話に耳を傾けていたミニーは、顔面蒼白だった。  それに気付いたリチャードが、 「ミニー、大丈夫かい?」 「はい、少し気分が悪いだけです」  作り笑いで応えた様にしか見えなかった。 「検死官が来るまでの間、イーディを一旦館に保管してもらえませんか?その間、我々は、もう一人の捜索を続けます」     フロッガーが制服警官に、イーディを連れてけと指示する。カーライル一家も、イーディに連れ添って、館に戻って行った。  しかし、一人だけ取り残された、否、自ら居残った人物がいた。ミニーだ。彼女はイーディと一家を見送ると、浜辺に降りようとするフロッガーを呼び止めた。 「フロッガー刑事、フロッガー刑事」  その小声に気付いたフロッガーが足を止めた。 「何だい?」  するとミニーは周囲を見回してから、 「内緒の話しがあるんです。チャールズ様とイーディ様に関する」 「内緒の話し?聞いておこうか」 「では、此方へ」  ミニーはフロッガーの腕を掴むと、林の中の獣道に引っ張って行った。 「内緒の話しと言うのは何だい」  こっちは忙しいんだ、早くしてくれ、と言わんばかりの不遜な態度だ。そんなフロッガーに恐る恐る訊いてみた。 「昨夜の聴取で、亡くなったお二方が見た夢の話しは聞かれましたか?」 「夢?いいや、聞いていないが」  何だそりゃ、とばかりに両手を上げる。 「私は、丁度、昨日の夕方、相談をうけたんです」 「夢についてかい?」  何の話だか、まだ理解出来る筈もないフロッガーが、困ったように眉をハの字にする。 「そう、あのお二方は、交霊会以降、連日同じ悪夢に魘されていたそうなんです」 「ちょっと待て、交霊会というのは?」  急にフロッガーが真摯な顔つきになる。未知情報に興味を抱いたのか。  するとミニーはバツの悪そうな顔をして、 「交霊会の事も秘密にしているのですね。どうりで紋章を消した筈」 「紋章というのは?」  再び未知情報だ。 「悪魔バアルの力を借りた交霊会を、あの一家が行ったんです。それ以降、チャールズ様は、白壁に血文字である図形を描く夢を連日見ていたそうです」 「図形?紋章か?」 「その通り。チャールズ様は、悪魔バアルの紋章を描く夢を連日見て、そして…」 「実際に紋章を自分の血で描いて死んでいった。あの壁にあった、血を擦った跡がそれだな」  流石刑事、察しが良い。 「はい、恐らく、交霊会の事を秘密にするために、フランク様が消したのだと思います」 「何故秘密にしたかったんだろう」 「それは…聞いた話しでは、その交霊会では、参加者全員がトランス状態と意識と記憶の喪失を経験したそうです。だから、脳の病に罹った一族だと思われるのをいとんだのではないでしょうか」 「確かに、家族全員病院行きでは、一家の行先は危ういな」 「はい」  とミニーは暗い顔をした。 「イーディが見た夢というのは?」  そう訊かれてミニーは気を取り直して、 「悪魔が現れて、イーディ様を誘うのだそうです。岬の沖に娘のマーサが溺れている。助けに行こう、と」 「それじゃまったく、夢の通りじゃないか。イーディは夢の悪魔に誘われて、マーサの幻影でも見て、海に飛び込んだのか?」 「解りません。でも、イーディ様の発見された状況と、夢の内容が、余りにも酷似していたものですから、ご報告いたしました」 「うーん。夢に誘われての事故の可能性があるのか。それも交霊会を機に見た夢で」  フロッガーは暫く沈思黙考した後、 「確かに、交霊会に参加した全員を医者に診せる必要があるかもしれない。しかし一家は交霊会の事を隠していた事からも、素直に受診しないだろう。だが良い医者を知ってる」  フロッガーは、メモを取り出すと、そこに医師の氏名と住所を走り書きした。 「この医師に相談してみろ。悪魔憑きにも詳しい精神分析医だ」  悪魔憑きにも詳しい、と聞いてミニーは安堵した。もしも一家が精神科への受診を拒んでも、悪魔憑きの相談という形なら、この医師の話しくらい聞くかもしれないからだ。 「ありがとうございます、フロッガー刑事」 「構わんよ。じゃ俺は、夢に誘われたのではない可能性も考えて、もう一人沈んでいるかもしれないから捜索に戻る」  そう言って踵を返すと、岬に戻って行った。  それを見送りながら、ミニーはほっと溜息を吐いた。メモの医師が何だか神様に思える。この医師なら、一家を襲っている不可解な連続死も解決してくれるかもしれない。  そんな事を考えていると、背後の茂みがガサガサと動いた。振り向くとイングリットが突っ立っていた。立ち聞きされたのだろうか。 「悪魔憑きにも詳しい医師?」  イングリットは撫し付けにそう言った。 「メモを見せなさい」  ミニーが差し出す前に奪い取った。 「グィネス・ロンド。精神分析医の名前ね。住所はロンドン」  怒っているのだろうか。ミニーは居た堪れない気持ちで、交霊会の事を喋ってしまって申し訳ないと謝罪しようとした。  すると、イングリットは微笑んだ。 「ロンドンには私が行くわ。貴女は留守番していて」  その晩、フロッガーから紹介された、悪魔憑きに詳しい人物に、今回の事件を相談するか、家族会議を開いた。イングリットは、ミニーと示し合わせて、フランクには、その人物が精神分析医だとはいわなかった。フランクが、精神病院への入院を極度に恐れていたからだ。だが、家族に悪魔憑きかもしれない死人が出て、それを家族内で対応出来る筈もなく、誰にも相談しない訳にも行かない。そこで、ただ悪魔憑きに詳しい人物に相談するべきかどうかと、精神分析医である事を隠して議題にしたのだ。  そして家族全員の意見を聞いた結果、相談する、と決まった。  翌朝、イングリットはフォーマルなスーツを着込むと、玄関を出た。玄関先には、フランクが見送りに来ていた。 「くれぐれも、精神科医には相談するなよ!ただの悪魔憑きに詳しい人物だな?間違ってないな?」  このセリフを昨夜から何度聞かされた事か。自分たちが遊びで開いた交霊会を原因とする、悪魔憑きによる入院を、如何に嫌がっているかが伝わって来る。 「ええ、その通りです」 「じゃあ、頼んだぞ!家族の生死に拘わる事だ。十全に相談して来い!」  不安の裏返しか、父は勿体ぶって、また尊大に命じた。  こんな時にも、自分の威厳を重視するのか。このフランクという人物は、自分の威厳や見栄のためなら、何にも賭して譲らない。イングリットは、そんな父が大嫌いだった。この父の性格のせいで、随分苦しんだ記憶もある。  そこに、玄関の中から、マーサとリチャードが姿を見せた。  マーサはイングリットに駆け寄ると、甘えた声で、 「イングリット、どこに行くの?」 「お母さんとお父さんの死因について相談に行くのよ」 「必ず戻って来る?」  その言葉にぐっと来た。  父母を立て続けに亡くしたせいだろうか、この子は、私の身を案じている。 「大丈夫、私は死なないわ。夜には必ず戻るから」  そう言って、棒立ちのマーサの腕を掴むと、地肌に触れた。  半袖じゃないか。  まだ厳冬のこの時期に。私が出掛けるというので、暖炉のある部屋から、慌てて何も羽織らずに、飛び出して来たのか。 「半袖じゃない、どうして、もっと温かい恰好をしないの」 「すまない、僕が配慮すべきだった」  叔父が謝る。 「この子の部屋の引き出しに、茶色いセーターがあるから着せてあげて下さい」 「わかったよ」 「イングリットが編んでくれたやつ?」 「そうよ」 「なら着る!」  そこに父が口を挟んだ。 「もうそれくらいにして、お前は行け」  そして、マーサに振り向いてしゃがむと、 「セーターは御祖父ちゃんが着せてあげようね」  と、それまで狸に遭遇した狐の様に目くじらを立てていたのを、急に垂れ眉毛にして、 「さあマーサ、部屋に戻ろう」  と孫の手を引いて、玄関に入って行った。  私はその後姿を見送って一言、胸に思った。マーサを抱きしめたい。そして踵を返すと、アプローチを抜け、バス停に向かった。  ※  ※  雪の駅舎を出ると、街は一面銀世界だった。  バス停に向かうと、バスは運休だと張り紙がしてあった。  見渡すと、一台だけ停まったタクシーの運転手と目があた。  運転手が窓を開けて話しかけて来た。 「どこかに行きたいのかい?」 「行きたい所があるから、列車を降りたのよ」 「この雪じゃ、チェーンを巻いたタクシーでもなければ、移動は困難だよ」 「チェーンは巻いてるの?」 「見りゃ判るだろ」 「じゃあ乗せて」  イングリットは後部座席のドアを開いた。 「行先は?」  メモを取り出し、運転手に見せる。 「ここへ行くのかい?あんた患者さん?」 「悪魔憑きの相談に行くの」  すると運転手は肩を竦めた。 「悪魔憑きの事なら、あの女医に相談するのが一番だ。だれか憑かれたのかい?」 「ええ、人死にが出てるわ」  おお怖、そいつは本格的だ、と言ってからメモを返す。  そこには、「迷宮心理病院 グィネス・ロンド医師」と書かれていた。  その病院は丘の上にあった。古い教会を買い取って病院として使っている。運転手から、そう聞いている。丘の下から見上げると、高い尖塔が聳えていた。  タクシーは、九十九折の道をゆっくりと、スリップしない様に登って行く。  そして門の前まで来ると停まった。 「車で来れるのは、ここまでだ。後は、歩いて行ってくれ」  運転手に料金を支払って、外の冷たい空気の中に放り出される。細雪が降っていた。しかし、イングリットには、そんな細雪の事など忘れさせられる、目の前の光景の方が重要だった。  狂った景色。  イングリットには、そう思えた。  遠くの教会の尖塔の下部を隠す様に、雪景色の丘陵地に桃色のカンヒサクラが満開だったのだ。満開の花を付けた木立は、並木となって、アプローチから教会まで続いている様だった。まるで、この丘陵地だけが、季節を間違い、花咲いている様だ。  何だか不思議な気分だった。太平洋のど真ん中で、海面から一輪の薔薇が咲いているのに遭遇したら、似た様な気分かもしれない。  イングリットは、そんな気分で並木の下を進んだ。すると、今度は深々とした雪景色に、壊れたメロディが聞こえて来た。  何故だろう。聞こえて来る半音ばかりのメロディは、聞く物を不安にする。最初は山鳥の囀りかと思ったが、近付くにつれ、それが少女の歌声だと悟った。  その少女は教会の入り口に、居た。年のころは十二~三だろうか。患者なのか、そう思える年頃なのに、何故か看護師の恰好をしている。  マクスウェルは良い子~マリアは悪い子~  と半音のメロディで歌いながら、雪の上にしゃがみ込んで、絵を描いていた。 「何の絵を描いているの?」  そう言って覗き込む。 「まくすうぇるよ」  少女は答えた。  それは、恐ろし気な角を生やした悪魔の顔だった。 「怖い絵を描くのね」 「怖い顔に描いてあげればあげるほど、まくすうぇるは喜ぶもの。まくすうぇるは良い子だから」  そうなの、と言いさして、言葉を飲んだ。この子は患者さんかもしれない。へたに外部の者が症状を刺激すべきではないだろう。  そう思ったが、よくよく考えてみれば、自分や家族も、悪魔憑きの患者かもしれない。  そこで一つだけ訊いておきたい事があった。医師に訊くべきしつもんだが、この悪魔の絵に触発されて、もう喉まで質問が出かかっている。 「悪魔は居ると思う?」  すると、それまで無垢だった少女が、凄惨な笑みを浮かべた。 「私の事?」  その笑みに怖気を覚えた。悪魔の笑みと対峙するより、早くグィネス医師に面会して相談したい。 「グィネス医師は何処?」 「院長なら今は外来の診察時間よ。あと三十分程で終わるとおもうから、待合室で待っていたら?」  少女に促されて、教会に入る。  教会の内部は、参拝客用の長椅子が待合所になり、その左右の告解室があったであろうスペースが診察室になっていた。イエスの像や祭壇はそのままだ。  二階に上がる階段もあるが、処置室や入院施設になっているようだ。  受付で、グィネス医師に相談があり、アポイントメントを取っている旨を伝えると、外来の診察が終わるまでお待ちください、と伝えられた。  待っている間、教会内部をマジマジと眺める。祭壇の中央にはイエスの像があったが、その端っこには、マリア像が彫られていた。まだ赤子のイエスを抱いて、慈悲の眼差しを我が子に向けている。  イングリットは、暫しそのマリア像を、というより赤子のイエスをみつめていた。  一筋の涙が零れた。 「どうして泣くの?」  気付くと、いつの間にか、さっきの外に居た少女が隣に座っていた。 「赤ちゃんを抱いてみたくて」 「抱いた事が無いの?」 「あるわ、姉がお乳が出なくて、乳母をしていた事があるの」  自分も。愛する夫の子を、マリア様の様に抱いてみたかった。だが、今の自分には愛する人が居ない。 「マリアを抱いてみる?」 「マリア?」 「私の名前。マリア・ヘイブンていうの」  奇しくもイエスの母と同じ名前か。 「マリアにはお父さんもお母さんも居ないの。だから誰かに抱きしめてほしい」  孤児、か。 「これでいい?」  イングリットは気付くと、マリアを抱きしめていた。暫く、そうしていた。 「貴女の番ね」  マリアが腕の中で言った。  そんな事をしている内に、待合所に居た最後の患者が、診察室から出て来たのだ。  次は、自分の番だ。緊張していると、受付嬢から名前を呼ばれた。 「イングリットさん。院長が診察室でお待ちです」 「イングリットっていうのね。何か、お母さんみたいだった」 「そう?そう言ってもらえて嬉しいわ」  後ろ髪を引かれながら診察室に入る。  診察室は、石造りの壁に、カーテンと応接セット、それに椅子と机だけの殺風景な小部屋だった。部屋の隅で、金髪にショートカットの女性が、ティーポットからティーカップに紅茶を淹れている。 「殺風景な部屋でしょ」  背中から声がして、振り向くと、マリアが付いて来ていた。イングリットが訝しむと、 「悪魔憑きについて相談したい、イングリット・カーライルさんって、貴女の事でしょう」 「知ってるの?」 「マリアは助手だから、知ってて当然なの」  すると、紅茶を淹れていた女性が振り向いて、 「まあまあ立ち話も何だから、ソファーにお掛けになって」  言われるがままにソファーに腰掛ける。すると、女性は、トレーから、カップを三つテーブルに置いた。そして、握手を求めながら、 「私がロンド。グィネス・ロンドです。悪魔憑きの事なら、何でも訊いてちょうだい」  気さくな感じのする女性だ。イングリットも、微笑みながら、改めて自己紹介した。 「イングリットです。今日はカーライル一家の代表で伺いました」  すると、いつの間にか隣に座っていたマリアも、 「私も改めまして、助手のマリア・ヘイブンです」  握手を求める。戸惑いつつ、それに応じながら、グィネスの方を向いて、 「どうして、こんなに幼い子が?」  と、当然湧いて来る疑問をぶつけた。 「マリアは役にたつのよ。特に、こういった悪魔憑きに関する話しの時はね」 「正確には、私の相棒が、ね」 「相棒?」 「時期に判るわ」  そう言ってマリアはほくそ笑んだ。 「電話で聞いた限りでは、死者がでているとか」  グィネスが話しを切り出す。 「ええ、義兄と姉の夫婦が亡くなりました。夢に現れた悪魔の言う通りの状況で」  グィネスは、カルテに、それをメモする。 「夢に悪魔が現れたのは何時頃?」  確か、ミニーから聞いた限りでは、 「姉夫妻の夢に悪魔が現れたのは、交霊会の直後からだそうです」 「交霊会?」 「はい、下らない事をしてしまったと後悔しています。でも、叔父のリチャードが、今は亡き祖父のコレクションからアッピンの赤い本を見付けて、遊び半分で、家族で交霊会を行ってしまったんです」 「アッピンの赤い本って、あの伝説の本?悪魔バアルが所有していたと云う」  グィネスは驚き半分疑い半分で、目を瞠りながら、カルテにメモする。  そして、突然、その緑の光彩を見開いてイングリットを見詰めると、ふと微笑んで、 「その本を一度見せていただけます?」  興味を示した。 「ええ、私は一向に構いませんが、悪魔憑き事件が起こってから、交霊会の事を他言したがらない父フランクが、どこかに隠してしまったんです。だから父に訊いてみないと」 「判ったわ。ではその交霊会について教えてちょうだい。どんな手順の物だったの?」  それは、と言いかけて、その記憶の大半を失っている事を思い出して逡巡した。 「まず最初に、トランス状態を作りやすくするために、本に記された手順で拵えた丸薬を飲むんです。その後は、意識が朦朧とする中、術師役の私が、本にある呪文を詠唱しました」 「トランス状態に陥りやすくする丸薬。バルビツールみたいな物かしら」  グィネスはペンを咥えて考え込む。考え込む時の癖なのだろう。 「詠唱の内容は?」 「それは、意識が朦朧として覚えていません。もう一度丸薬無しで、ラテン語を英訳したものを読んでみる必要があります」 「本はラテン語だったの?」 「はい、私が英訳しました。でも不思議なんです。翻訳中は丸薬は飲んでいなかった筈なのに、交霊会が終わると、翻訳中の事も忘れてしまっていたんです」 「なるほど」  と、グィネスは目を光らせた。 「悪魔というのは、本当に実在するのでしょうか」  すると、グィネスはペンを噛むのを止めて、 「交霊会に参加した貴女の家族には、その本により、強い催眠が掛けられているわ」 「催眠?」 「恐らく悪魔の正体というのは…」  そこに窓の外からクラクションが二回鳴った。見ると、教会の庭にキャデラックが入ってきている。今、駐車した所だ。  その運転手と目が合うと、グィネスは立ち上がって名を呼んだ。 「ジャン・ジャック・ユノ―神父」  そして窓際まで行き、後部座席に鬱鬱とした表情の一般男性が乗って居るのを見止めると、 「急患かもしれないわ」  と、マリアを連れて部屋から出て行った。  イングリットは一人置き去りにされ、暇を持て余していた。 グィネスは、悪魔の正体を何だと言おうとしたのだろう。そもそも悪魔など、実在するのだろうか。  ミルトンの失楽園という文学を読んだ事がある。もともと自分は信心深い方では無いが、痴呆になる前の三度の飯より祈りを大切にしていた敬虔なカトリックだった祖母から、面白い本だからと薦められて読んだのだ。  失楽園によれば、悪魔とは別名を堕天使といい、元々は天使だったのだという。  しかし天使の中でも力のあったルシファーは、自分よりも神から寵愛されたイエスが、天界の王に任命された事を腹に据えて、神に対して叛旗を翻したのだと云う。  だが、天使ミカエル率いる神の軍勢は強く、ルシファーは深手を負う。その上、戦車に乗ったイエスに軍勢を蹴散らされ、叛乱軍は、皆、奈落の底に落とされてしまったのだと云う。  それを創世記戦争と呼び、悪魔が生まれた瞬間でもあった。  要は、悪魔とは神が造った失敗作の天使の事なのだ。  でも、そんな寓話が在ると言って、悪魔の実存が証明された訳ではない。  グィネスは、我が家に蔓延る悪魔の正体を、何だと考えているのだろう。 「イングリット」  そこにマリアが入って来た。 「処置室に来る?」 「処置室?」 「今から、グィネスとマリアの憑きもの落としが始まるわ。ユノ―神父が、悪魔憑きの男を連れて来たのよ」 「神父が精神科に悪魔憑きの人間を連れて来たの?」 「ユノ―神父はエクソシストなの。でも、極稀に聖水も聖書の詠唱も通じない悪魔憑きがあるのよ。そんな時は、グィネスの所に連れて来るの」 「その男性は悪魔憑きでは無いという事?」 「違うわ。悪魔憑きが祓魔で解決する事もしない事もあるの。そういう時は、本当に悪魔憑きかどうか、鑑定してもらいに来るのよ」  イングリットは興味を抱いて立ち上がった。鑑定と言ったが、どうやるのだろう。結果、合理的に悪魔による憑依だと診断される事もあるのだろうか。 「少し、興味があるわ」  すると、マリアはイングリットの腕を掴んで、 「じゃ、一緒に来て」  と小走りに処置室に向かった。 処置室に入ると、椅子に縛られた男と、それを心配そうに見詰めるユノ―神父、そしてカルテを用意するグィネスが居た。  マリアの姿を見止めると、グィネスは、 「ベッドに横になっていて。いつでもマクスウェルを呼べるように」  と、指示した。マリアは、言われるがままにベッドに横になり、目を閉じる。  マクスウェルといえば、マリアが落書きしていた相棒の事だ。一体何を、そう呼んでいるのか。 「そちらの女性は?」  神父が、部外者であるイングリットを訝し気に見詰める。 「悪魔憑きで家族を失ったカーライルさんです。でも悪魔の存在に疑問を抱いている様なの。鑑定結果が悪魔憑きに間違いなかった場合を鑑みて、見学を許してあげて」  グィネスがカルテに何か速記しながら、了承を得ようとする。 「家族を失ったのか。気の毒に。この祓魔が終わったら、何でも相談に乗ろう」  神父が慈悲の目でイングリットを見詰める。正直、悪魔の存在や祓魔の行為に疑問を抱いているイングリットは、見詰め合うのに罪悪感を覚え、目を逸らした。 「では、始めるわよ。良い?神父、マリア」  二人が頷く。 「まず、貴男の氏名を教えて」  椅子の男に話しかける。 「ジャッキー・クライン」 「悪魔に憑かれたと訴えているのよね。その症状はどんなもの?」 「此処三日の間、悪魔に憑かれていて、記憶が曖昧なのです」 「三日間も?」 「ずっと悪魔に命令されて動いてました」 「憑依される前は、何をしていたの?」 「旅です」 「どんな?」 「旅先のサマセットで素敵な女性と出会ったんです。恋に落ちました。関係を持ちました。その後です、悪魔に憑かれたのは」 「では、記憶を取り戻したのは何時?」 「昨日です。目が覚めると自宅に居ました」 「出会った女性というのは、どんな女性?」 「貴女の様な緑色の光彩のリリーという女性でした」 「私と似てるの?」 「そうです。髪の感じなんかも」  グィネスはそれを聞くと、ユノ―に囁いた。 「患者は私に女性を転移している。逆転移を利用して、記憶を思い出させてみるわ」 「逆行催眠みたいな物かね」  ユノ―も囁き返す。 「転移状態なら、催眠誘導もしやすいわ」  イングリットはベッドのマリアに訊いた。 「転移って何なの?」 「自分の家族や知人友人の面影を、他人、特にこういう精神科に於いては、医師に重ねてみてしまう事を云うのよ。今、ジャッキーは、旅で出会った女性をグィネスに重ねているわ。だから信頼関係も築きやすい。それを利用して、催眠誘導しようと試みている所ね」  グィネスは、ジャッキーの前に立つと、 「良い?今から貴男は少しづつ眠たく成って行くわ。私をリリーだと思って、一緒に眠りましょう。少しづつ、少しづつ、眠く成って行くのよ」  椅子に座っていたジャッキーが、少しづつ項垂れて行く。 「そう、良い子ね。眠くなったなら、腕を上げて」  ジャッキーが右手を上げた。 「では、質問するわよ。私との間に何があったの?」  ジャッキーがモゾモゾと唇を動かして応える。 「恋に落ちた…」 「その後は?」 「三日間、一緒に過ごした…」 「どんな風に?」 「毎日食事をしたり…そうサマセットで一番有名なイタリア料理店に行きました。それに海岸を話しながら散歩したり、映画も見に行った…確かザ・ライトという映画です」 「そして最後は、どうなったの?」  その質問をした途端、ジャッキーの表情が引き攣った。そして、閉じていた両目を吊り上げて、カッと見開くと、辺りを見回した。 「ははあん。お前が、この界隈で有名なグィネス・ロンド医師か。ユノ―が連れて来たんだな?」 「ジャッキー?」  グィネスが、先程までのジャッキーとは雰囲気が変わったのを感じ取って、名を呼んだ。 「お前に話す事など何もない!ここから出て行く!」 「ジャッキー、大丈夫?」  グィネスがジャッキーを心配して、頬に手を添えようとすると、患者は噛みつこうとした。 「出たんだ。アレがな」  ユノ―が、ジャッキーを憐れんで、俯きながら十字を切る。 「ジャッキーじゃないのね。あなたは誰?」 「名乗る名前なんてねーよ」  そう言って、ジャッキーは唾を吐きかけた。  そう、とだけ呟くと、グィネスは顔の唾を拭った。 「マリア、出番よ」  それまでベッドで横になっていたマリアに、何か囁くと、マリアが痙攣を始めた。  そして暫くすると、痙攣が止んだ。  すると、マリアは、まるで絞首刑に処される死刑囚の様に真っ直ぐと真上に引き上げられる如く、ベッドの上に立ち上がった。その顔は、まるで凶暴な雄猿の如きだ。雄猿は一呼吸した刹那、ベッドの上を駆け出して、端から跳ね上がった。そして、ジャッキーの椅子に飛びついたのだ。その肘掛に素足を乗せた姿はまるで蛙の様だった。  そして睨むジャッキーの頭に顔を近付けると、屍食性の野獣が腐乱した死体の臭いでも嗅ぐかの様に、鼻息を荒くした。 「こいつは悪魔じゃないぞ!偽物だ!」  マリアの声はどすの効いた男の声に変わっていた。まるで、マリアの声帯ではなく、マリアの腹の中に何かが居て、そいつが喋っている様だ。 「何を言う!俺は本物の悪魔だ!」  マリアは眉を波の様に動かして、小首を傾げた。 「じゃあテストだ、ラテン語を話してみろ」  口籠る患者。 「ラテン語が判らないのか!そんな悪魔は聞いた事がない!おい、本物か?」  ジャッキーの表情が赤子の様に真っ赤に上気する。 「私は悪魔だ、この男を操って…」 「操って何だ?悪魔でもないくせに」 「本物の悪魔だと言ったろ!」 「ではラテン語を喋ってみろ」 「…」 「ははあん。ラテン語が判らないのは本当らしいな。では俺の言う事を復唱しろ」 そう言ったマリアの顔は、凄惨な悪意の笑みを浮かべていた。その蛞蝓の交尾の様な不快な笑みをジャッキーに向ける。そして舌なめずりした。悪戯っぽく、そして稚気と幼稚さに溢れた、狡猾さも携えながら。  マリアは徐に唇を開くと、何語か判らない言葉を奏でた。 「復唱すれば良いのか?」 「そうだ」  ジャッキーが、マリアを真似して、聞き慣れない言語を口にする。  するとマリアは、鬼の首でも取ったように、犬歯を剥きだして猿の様に哄笑した。 「やっぱりこいつは偽物だ!今、ラテン語で、「私はラテン語が判らない、教えてくれ。」と言ったぞ!」 「お前が言えと言ったんじゃないか!」  ジャッキーが真っ赤に茹だった顔で抗議する。 「偽物の悪魔だから教えなきゃ判らないんだろう?」 「本物の悪魔だ!ラテン語くらい判る!」  悔しそうに唇を噛む。今にも噛み千切らんばかりだ。 「じゃあ話してみろ」  ジャッキーは困惑しながら、う~んと悩ましい唸り声を上げた後、さっきの復唱を繰り返した。 已むに已まれずなのだろうが、それしか知らないからと言い、同じ言葉を繰り返したジャッキーの行為は滑稽だった。  するとマリアは口が裂けんばかりに大笑いした。それも当然だろう。また教えて欲しいと、今マリアが教えたばかりのラテン語を繰り返したのだから。 「確かにラテン語だな。だが!教えてくれとはどういう事だ!教えて欲しいのか、話せるのかはっきりしろ!」  マリアは腹を捩って笑い転げた。すると、恥ずかしいのか、ジャッキーは腕を固定するベルトを捩じったり引っ張ったりした。椅子からの拘束を解いて、今にも逃げ出したいのかもしれない。 「話せるのは、今教わった文章だけだ!何がおかしい!」 「話せるんじゃないか。まったく笑わせる男だ」  マリアは泣き笑いして垂れた大粒の涙を拭い乍ら、漸く立ち上がった。 「教わらないと話せない。それは事実だ」   そこで突然マリアは真顔に戻った。まるで仮面を剥いだかの様な豹変ぶりだ。 「確かに、教えてくれと言っていたな。ははあん、では、もう一度チャンスをやろう。お前は本物の悪魔か?」  吟味する様に、マリアが顔を近づけて訊く。 「俺は…俺は…」  苦渋の表情で、両目を閉じ、葛藤に苛まれている。偽物だと認められない事情があるのだろう。その偽物を演じた事情こそ、リリーに扮したグィネスに知られたくない事情なのかもしれない。 「悪魔か?それとも偽悪魔か?」  マリアが声のトーンを落として、どすを効かせる。 「俺は…ジャッキーだ」  偽物だと認めてしまったら、悪魔に扮した理由を追求されてしまうだろうに。しかし、もう、悪魔を演じ切る気概も挫けたのだろう。 「悪魔じゃないんだな?」  マリアが、満足気に微笑した。自分の思い通りの答えを引き出せて、満足なのだろう。 「そうだ…」 「じゃあ、俺は悪魔憑きじゃない、と言え」  念には念を押す。二度と偽悪魔などという手法で、何かを秘匿にさせないためだろう。 「俺は悪魔憑きじゃない」   ジャッキーが諦めた様に肩を落とした。 「マクスウェル、其処までで良いわ」  そこでグィネスが冷静な声で口を挟んだ。 「どうして悪魔を演じたりしたの?」   ジャッキーの顔を覗き込む。 「それは、記憶が曖昧で」   ジャッキーは涙ぐんでいた。 「それも嘘かもしれん」  ベッドに戻ったマリアが呟く。 「マクスウェル、マリアに戻って」  グィネスが、言うのを忘れていた、とばかりに面倒臭そうに言った。  そしてジャッキーの拘束を解きながら、 「記憶が曖昧なら、取り戻しましょう。そこのソファーに横になって」  ジャッキーの肩を支えながら、患者をソファーに寝かせた。 「私は出会った彼女に似ているのよね?私を彼女だと思って。私の名前は?」  ソファーに横になったジャッキーは、何かから解放された様に溜息を吐いた。それは、何かの覚悟を決めた態度、否、諦めた態度にも思えた。 「リリー」  と泣きながら言った。 「リリーが訊くわよ。リリーは今どこにいるの?」 「ここにいる筈がない」  ジャッキーは首を左右に振って、苦しそうに否定した。 「勿論本物のリリーじゃないわ」 「リリーはどこにもいない」   ジャッキーは、潤んだ灰色の目で、漸くグィネスを見た。というより、恨めしそうに見上げた。 「どうして?」 「眠っているからだ」  眠っているから居ない。と言う。どうして眠っていると判るのだろう。 「どこで?」 「俺が眠らせた」  それは強制的に、という意味か。嫌な予感がした。 「どうして?」  そう訊かれて、ジャッキーは苦しそうに喉で呻いた。 「妻と子に関係を話すと言ったからだよ」  妻子持ちなのか。イングリットは正直驚いたが、グィネスは淡々と質問する。  「そうなのね。リリーは今どこ?」 「山に居る」 「山に住んでるの?」 「違う」 「山で眠っているのね?」 「その通りだ」  そこでグィネスはジャッキーから離れると、茫然とグィネス流の悪魔祓いを見守っていたユノ―に囁きかけた。ユノ―は囁かれて、漸く我に返った様だった。 「警察を呼んでちょうだい。患者が、人を殺しているかもしれないと」 ※ ※  警察が到着するまでの間、イングリットは待合所で待たされていた。  やがて、制服警官二人を従えた刑事が到着すると、受付の案内で処置室に入って行った。  その後は大変な様子が怒号から想像された。  ジャッキーの怒鳴り声。それに応じる刑事とユノ―の怒鳴り声。中で何が起きているのかは判らない。  しかし暫くすると、二人の制服警官に両脇を抱えられたジャッキーが出て来た。所謂、連行だ。続いて出て来た刑事が、見送るグィネスに、 「責任能力はあるのかね」  と訊くと、グィネスは首を横に振りながら、無責任にも、 「それは弁護士が雇う医者に訊いてちょうだい」  と言い放った。  刑事は、チッ、と舌打ちすると、振り返ってジャッキーの後を追って教会から出て行った。それを、気の毒なジャッキーと刑事さん、と心に浮かべながら見送った。 「イングリット」  唐突にグィネスに呼ばれて、放心に近い見送りから我に返った。 「なんでしょう」 「それじゃあ、貴女の館に向かう準備をするわ」 「回診して下さるんですか」  グィネスはふと、微笑んだ。 「きょうは金曜日よ。明日と明後日は病院は休みなの。館に滞在して、貴女の家族の様子を診させてもらうわ」  イングリットは、思わず両手を合わせて立ち上がって喜んだ。顔は満面の笑みだ。 「それは、心強いです。まずは悪魔憑きなのか心の病なのか鑑定する所からですよね」  そう自分で言って、少し不安になった。さっきの鑑定を見ていたからだ。またあのマクスウェルとやらが、マリアの人格を乗っ取って、狼藉に近い鑑定を行うのだろうか。 「マリアは連れて行くのですか?」  そこが一番訊きたい。 「勿論よ」  そう言って、グィネスは処置室に居るマリアを呼んだ。 「マリア、二泊三日の旅行の準備をしなさい。回診よ」  すると、マリアが出て来て、 「会話は聞こえてました。イングリットさんの館に行くのですね。私、イングリットさん、好き」  唐突に言われて、イングリットは戸惑って、 「あ、あらそう」  としか応えられなかった。 「悪魔憑き事件かもしれないのだろう。私も同行しよう。車を貸すぞ」  ユノーまで、出しゃばって来た。 「一旦、儂の教会に寄ってくれ、荷物を纏める」 「あら、エクソシストの神父さんまで御同行なんて心強いわ。ね、イングリット」 「え、ええ。皆さんで事件を解決して下さるなら、家族も安心するでしょう」  正直、急な展開に、それしか応えようがなかった。  ※  ※  ユノ―の教会に寄っていたせいで、ハイランドに向かったのは夕刻になった頃だった。雪景色が白銀から紫に沈んでいく。  車内は静かだった。運転席のユノ―も、助手席のグィネスも、後部座席の二人も、口を開かない。  しかしイングリットには、どうしても訊いて於きたい事が幾つかあった。まずマクスウェルの事。あれは何なのか。そしてジャッキーの事。結局、彼は悪魔憑きだったのか。 イングリットが我慢出来ずに訊くと、グィネスは、知りたくて当然ね、と前置きしてから答えた。 「あれは一にも二にも、シャドー元型よ。その一言に尽きるわ」 シャドー元型?何だそれは。 「シャドー元型?聞き慣れない言葉ですね」 「ユング心理学で使われる用語なのよ」  心理学の専門用語か。だが心理学、の前にユングと付くらしい。どこかで聞いた事のある名前だ。うろ覚えの記憶を辿る。ユング、ユング、ユング、英語ではヤング。だが、私の中にあるユングのイメージは、随分な歳を取ったお爺さんのイメージがある。そうだ、ユングの事は子供の頃に、サイエンス番組のテレビで知ったんだ。 「ユング…。あ、カール・グスタフ・ユングの事ですね。聞いた事あります。確かスイスの著名な精神分析医だと」  だった筈だ。昔見た、テレビの特集番組ではそう紹介していた。 「そう、そのユング。精神療法学会の会長まで務めた偉大な精神分析医なのよ。そのユングの心理学に、シャドー元型というのが出て来るの」  そうだ、ユングは大戦中、精神療法学会の会長に就いて、ずいぶんナチスとやりあったとテレビでやっていた。しかしシャドー元型というのは思い出せない。何せ子供の頃に見た番組だから、内容を忘れてしまったのだ。シャドーと言えば、同時期にテレビで見ていたアニメのシャドー仮面の方が良く覚えている。 「シャドーに元型。シャドーは日陰とかの闇の事でしょうか。元型という言葉は、まったく想像がつきません」 「元型について説明するためには、まずユング心理学に於ける心の概念から説明する必要があるわね」 「心の説明って、心理学では、みんな同じ心の概念を使っているのではないのですか?」 「それが違うのよ。フロイト派とかユング派とかラカンとか」  そうだ、フロイトも有名だ。確かユングは元々フロイトの弟子で、後に破門されたのだった。 「私、心の概念は統一されているものだと思ってました」  破門の原因は、その心の概念の違いだったと、何となく覚えている。今の今まで統一されているものと思っていたが、やっと思い出した。 「私はユング派なの。だからユング派の心の概念を説明させてもらうわ。まず、ユング派では、心を大きく分けて二つに分けるわ。それが意識と無意識」  心は分割されているのか。どちらが本体なのだろう。それは恐らく…。 「意識と無意識…。今、こうして話しているのは意識ですよね」 「物分かりが良いわね。でも正確には、話しているのは意識の中心の自我なのよ」 「意識の中心の自我…」 「そう、自我こそが、私とか自分と人間が自称する部分の事ね」 「では、今、私は自我で話しているのですね」  私は自我。自我こそ私。では自我ではない、心の他の部分とは何なのだろう。 「そう、その通り。自我は意識の核だから重要よ。貴女自身なのだから。そして、もう一つ重要な心の部分があるわ。それが無意識」 「無意識、というのは、無意識に何かする。とか、そういう意味の」 「違うわ。そういう意味の無意識ではなく、心の中に無意識という領域が歴然と存在するのよ。それを意識の下、つまり識閾下と呼ぶの。普段は意識の下に隠れていて、出て来ないからよ」  それが、他の部分という奴だな。普段は隠れて出て来ないのか。どうりで、その存在に自我=私が気付かない筈だ。  人間の人生は長い。その間中、隠れていて息苦しくなかろうか。たまには、息抜きにでて来たりしないのか。 「普段じゃ無い時は、出て来る事もある、という事ですか?」 「そう、無意識は、意識の補償をするためにあるの。普段は識閾下で、こそこそ動いて意識の補償をしているけど、極稀に、識閾下より上に顔を出して、意識に登って来る事があるのよ」  いつの間に、出て来ているのだろう。挨拶も交わした事も無い。 「それは、どんな風に?」 「夢、能動的想像、白昼夢、そして最後が、貴女が知りたかった事、憑依現象ね」 「憑依現象…」 「夢というのは、眠っている最中に、無意識が意識に接触する事をいうわ。能動的想像と言うのは、ユングが開発した精神分析法で、患者に能動的な想像を次々とさせるの。すると、その想像の中に、無意識からのイメージが含まれていたりするのよ。白昼夢、というのは、ユングの体験になるけれど。ユングは悩んでいた時期に、フィレモンという元型、つまり無意識からの使者が現れて、一緒に庭を歩きながら、様々な教示をしてくれたそうよ」  夢、が一番判り易いな。あれは無意識の産物だったのか。結構頻繁に、無意識は意識に接触しているのではないか。昨日はジョニー・デップとデートする夢を見たばかりだ。あれも無意識の産物なのだろうか。 「どれも補償が目的で、無意識が意識に接触した例なのですか?」 「その通り、でも憑依現象だけは違う。無意識が意識のコントロールを離れて、意識を乗っ取ってしまう事をいうのよ。これは恐ろしい事よ。まったくの二重人格になってしまうのだから」 「ジャッキーの悪魔憑きや、マリアのマクスウェルは、その憑依現象だと?」 「ユング心理学で解釈するならね」 「マリアもジャッキーも、その…シャドー元型という無意識に居る存在に憑依されていた。そう解釈すれば良いのでしょうか。でも、フィレモンの場合は、色々と教示してくれたのですよね。シャドー元型とは、どう違うのですか?」 「フィレモンは老賢者元型なのよ」 「ええ!元型て複数あるのですか?」  どういう事?何か自分の中に、知らない誰かが沢山居る様で余り良い気がしない。 「それを説明するためには、無意識の秘密に触れなければならないわ」 「無意識の秘密…一体どんな」 「無意識にはね、二つのタイプがあるのよ」 「ええ!一つじゃないんですか?」 「個人的無意識と、集合的無意識。人の心の識閾下には、この二つがあるわ。つまり、心は三つに分かれているの。意識、個人的無意識、集合的無意識。この三つよ」 「個人的無意識と、集合的無意識は、どう違うのですか?」 「よくぞ訊きました。説明したくて、うずうずしていたわ」  こっちも訊きたくてウズウズしていた所だ。 「ではお願いします」 「まず、個人的無意識というのは、抑圧や忘却により、識閾下に追い遣られた記憶から成り立つ後天的なものね。潜在記憶として備蓄され、機会があると、意識に登ってきたりする」  単純に言えば、忘れていた記憶を思い出す、という事だろうか。その記憶の備蓄庫が個人的無意識だと。 「何か考えていると、突然思い出すってやつでしょうか。例えば買い物で石鹸を買わなければいけなかったのに忘れていて、レジに行って忘れ物は無いかなと、籠の中を見ていると、足りないものに気付く。石鹸が無いと」 「それに似ているわ。意識は石鹸の事を忘れていても、個人的無意識は覚えていて、補償してくれているのよ」 「では、集合的無意識というのは、どんな物なのです?」 「それこそが、ユング心理学の醍醐味であり、心の持つ真の秘密ね。集合的無意識というのはね、人間の誰にしも先天的に備わっている、両親から遺伝した心の部位の事なのよ」 「心が遺伝するのですか?」 「そう、行動を司る本能が遺伝する様に、思考や知覚を司る集合的無意識も、遺伝するのよ」 「思考や知覚を司るというのは、一体…」 「集合的無意識を構成する元型達が、意識を補償して思考や知覚に影響を及ぼす、という事ね」  私がこうして、何か考えている際にも、元型が影響を与えているという事か。 「その元型、というのが、良く解りません」 「元型にも色々あるわ。前述の老賢者元型は、時に厳しく、間違った事をすればそれを正したり、様々な教示も与えたりしてくれる元型よ。次に太母元型、海の様に広く原初的で、優しくも冷酷でもある元型」 「何か、父親と母親を連想させますね」 「その通り、この二つは理想の父と母のイメージなのよ。他にも、理想の異性のイメージなんかもあるわ。男性には理想的女性のアニマが、女性には理想的男性のアニムスがある」  それは本能ではないのか。否、本能は行動を司り、元型は思考を司るのか。理想の父母や異性を求めるのは、分担作業だな。なるほど、昨夜のジョニー・デップの夢は、理想的男性像のアニムスの夢だったか。  では、決して理想像とは言えないシャドー元型とは何なのだろう。まるであれは悪魔の様相を呈していた。 「シャドー元型というのは?」 「それが主題だったわね。シャドー元型というのは、個人的悪や社会的悪の象徴なの。人は、この自分の中にあるシャドーを他人に投影したりして批判したり攻撃したりするわ」  そうなのか。アニメのシャドー仮面は、個人的悪や社会的悪と戦っていたけどな。 「投影?」 「自分の中にある元型を、あたかも最初から他人が培っていたかの様に錯覚する事ね」 「他人を批判する時、自分の中にも、その一面があると?」 「そういう事ね」 「何だか怖い話しですね」 「投影だけなら、まだ良いわ。問題わ憑依よ」 「そうでした」 「意識のコントロールを離れたシャドー元型が、その人物に憑依して、個人的悪や社会的悪を、実行してしまうのよ。投影より歪んでないけど、投影より恐ろしいわ」 「ジャッキーとマリアのシャドー元型は悪魔の様でしたね」  シャドー元型とは悪魔の様なものなのだろうか。 「二人とも信仰心が強いのよ。だから悪の象徴は悪魔の様相で出て来てしまう」 「でもマリアのシャドーは、祓魔を手伝ってました」 「マクスウェル自身、自分が元型だと、良く理解しているし、私が良く飼い慣らしてあるからよ」  悪魔を飼い慣らす!一体この人は何者なのか。中世の魔術師か何かに見えて来る。 「ジャッキーのシャドー元型は自分を悪魔だと思い込んでいたのですか?」 「まだ憑依現象が始まって初期の段階だったから、シャドー元型の人格が固まってなかったのね。二重人格の初期の段階。だから、その二つ目の人格を破壊するのも、容易かった。マクスウェルの機転も大きいけどね」  マクスウェルの機転、というのは、ラテン語の話しだな。生まれたばかりのジャッキーの二重人格の片割れは、ラテン語を知らなかった。まだ憑依現象が起きて間もないと踏んだ、ベテラン二重人格のマクスウェルは、既に学んでいたラテン語で、初心者二重人格の悪魔を責めたのだろう。  自分が元型だと自覚があるマクスウェルが、ラテン語を学んでいた、というのは、悪魔を演じるためだろうか。悪魔憑きの被害者は、ラテン語を話すと聞いた事がある。きっとラテン語は、悪魔の公用語なのだろう。 「なるほど、シャドー元型の事は良く解りました。でも、元型という存在をいまいち受け入れられません。特に、心が遺伝するという所が」 「そうね、それなら、あの話しをしようかしら。ユングがまだ若かった頃にね、ある病院に勤めていたの。勿論精神科よ。其処である日、ある患者の奇行を目撃したのよ。その患者は、窓から太陽を眺めて首を左右に振っていたの」 「首の運動?」  そんな訳ないか。心の遺伝に拘わる話だ。何か意味があるに違いない。 「違うわ。ユングが、何をしているのかと訊いてみるとね。太陽の下からイチモツが生えていて、それが左右に揺れると、東風や西風が吹くと言うのよ。その時のユングには、その意味が解らなかった」 「ただの妄想じゃないのですか?」 「それが違ったのよ。それから約四年後に、ある文献が出版されたのよ。アリブレヒト・ディーテリッヒ著作の、ギリシャ語のパピルス文書のミトラス教を扱った物でね。その中の記述に、太陽から巨大な筒が垂れ下がり、それが揺れると東風や西風が吹くとあったのよ」 「患者さんの妄想とそっくりですね」 「そうなのよ。その患者は閉鎖病棟に居て、四年後に発行されたパピルス文書を元にした書籍について、知識があった可能性は皆無だそうよ」 「絶対にですか?」 「ユング曰くね」 「患者は絶対にそのパピルス文書の知識に触れる機会が無かったと言いましたね。でも妄想にも、文献にも、似たイメージがある。つまり、そのイメージは誰もが、遺伝によって持ち合わせる心の一部だと言いたいのですか?」 「その通り、遺伝により獲得した集合的無意識が、思考や知覚に左右して、ミトラス教の創造主の想像力や、患者の妄想に、類似したイメージを生み出したのではないかと、ユングは、そう考えたみたい」  そこで急に、それまで押し黙っていたユノ―が口を開いた。 「そろそろ、君が住む街に着く。道案内をお願いする」  その淡々とした素振りに違和感を覚え、 「ユノ―神父は、グィネス先生の悪魔=シャドー元型説に何か異議は無いんですか?」  すると、ユノ―はルームミラー越しに微笑んで、 「毎回聞いてる御高説だよ。もう聞き飽きた」  なるほど。それを聞いただけで、この二人が旧知の仲だと判った。悪魔の正体に関する議論など、もう散々したのだろう。 「イングリット、マリアを起こして」  グィネスに言われて横を見ると、彼女は眠りこけていた。 「マリア、もう直ぐ着くわよ」  肩を揺らすと、マリアは欠伸をしながら目を覚ました。 「この交差点はどっちに進んだら良い?」  ユノ―に言われて、我が町の馴染んだ景色を見回す。 「真っ直ぐ進んで下さい。あの丘の上にある、館が実家です」  そう言って、遠方の我が家を指さした。  道路の右手は市街地だ。しかし川沿いのこの道の左側には、煉瓦造りの旧市街地が広がっている。軒の低い旧市街地の向こうには、海岸線に盛り上がった牧草地がみえる。今の時期、雪に覆われた牧草地に、家畜の姿は見えない。しかし後半月もすれば、雪も解けて、若草が目を出すだろう。そうしたら、牧草地は牛で一杯になる。  春が待ち遠しい。  細雪を拭うワイパーの不快な音も、春の到来には勝てまい。  遠くの丘には、白亜の住宅が犇めき合っている。その頂上に館はある。  マーサは風邪を引いてないだろうか。今は、マーサの事だけが心配でならない。ふと、そんな事を思った。そうだ、出がけに父がセーターを着せてくれると言っていた筈だ。  そうだ、父の事について、グィネス達に話しておかねばならない。 「それと…申し訳ありません。家長のフランクは、とても尊大で勿体ぶった人物なので、皆様に横柄な態度をとるかもしれません。ですから、先に謝っておきます」  ユノ―とグィネスは、突然の謝罪に顔を見合わせた。 「そうなのかい」  ユノ―はそれしか言葉が出ない。 「その上…」イングリットが続ける。「悪魔憑きを病気と看做されて入院させられる事は、とても恐れています」  それを聞いて、グィネスは爆弾でも爆発する様に大笑いした。 「尊大で勿体ぶっている割には、気が小さいのね」  イングリットは、そんな父の事が恥ずかしかった。思わず顔をロブスターの様に赤らめる。 「はい、父は、何よりも自分の威厳や見栄を尊重する人物なんです。でも実は小心者です。そのために、入院を恐れて、くれぐれも精神科医には相談するなと釘を刺されて出立しました」  すると、グィネスは試合前にレスラーの様なフルマスクをしろと唐突に言われた野球選手の様に、寝耳に水だと驚いて、 「でもわたしは精神分析医よ?」  とさらに大口を開けて笑った。 「はい、そこでお願いがあるのです。グィネス先生が精神分析医である事は隠していただけませんか。ただの悪魔憑きに詳しい人物、という事にして欲しいのです」  そこでユノ―が助け船を出した。 「それなら、儂の助祭という事にしたら良い。グィネス、異存は無いな?」 「構わないけど」  話しの早い人達で良かった。イングリットはつくづくそう思った。 館に着いて、アーチの脇にキャデラックを停めると、ユノ―達は荷物を降ろし始めた。イングリットは、その間に玄関まで戻り、大声で帰宅を報せた。すると、来客をまだ知らないフランクが、駱駝パンツのまま迎えに出た。そして、ユノ―達の訪問を報せると、フランクは遠目にキャデラックと荷降ろしする三人を確認した。 「相談に行っただけではないのか!」 「エクソシストのユノ―神父が、本物の悪魔憑きかどうか判断したいから、家族に会わせてくれと」 「エクソシスト?」 「そうです、神父様です」 「神父様だと?偉い方なのか!」 「その様です。乗って居る車からも判るでしょう」  するとフランクは自分のだらしない恰好に気付いたのか顔を赤らめて、 「直ぐに着替える。十分後に、私の部屋に通してくれ!」  と言い残して自室に走って行った。  十分後。ユノ―、グィネス、マリアの三人は、イングリットと共に、フランクの部屋に通された。 「私がエクソシストのユノ―です」 「助祭のロンドと、アシスタントのアリアです。宜しく」  まずユノ―が、続いてグィネスが握手を求めた。父はやけに低い腰で、それに応じる。ついでに言えば、そんな慇懃な父が気に食わないのか、マリアはそっぽを向いている。 「はい、こちらこそ、どうかお世話になります」  あの横柄で勿体ぶった、普段の父とは随分違う。何故だろう。ユノ―の事を救世主か何かだと思っているのだろうか。 「まず悪魔憑きかどうかの判断を下す前に、本物の悪魔憑きかどうか鑑定する。そのために、チャールズとイーディの死亡した状況を詳しく教えて欲しい」  はいはい、勿論です、と前置きしてから、 「チャールズは、腹にナイフを刺しての自殺です」 「自殺?他殺の線はあり得ないのかね!何故自殺と言える!」  ん?妙にユノ―が勿体ぶっているな。もっと謙譲な人だと思っていたのに。父の慇懃さと上手く噛みあっている。私がそれに驚いていると、ユノ―は私にウィンクした。私が、余りにも父が横柄な人物だと言ったので、ユノ―なりのジョークで、父をからかっているのかもしれない。 「警察の話しでは、現場からはチャールズのAB型の血液しか見つからず、ナイフを奪い合って争い、犯人も出血した様な痕跡は無いそうです。家具や小物が壊れた痕跡が無い事も我々家族が確認しています。チャールズが死亡した際に、犯人と目される誰かが、そこに居た可能性は低いでしょう」 「では自殺に間違いないのだな!」 「はい、状況だけ見れば」  父は、理解してもらえたことが恐縮なのか、思わず額の汗を拭きながら何度も頷いた。 「何か自殺の動機となるような悩みは抱えていませんでしたか?」  そんなやり取りに嫌気を覚えたのか、それとも父を憐れんだのか、グィネスが話しを引き継いだ。勿論、敬語でだ。 「あります。チャールズは病気でした。癌だったんです」  あれは、私に取っても辛い思い出だった。一気に父の観察の楽しみから、チャールズの苦悩との共感に心を捕らわれる。思わず目頭が熱くなった。 「癌…。それは辛い闘病生活だった事でしょう。十分自殺の動機となりうるな」  癌、と聞いて、ユノ―も御ふざけを止め、素に戻った。 「イーディの方は?何か自殺の動機となりうるような事はありませんでしたか?」  イーディは健康そのものだった。だが夫の看病疲れはあったかもしれない。それが動機となりうるだろうか。何か他にあろとすれば、 「強いて言えば、チャールズの死でしょう。後追い自殺です」  父が泣いていた。こんな父でも泣く事があるのか。普段横柄な人間でも娘夫婦を一度に亡くすのは堪えるのかもしれない。 「なるほど、二人とも自殺の動機はある訳だ」  ユノ―は悪魔憑きだと勘ぐりながらも、納得したふりをしている様だ。何故だろう。父の口からもっと未知の悪魔憑きに関する情報を導き出すためだろうか。  しかし父の口から洩れたのは、グィネスにとっても、又聞きしたユノ―にとっても、既知のものだった。 「しかし…イングリットから聞いてませんか?悪魔の夢の話しを」 「勿論きいてます。交霊会の後に、チャールズは悪魔から自分の血で紋章を書くよう指示を受ける夢を。イーディは、溺れてる人を助けるよう悪魔から指示される夢を見たと」  グィネスが、ノートに隠して父から見えない様にしたカルテを盗み見る。 「そして、二人は、その通りにして死んだんです」  父の声は絶望感が何重にもレクイエムを奏でていた。 「まあ、悪魔憑きと見るなら、今回の憑依現象は、その夢から始まったと見るべきか。では、チャールズとイーディ以外に悪魔の夢を見た家族はいらっしゃいますか?」  ユノ―がさっき得られなかった、未知情報を得ようとする。 「ミニーから二人が見た夢の話しを聞いてから、家族全員に確認を取りましたが、その様な夢を見た者は居ませんでした」  そうなのか。私が居ない間に、そんな聴取を行っていたのか。 「いや、待てよ。悪夢といえば、軟禁されている母が毎晩悲鳴を上げるのは、悪夢のせいかもしれない」  なるほど、その可能性は否定出来ない。そう言えば、祖母の部屋に入った時、悪魔の夢の話しをしていたな。悪魔が夢に現れてディッキーを手に掛けろと指示すると。もしかしたら、あの毎晩の悲鳴は、その悪夢のせいかもしれない。では、まさかディッキーが行方不明になったのは…。それ以上は怖くて考えられなかった。 「軟禁?それは何時頃からかね」  軟禁、と聞いて、それは酷い事をしているな、とユノ―が批難の視線を送る。 「三年前の交霊会の直後からです」 「三年前にも交霊会を?」  それもユノ―にとってもグィネスにとっても、未知情報だった。事前の情報が足りんぞ、と今度は私に批難の視線が向けられた。思わず、俯いて、それを遣り過ごした。 「はい、アッピンの赤い本を見付けた父が、母と友人夫妻を招いて催したのです」  あの三年前の交霊会が原因で、あの結末ならば、ビリントン夫妻には悪い事をしたと、後悔してもしきれない。 「その参加者達は、どうなったの」 「皆、死にました。祖母を除いて」  そう、祖父もビリントン夫妻も自殺したのだ。 「詳しく死因を教えてちょうだい」  グィネスがカルテに書き込む準備をする。 「皆、自殺です。父は自殺、友人夫妻は何故か魔法円の中で心中です」 「他に五年前の交霊会からおかしな事はおこってない?」  カルテから目を逸らさず、記入しながら続けざまに質問した。 「ディッキーが行方不明になった」 「ディッキー?」 「ほら、あの窓から見えるでしょう。あの砦の管理人です」 「そのディッキーが交霊会の直後に行方不明になったのですね?」  その件に関しては、ディッキーはもう死んでいるという噂話もある。どうしよう、あの話しもしてみるべきだろうか。  正直、イングリットは、ユノ―達に話してみようかどうか逡巡した。しかし、だ。神父と言えども、一概に霊の存在を肯定しているとは言えない。中には否定する者も居るだろう。例えば、医者と言えども、グィネスは比較的まともな部類の悪魔否定派だろうが、ユング派の医師の中には、投薬しても症状の改善しない悪魔憑きは、本物の悪魔が憑いていると言い切る医師もいるという。だから、だ。エクソシストが必ずしも非科学現象を肯定するとは限らないと思うのだ。  第一、ユノ―は、この館で起こっている怪異もそうだが、悪魔憑きと聞くと、必ずグィネスに鑑定を依頼している様だ。あまり非科学現象に肯定的ではないのではないか。  しかしユノ―が霊に肯定的か否定的か。そんな事に悩んでいる内に、一番合理的な判断方法を思いついた。本人に訊くのだ。 「時にユノ―神父、貴男は霊魂の存在を信じていらっしゃいますか?」  ディッキー失踪の話しを、していた筈だ。何故幽霊の話しを?ユノ―は、顔にそう書きながら、 「霊魂?何故だい」  話の飛躍、否、すり替えにも取れるイングリットの発言に、にこやかに応えた。 「お話しするべきかどうしようか迷っている話しがあります。その判断に、今の質問に答えてもらいたいのです」 「霊魂か。まさに、その霊魂との遭遇が、私を信仰に走らせたのだよ」 「どういう意味ですか?」  すると、ユノ―は急にしんみりして、両目を瞑った。何かを回想している様な素振りだ。 「幽霊を見た事がある」   まさか、そんな答えが返って来るとは思わなかったイングリットは、 「本当に?」  思わず大口を開けてしまった。 「またあの四方山話?」  助祭である筈のグィネスが、神父がこれから話そうとする、怪異譚をちゃかしたのを見て、それまで真剣に娘と神父の遣り取りを聞いていたフランクは、肝を冷やして驚いた。思わず目を見開いて、グィネスを見詰める。と、いうより、睨む。 「君のユングに関する御高説よりかは、有り難味のある話しだよ」 「そうかしら」  グィネスの態度は、とても助祭のそれとは思えない。この助祭は随分な型破りだな、とフランクは渋い顔をした。きっと、ユノ―が気の毒だとでも思っているのだろう。しかし、当のユノ―は、そんな助祭の態度など、どこ吹く風で、娘に微笑みながら、 「イングリット、聞きたいかい?」 「はい、是非」 「OKでは語ろう。あれはまだ、儂が五歳の頃の話しだ」  ユノ―が再び、目を瞑り、何かを回想する。 「幼い頃の思い出。記憶が改ざんされている可能性があるわ」 「グィネス、いちいち口出しするな。黙って聞いてろ」 「そのセリフを聞くのは何度目かしら」 「改ざんの疑いも、嫌になるほどされたよ」  その遣り取りを聞いていたフランクは、グィネスを医師だと知らないせいで、妙な誤解をした。そうか、この二人は喧嘩するほどなんとやら、なんだな。仲が良すぎて、助祭の態度に礼儀が無いのだな、と解釈した。その二人の遣り取りに業を煮やしたイングリットが、 「ユノ―神父、話しを続けて下さい」 「そうかい、じゃあ続けよう。五歳の時に、母が病死してな。不治の病だった。だが、母親が失われても、主がこの子を守って下さる様にと願いを込めて、亡くなる前日に、母が自分のロザリオをくれたんだ」 「良い話しですね。ロザリオを貰えて心強かった事でしょう」  もう、そこまでの触りの時点で心を打たれて、イングリットは泣きそうだった。 「ああ、普通はそうだな。だが、儂の場合、その後取った行動が愚かだった。母の葬儀が終わると、儂は自宅でシャワーを浴びながら泣いた。あんなに祈ったのに、あんなに願ったのに。母の病は治らなかった。何が神だ!何がイエスだ!と大声を上げて泣いたんだ。そして信仰を捨てようと決意し、母のロザリオを排水溝に流した。虚しかったよ。母が儂を守るためにくれたロザリオを捨ててしまったのはね。そして一時泣いて、ふとシャワールームの鏡を見ると、背後に誰かいる。母だった。母はこれでもかというぐらい優しい顔をしていた。まるでマリア様のようだったよ。そして背後から儂を抱きしめると、儂の頬にキスをしてくれたんだ。そして手に持っていたロザリオを儂の首に掛けた。鏡から目を離して胸元を見ると、本当に、捨てた筈のロザリオが掛っていた。そしてもう一度鏡を見ると、母の姿は消えていた」 「本当の話しなんですか?」  イングリットが言いたかった事を、先にフランクに言われてしまった。 「実話だよ」 「そうかしら、迷える子羊を信仰の道に引き込むための創作じゃないの?」  また助祭が神父に噛みついて、とフランクはやんちゃな坊やでも見る様な目でグィネスを憐れんだ。憐れんだ、という所が、すっかりユノ―の話しを信じ込んで信頼してしまっている証拠だ。もしこれが、子羊を導く創作なら、まんまと成功したのだろう。 「君は、何回それを否定すれば気が済むんだい。どうだい、これが、儂が霊魂を信じる理由だよ」 「私も、何だか霊魂の存在を信じそうです」  父親が父親なら、娘も娘だ。まんまと信頼している。 「良い事だな」  ユノ―が話し疲れて乾いた唇を、出されていた紅茶で潤した。  だが、イングリットが霊魂の存在を信じるのは、それだけが理由ではない。 「それというのも、私も、幽霊の気配を、それもディッキーの物ではないかと思える気配を感じたからなんです」 「あの噂か?イングリット。砦の周囲に人影が現れるという」 「それとはまた別です。リチャード叔父さんと地下道に潜った時に、途中の小部屋、つまり赤い本を見付けた小部屋の前で、何かの気配を感じたんです」 「何かの気配、それは形容するとどんな風だい?」  ユノ―が興味を示して、カップを離した。 「異界から見詰められている様に、最初は感じました。でも部屋から離れると、それが何か得体の知れない怪物、例えば巨大な蛞蝓のような気配に変わり、後を付いてきたんです」 「それがディッキーの霊だと?」 「ディッキーは既に死んでいるのではないでしょうか。さっき父が言った様な、砦の周りをうろつく人影の噂もあったりします」 「そうか、行方不明になったのは何処かで亡くなったからか。その霊が、地下道に居ると」 「違いますか?貴男の様な、非科学的な事を相手にする職業の方の意見を聞いてみたくて話しました」 「そうだな、一度、その地下道を霊視してみる必要がある」 「悪魔憑きの掃除に、幽霊の捜索にと大変ね」 「助祭は儂の言う通りにしていれば良い。文句を付けすぎだぞ」 「私は幽霊探索よりも、早く例の本を見てみたいわ」 「本だったら、イングリットが英訳したものは燃やして、原典は地下に戻しました」   フランクが、片付けた、という意味だろう。 「そうなの?じゃあ、私も地下道に行かなきゃ」 「目的は違えど、行動は一緒だな。ではフランクさん、さっそくだが、地下道を探索する準備を整えてもらいたい」 「私も一緒に行って良いですか?リチャード叔父さんと行けば、道案内役を果たせます」 「良かろう、二人で先導してくれ」 「父さんはどうする?」 「儂は館に残る。幽霊などが出ると知ったら、もうあの地下道には踏み入る気がせん。だが準備は任せろ。五人分の懐中電灯とヘルメットと長靴を用意しよう」 「私は叔父さんを呼んで来ます。それに、ミニーに、また祖母を連れ出してもらわないと。ミニーも探さなきゃ」 「何だか大仰ね。未知の大陸でも探検するみたい。家の地下に潜るだけなのに」 「準備を侮るな。これが出来てないと、後で後悔する。儂は聖書と聖水を持って行くよ」 「私は…そうね、自分の観察眼だけあれば十分よ」 「では、直ぐに仕度を始めましょう」  フランクは立ち上がると、部屋を出て行った。 フランクが用意した、電灯付きのヘルメットと長靴を装備すると、五人は塔に向かった。マーガレットは既にミニーが散歩に連れ出している。部屋に入ると、前回と同じように、イングリットは祖母のナイフで額を抉った。そして頭の電灯を点け、一人づつ縄梯子を降りる。地下に着けば、またあの蛞蝓の気配に怯える事になるのだろうか。イングリットは、地下道に到着すると共に身震いした。先を行くリチャードの姿が、後ろは付いて来ているかと振り向きながら、配慮する。漸く今、最後尾のユノ―が降り立ったばかりだ。 「陰気臭い所」  マリアがどこか冒険気分で、楽しそうに悪態を吐く。 「如何にも幽霊が潜んでいそうな雰囲気だ」  ユノ―がロザリオに、守護したまえ、と囁いて言った。 「それで、霊気か何か感じるの?」  グィネスが話半分で答えを待つ。 「感じる、感じるとも」  ユノ―が大真面目に答えた。  イングリットもまた同じだった。あの蛞蝓の様な気配を、地下道の深奥から感じていた。 「さあイングリット、道案内を頼むわ」  グィネスがイングリットを見ると、微かに震えている。 「怖いの?」 「まるで誰かが両足を掴んでいる様で動けません」  すると、グィネスは溜息を吐いて、 「足元をよく見て、誰も掴んでやしないわよ」  足元を見ると、確かに誰の両手もない。あるのは、震える長靴だけだ。 「怖いのかね、なら君に、このロザリオをくれてやろう。母のロザリオだよ。君を守ってくれる」  そう言ってロザリオを差し出す。 「ありがとうございます」  でも、そんな大事なものは受け取れない。あんな奇蹟の起こったロザリオを、こんな信仰心の欠片もない自分にくれてしまうなんて、余りの暴挙だ。  しかしまだ、両足は動かない。誰かの両手ではなく、自身の心にある恐怖に捕まれて動かないのだ。  恐怖が少しでも和らげと、ユノ―が差し出すロザリオを見た。イエス様が磔刑に処されている。ああ、イエス様、この罪深い私にお許しを。そう念じた。念じれば、心が強くなると思ったからだ。しかし、足の震えは止まらない。 「足が震えている。さあ、これを持って」  ユノ―がロザリオを掴ませた。  すると心が少し軽くなった。イングリットは感激の余り、涙ぐんだ。受け取ってしまった。だが後で返そう。この地下道を出たら。そう思った。 「母のロザリオを他人にくれてやるのを目撃したのは、これで四度目よ。呆れたもんね」  グィネスが独りごちる。どうせあの信仰に目覚めた話しは作り話しで、ロザリオも、土産物屋かどこかで購入した安物だろう、と顔に描いてある。  それでも、今のイングリットには、このロザリオこそが本物の奇蹟のロザリオの気がしてならなかった。そんな事を思うのは、恐怖に対する反動なのだろう。しかしロザリオに勇気づけられた足は、一歩、前へ進んだ。 「神父様!」  遠くで声がした。リチャードが呼んでいる。 「さあ行こう」  ユノ―に促されてリチャードの元まで辿り着くと、彼は横道の入り口で待っていた。 「これが例の小部屋に繋がる、隠し通路です」 「隠し通路?」 「解りますよね?」  突然そう訊かれ、ユノ―は咽乍ら、 「勿論だ、言ってみたまえ」 「この館と砦をつなぐ地下道は、秘密の通路なんです。館を建てた貴族が敵に攻められ館が陥落した際に、この通路を使って砦に向かい籠城した。だが、それを敵に気付かれない様に、未使用時はこの隠し通路の高さの上まで、水が張ってあったんです。そうすれば、敵はこの通路を使って砦に辿り着けない」  すると、ユノ―は、勿体ぶって胸を張り、 「見事だ、儂の推知と同じだよ。君は儂と思考回路が似ているのかもしれない」 「どういう意味です?」 「秀才という意味だよ」  リチャードははにかみ乍ら、 「ありがとうございます」  と照れ臭そうに頭を掻いた。 「では隠し通路を通って、小部屋に向かいましょう」  リチャードが腰を屈めて通路に入る。皆それに続いた。  小部屋の前まで来ると、ユノ―は脂汗を流し始めた。 「感じる…。幽霊の気配だ。ディッキーのな」  ユノ―は、この部屋から、ディッキーの霊気を感じると言い、イングリットも、以前来た際に、この部屋から得体の知れない気配を感じたと言う。 「ここだ、間違いない。そのディッキーという男の霊は、ここに私達を導いたんだ。ディッキーは、この部屋に来た事が在る様だ」  扉は前回来た時に蹴破られたままだ。部屋に入ると、天井からぶら下がっているナトリウムランプのスイッチを入れ、皆ヘルメットの電灯を消した。  グィネスは部屋を見回したが、書棚しかない。殺風景な部屋だ。それも、ただの部屋だ。グィネスには、ユノ―が感じる霊気も、イングリットが感じた蛞蝓の気配も感じられない。自分は、想像力に欠如しているのだろうか。霊気だの蛞蝓の気配だの感じないのが普通だと思うが、それを各々の心に生み出せる二人の妄想力に感服し、羨ましかった。私も、心が生み出す霊だの蛞蝓だのを、一度で良いから感じたり見たりしてみたいもんだわ。そう感じていると、何か、ユノ―やイングリットに比べて、自分が劣等生の様に思えて来る。だがそんな筈はない。正常な心を持っているだけだ。最も、豊かさには欠けるかもしれないが。そんな事を取り留めもなく考えながら冷たい地下室に居ると、何だか憂鬱になって来た。もう、こんな事を考えるのは止めよう。まるで葛藤に苛まれているみたいじゃないか。ただ一つ、心の豊かさに欠けるという点に就いて気付けた事が勉強になった。まあ、ただそれだけだが。  一方、ユノ―とは云えば、忙しなく部屋の中を見回して、唸ったり吐息したりしている。  しかしユノ―は、部屋に蓄えられた珍書奇書の類には、靴の裏の蟻程に興味を示さず、その大きな三白眼を見開いて、部屋を物色し始めた。おそらく、探し物はディッキーが、この部屋に呼び寄せた理由となる痕跡か軌跡だろう。 「神父様、そんなに何かを探してらっしゃるけど、ここには以前来た時から、ヴァチカンの司書が見たら、怒りの余り湯気を上げそうな珍書や奇書しか在りませんよ」  リチャードが、申し訳なさそうにして、ディッキーの痕跡探しに上気する神父を宥める。 「否、私が探しているのは痕跡ではない」 「では何を?」 「遺体だよ。ディッキーの遺体が、此処に在る」  イングリットは、それをきいて驚きと落胆に、萎れた様子で、 「やっぱり、ディッキーはもう…」  しかし、ユノ―は、そんな様子など靴の裏の蛙程に気にもせず、壁際を忙しなく歩き回っている。 「霊感が囁く、霊感が囁く」  そうぶつぶつ言いながら、ある壁の一角まで来ると、 「ここだ!ディッキーは、この壁の向こうでナイフで刺されて眠っている!」  突然、処刑場で罪人を批難でもする野次馬のように、壁の一角を指さした。  本当だろうか。もし真実ならば、ディッキーは何て哀れな姿でいるのろう。 「お祖母様の仕業だな」  リチャードが言った。 「何故、祖母がディッキーを?」  ディッキーが既に故人であるという上に、その遺体を壁に埋めたのがお祖母様だなんて、信じられない、とでも言いたいのか、イングリットはリチャードの言葉に、思わず溜息を吐いた様だった。  リチャードは何と答える気だろう。埋めたのが、お祖母様なら、当然の様に殺害したのも言わずと知れている。イングリットは、その解答を恐れたのか、寒さに耐える子鼠の様に身震いした。リチャードの答え方によっては、心臓麻痺でも起こしそうだ。 「判らないけど、ディッキーを手に掛けた後に、痴呆が始まって、夜な夜な探していたのだろう。それが砦の周囲をうろつく人影の正体だよ」  予想通り、イングリットは心臓を一旦止めた様に見えた。「手に掛けた…」の件の所で、呼吸が止まったのだ。そしてそのままブロンズ像の様に蒼い顔をして動かない。しかし、飲み込んでいた息を苦労して吐き出すと。 「殺害した動機は何なの?」 「お祖母様は、悪魔にディッキーの殺害を促される夢を見たと言っていた。根拠はそれくらいだよ」  しかし、リチャードは「あっ」と小声を出すと、 「もしかしたら、お祖母様と、ディッキーの間に、何かいざこざがあって、殺してしまったのかもしれない。例えば、不倫の破局とかだよ」 「不倫の清算?それが殺害した理由?」 「憶測だけどね。ディッキーとお祖母様は、この地下道を使って、いつでも逢引き出来る環境にあった」  マリアは、ビリントン夫妻の事を思い出した。ビリントン夫妻の様に、動機のはっきりしない死…否、違う。あの夫妻は、交霊会の後、何か得体のしれないものに憑依されて、つまり悪魔に憑依されて死んだのではないかと思っている。 「あのビリントン夫妻と同じで、イングリットの祖母も、悪魔に憑依されて、ディッキーを殺めてしまったのではないかしら。つまり動機はお祖母様ではなく、悪魔にあったのでは?」  すると、それは違う。結界である魔法円の中で死んでいたのだから、夫妻に憑依したのは、悪魔ではない。とグィネスが否定した。今回の連鎖する事件もまた、悪魔憑き事件ではないと。 「君はとことん現実主義者だな。非科学的事象は、全て子供の妄想かね」  壁の一点に向かって祈りを捧げていたユノ―が振り向いて言った。 「そんな事は言ってませんわ。しかし、今回の一連の事件に非科学的事象は見当たりません、と言ったのです」  するとユノ―は、グィネスを悪魔にでも見立てたかの様に喚いた。 「見当らない?現に今、私が霊感を使って、悪魔に命じられて殺められたディッキーの遺体を、霊に導かれて見付けたじゃないか」 「それは錯誤です。ユノ―神父」 「何だと!」 「貴男は遺体の埋められた壁の煉瓦の角が、まだ新しいために鋭角である事には気付いていましたか」 「煉瓦の角?いいや」 「それは間違った答えです、ユノ―神父。貴男は気付いていたのです。識閾下において、ね。まず、皆は、お祖母様が、悪魔にディッキーを殺せと命じられる夢を見たと知っていた。その夢を見た原因は、恐らくあの交霊会を機にしているのでしょう。そして、お祖母様が、不倫かどうかは判らないけど、この地下通路の存在を知っていて、ディッキーと交流があった事も容易に想像出来る。その結末が、夢の悪魔に言われた通りであったかもしれない」  それはその通りだ、とリチャードは頷いた。グィネスは納得の早いリチャードに微笑むと、ユノ―に向き直って、 「そこまで想像出来れば、次は遺体の隠し場所です。それにつけても、この地下室は、遺体の隠し場所に最適だわ。イングリットの霊感の正体とは、そこまでの情報から瞬間的理論、つまり直感によって導き出された推知と、そこに幽霊だの妖怪だのという想像力が結びついて生み出された錯覚なのです」  あの、背後から追いかけて来る蛞蝓の様な気配の事だ。 「だがわしは、この部屋に隠された遺体の位置まで、今言い当てたぞ。君のいう錯覚を起こす情報だけでは、そこまでは判るまい」 「本当に、そこに遺体があるとお思いですか?」 「間違いない。儂の霊感がそう言っている。君は疑うのだろうがな」 「いえ、私も、そう思います」  グィネスは意外にもユノ―の言葉を否定して、首を横に振った。 「何故なら、その壁の位置だけ、煉瓦の角が鋭角である事に気付いたからです。最も、識閾下で気付いて瞬間的理論を構築した神父とは違い、私は意識で気付きましたけどね」  リチャードが口を挟んだ。 「ちょっと待ってくれ、二人ともどうかしてる。霊感だの、煉瓦の角だので、ここに遺体が埋められていると勘ぐるなんて。何か証拠はあるのかい?証拠も無しじゃ、警察も呼べないし、当然のように壁も壊せない」  するとグィネスは、人差し指を頭上に向けて、微笑んだ。 「証拠ならあるわ。この部屋は天井からぶら下がるナトリウムランプで照らされている。懐中電灯の灯りは、皆、部屋の外にあるコードのスイッチを入れた時に消してしまったでしょう。だから演色性が低いのよ」 「演色性?」  リチャードが聞き慣れない言葉に、眉を顰めた。 「太陽光を基準にして、その陽光の下で見える色彩を百パーセントとすると、光量の弱いナトリウムランプの下では、太陽光よりも、色彩が視認し辛いのよ」 「つまり?」 「つまりね、電気を消して、LEDの懐中電灯を点けてちょうだい」  マリアが扉まで走り、ナトリウムランプのスイッチを消すと、皆、懐中電灯を点けた。 「その明かりで、さっきの壁を照らして」  すると、壁の一角だけ煉瓦が新しいのか、色が違う。 「古くくすんだ煉瓦の中に、まだ薄い色の綺麗な煉瓦が混じっているのが判る?ナトリウムランプの演色性の下では、僅かな色の濃淡の差を持つオレンジ色の煉瓦は、皆同一の色に見えてしまうのよ」 「これはつまり、最近、誰かが、煉瓦を取り換えたということかい。当然、古い煉瓦は、壊された。壁に穴を開ける必要があったからなのか」  リチャードは、遺体の埋め場所がこの壁の向こうだと、漸く納得してくれたのか、腕組みをすると、壊れた人形の様に何度も首を上下させた。それを見て、グィネスは思わず、そんなに納得を反復してくれなくても良いのに、と滑稽な仕草に微笑んだ。 「遺体を埋めるためか。演色性だか何だか、ややこしいな」  ユノ―は、まだ怒っている。三白眼が四白眼に成りそうな程、目を剥いている。 「これでここに遺体があるという疑惑を、より強靭なものに出来たかしら。掘ってみる?」  グィネスが言うや否か、リチャードが煉瓦を靴底で蹴った。僅かに壁が歪む。それを皆で真似して繰り返すと、オレンジ色の煉瓦が向こう側に崩れ、中から、ミイラ化して干からびたディッキーの姿が現れた。洋服を着たままのディッキーは、白のワイシャツをどす黒く自らの血で汚して、その瘡蓋の中央には、ナイフが突き刺さっていた。 「やっぱりお祖母様が殺したんだ。見ろイングリット。君がお祖母様の部屋から持ち出したナイフと柄も銘も同じだ。対のナイフなんだよ」  イングリットがディッキーの死と、祖母の凶行に耐えかねず泣き崩れる。 「霊感とは、僅かな情報から得られる識閾下の為す瞬間的理論なんだな。遺体を見付けた事よりも、そっちの方が衝撃的だよ」  壁の破壊で疲れたユノ―は、乱れた髪を直しながら、遺体に十字を切った。 「自信をなくさないで、神父様。例え霊感が非科学的だと批難されても、貴男は優れた無意識が為す直感をお持ちという事です」 「有難う、リチャード」 「では、本を探しましょう」  グイネスが書棚を見て回る。 「在ったㇵわ。この背表紙に何も書かれていない本ね」  赤い本は、フランクがそこに置いたのか、無造作に書棚の天板の上に置かれていた。 「この本は、私が預かるわ。マクスウェルに頼んで訳してもらって内容を把握したいの」  そう言ってマリアに渡そうとしたその刹那。横から割り込んだイングリットが、本を奪い取った。そして、部屋の外に小走りに逃げて行こうとする。 「イングリット!何をするの?」  すると、ハッと我に返ったイングリットは、 「私…何を」  そう呟いたかか否か、悲鳴を上げて蹲った。そして痙攣を始める。 「様子がおかしいぞ。グィネス。まるでマクスウェルが現れる前兆の様な感じだ」  ユノーがそう言いながら、イングリットに近付いて、 「大丈夫かね、イングリット」  と声を掛けた。するとイングリットはニヤリと笑って立ち上がった。 「この本は渡す訳には行かない。我々の家だからな」  ドスの効いた男の声だった。 「本の暗示の悪魔ね。マクスウェル、本を奪い返して」  横に居るマリアに命じると、マリアは少しカタレプシーの様な動きと痙攣を起こした後、急に怒った猿の様な顔になり、一気に跳躍してイングリットの背中に負ぶさった。その勢いで、イングリットが前のめりに倒れる。  そして本を奪い返そうと、固く本を握るイングリットの掌を開こうとする。  マリアの力は、物凄い力だった。マクスウェルに憑依されている時のマリアは、人の筋肉が身体を破壊しないために制御している筈のリミッターが外れている。だから、まるで猿か何かの様な跳躍や、恐ろしいほどの腕力を出す事が可能なのだ。 「やめろ!これは、我々の本だ!」  そう叫びながらも、イングリットは本を奪われた。 「貴方は本の悪魔ね?」 「本の悪魔とは、どういう意味だい。悪魔憑きなのか?」  ユノ―がグィネスに、問うと、グィネは黙って頷いた。 「マクスウェル、イングリットは抑えつけたままにしておいて」  そして一息置くと、悪魔の正体についての推知を語り出した。 「この本には強い暗示をかける、所謂催眠術のような効果を生む内容が記述されているのでしょう」 「催眠術?良くある、貴方は眠くなると言った後に、今度は貴方は鳥になると暗示を掛けて、鳥の物真似をさせるあれかい?」  リチャードが半信半疑で訊く。 「そういうショーもあるわね。でも催眠術は、元々医療としてメスメルが生み出したもので、今でも精神科では医療行為の一環として、使われる事があるわ」 ラポールと言う言葉は御存知だろうか。日本語に訳せば、信頼関係とでもなる。催眠術には、この催眠術を掛ける人間と、掛る人間との間に、信頼関係を意味するラポールが必要となる。このラポールの有る無しで、催眠の効果、つまり暗示の強弱や持続力に係わって来るのだ。  そもそも催眠術は医療として発展した。十八世紀に、メスメルが、動物磁気を謳った際に、この動物磁気を操る事で、病気が治ると訴えたのだ。メスメルは動物磁気を操れると豪語し、病人に病気が治ると指示したただけで、その患者は症状が改善した。しかしこれは、暗示による効果だった。この間違った動物磁気説の副産物として、医療の世界の催眠術は始まったのだ。  その後、催眠治療は一旦衰退した。しかし、心因性の病気には良く効くと、再び復古する。簡単に言えば、「鬱が治る、鬱が治る」と暗示を掛ければ、症状が改善したのだ。最も実際には、こんなに簡単ではなく、もっと技術を必要としたに違いない。  精神分析医のフロイトは、当初催眠治療を導入していた。しかし理性が催眠状態にあり眠っていると、催眠状態故に個人的無意識から上がって来る、病気の原因となる潜在記憶は、患者の理性を素通りし、医師にまる投げ状態となる。これでは患者本人が潜在記憶と向き合えない。患者本人に問題と向き合わせるためには、意識化させる必要がある。患者の意識に問題の潜在記憶が起こす葛藤と接触させ、そこにフロイトが解釈を入れる事で、潜在記憶が生む葛藤の謎を解き明かしたのだ。  しかしこれは、マインドコントロールにも通ずる。また催眠術を使った記憶の操作や外傷的記憶の消去に関しては、他の医師が試みていた。しかしフロイトはこれを真似なかった。それは、催眠暗示法の持続力が永続せず、時間と共に効果は薄れ、また元の症状にもどってしまうからだった。  フロイトは次第に催眠暗示法から、離れて行き、患者の意識が清明な状態での問題との接触を行う様になった。これを自由連想法と呼び、患者を寝椅子に寝かせ、患者に見えない位置から交わるようにして、患者が自分の回想に没頭しやすい様にした。この方法は、患者と医師による、患者の無意識との接触範囲を広げ、患者が問題を自覚しやすい環境を作った。  他にも催眠を治療に生かした医師は沢山いた。が、心因性の病気には良く効果を発揮したが、心因性ではない病気では時間と共に症状が戻ってしまうというのだ。そのラポールの強弱に左右されるという暗示とは、どの程度の物なのだろうか。  ここに面白い実験結果がある。ある博士がある女性に公の場で催眠術をかけた。それは、おもちゃの銃や偽の毒薬を使い、殺人の真似事を繰り返させる実験だった。この実験で、女性は次から次へと博士に言われるがままに、殺人の真似事を繰り返した。ラポールさえ築かれていれば、催眠術師は殺人さえ犯させる事が出来るのか。つまり、モラルや法を逸脱させる事も可能なのだろうか。  しかし実験終了後、学生たちが、まだ催眠状態にある女性に、「ここはバスだから服をぬいで」と暗示を掛けた所、拒否されたという。博士と学生たちではラポールに違いがあった事はいうまでもないが、やはりモラルや信条に反する事は犯せないのだろうか。そうなると、催眠術には、殺人を犯させる程の力は無いのだろうか。 「その鳥になると暗示を掛けるような効果が、あの本にはあると?」  ユノ―の方も、本に暗示効果があるという想定に、半信半疑だ。 「交霊会では、まずトランス状態になるための丸薬を皆で飲む。その状態で催眠状態を作り出し、次は術死が本の内容を読み上げる」  丸薬はトランス状態を生み出す、自然に自生する草花か、合法ドラックを材料にしたのだろう。 「本について、どんな内容を想定している」  ユノ―は悪魔憑きと催眠術を、いまいち結び付けられないでいた。悪魔憑きという非科学現象と、催眠術という医療やショーにつかわれる行為では、太陽と冥王星程離れている。 「交霊会の参加者を二重人格にする内容よ」 「二重人格?まさかその本には、鳥にならせる代わりに、悪魔にならせる内容が記載されていると?」  ユノ―がやっと、グィネスの言いたい事を察した。太陽と冥王星の接近に、正直ユノ―は驚きを隠せず、目を白黒させた。 「エリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』は読んだ事はあるかしら。交霊会の主催者を降霊可能にするため、暗示に掛ける内容の記述があるわ。降霊術の実践に際して、入念な自己暗示の方法が書かれているの」 『この祈祷を行いつつ、呼び出そうとする相手と一身同体になって、その人の話しぶ りを真似、自分がいわばその人自身であるかのように思い込むことが必要である。』 高等魔術の教理と祭儀 祭儀篇 生田耕作訳 「これは自己暗示よ。自己暗示で故人の人格を生み出し、憑依現象が起こると書いてあるの。ならカーライル家の交霊会に参加した、トランス状態の術師や参加者にも、暗示の力で悪魔を模した第二の人格を植え付ける事も可能なのではないかしら」  ユノ―はふうっと溜息を吐いて、ヴァチカンの禁書庫で背表紙だけ見たことある、その本の事を思い出した。なんてトリッキーな本だ。だいたいそれでは、本物の霊を降霊してない。イカサマじゃないか。それに、自己暗示で第二の人格を生み出すなどと、危険な行為ではないのか。しかし、出来ない事は無いかもしれない。 「可能かもしれん」 「でも、この催眠術の本は、それだけでは終わらないわ。参加者に憑依した悪魔の人格に、催眠術を行う方法をレクチャーしたのよ」  術師は、本の内容に従って、暗示で生み出した悪魔の人格に催眠術のやり方を教え込んだのか。一体なぜそんな事を。本が術師に催眠術をレクチャーし、術師が悪魔の人格に催眠術をレクチャーする。この本は、まるでどこかの標的に辿り着くまで、催眠術の輪を広げ、虎視眈々と狙っている狩人の様な本だな。 「二重人格の片割れが、一体誰に催眠術を施すためだね」 「チャールズとイーディ本人達よ」 「本人達?」  標的は本人達か。だが何故そんな事を?そう自問して気付いた。チャールズとイーディの末路を見れば判る。あの二人は標的だった。あの二人の末路の実現こそが、本の目的だったのだろうか。 「悪魔の人格は、催眠術を掛ける能力を有していたのよ。そして術師は、同時に本人達にも暗示を掛ける。悪魔の人格の暗示を受け入れる様に、と」  という事は、まだ催眠術を教えられたばかりの、ずぶの素人である悪魔の人格でも、その催眠術の施術の効果が強まるという事か。ラポールが無くとも、という意味だ。 「でも何で、本は直接本人達に自殺の暗示を掛けずに、偽悪魔というワンステップを置いたのだろう」 「スケーブゴートよ。本が原因の催眠術ではなく、あくまでも悪魔が行った殺人に見せかけるためよ」  何故、催眠術の輪を広げたのか。それには、犯人役をねつ造するという意味があったのか。 「この本は一体何なんだ」 「偽の悪魔を創造し、殺人を犯させる。誰かが何かの目的で書いた危険な本よ。きっと、本の中には、偽悪魔に実行させる様々な殺人方法とその実行法のレクチャーが記されているはずよ」  人を殺させたり、自殺に追い込む、催眠術の本。ユノ―は思わずハシシンを思い出した。ハシシンでは催眠術を駆使して、暗殺や自殺を思うがままにしたという。  一九五一年には、こんな事件が起こった。ある催眠術に精通した生粋の犯罪者Aが、実行犯のBに暗示を掛け、銀行強盗を行わせたのだ。最も強盗は失敗しBは逮捕されたものの、二人の人間を撃ち殺している。  過去にナチスに加担して受刑していたBは、偶然にもAと同じ房になった。この時からAによるBへのマインドコントロールが始まった。Bは何事も信じやすく、催眠術に掛りやすい体質だった。Aはそれを利用して、毎日の様に催眠実験をBに行ってラポールを築いていった。  出所後、Aは金が足りなくなるとBに用立てさせていた。Aのラポールの手中にあるBは、これに素直に応じていたという。しかし、それでも金が足りなくなると、Bに銀行強盗を命じたのだ。Bはそれに素直に応じて、二人の人間を殺めてしまったのである。人はラポールと暗示が揃うと、他人の命さえ奪うのである。  ここでライター博士という人物が登場する。警察の依頼を受けたライター博士は、Aの犯罪を解明するため、Bに催眠を掛け、Aの行いをその記憶から知ろうと試みる。しかし、AはBが余計な事を喋らない様、鍵となる暗示をかけていた。記憶の封鎖だ。しかしライター博士は、投薬で鍵を抉じ開けると、Bをトランス状態に陥らせる事に成功し、Aの行ってきた犯罪計画の全てを喋らせる事に成功したのだ。  その後、Aは終身刑となり、Bは生涯精神病院に収容されてしまった。 「ではチャールズやイーディは、偽悪魔の暗示で殺されたのだな」  あの二人は、悪魔の暗示に掛るよう暗示されていた。だから簡単に暗示に掛り自殺したのだろう。 「そう、しかも現実の世界では、人は強い催眠状態には陥り難い。だから悪魔の人格は、意識が眠っている状態の時を選んで、暗示を掛けたのよ。ここで何か思い出さない?」 「何だね、夢に現れる悪魔といえば、サキュバスとインキュバスぐらいしか思い出さないが」 「そうじゃないわ。貴男が馬鹿にしている、私の御高説よ」 「集合的無意識の話しか?」  確か、集合的無意識は、夢や白昼夢、それに能動的想像の中で、意識に接触する性質を持っていた筈だ。 「そう、集合的無意識は、意識に接触する時、夢を介する事を得意とするわ。つまり…」  元型だな。悪魔の正体は、集合的無意識を構成する元型の一種なのだろう。 「元型の何れかが、催眠術の暗示に反応して悪魔に成り切っているという事か」  一体どの元型が成りすましているのか。 「恐らくは、シャドー元型ね。彼らが悪魔に成り切り、二人の本当の人格に夢を介して暗示をかけ、自殺させた。催眠術というのは、意識が縮小している最中に、無意識に対して行われるわ。つまり、夢の中で集合的無意識の一部であるシャドー元型が、他の集合的無意識の部分に暗示を掛け、自らの死にも臆せず自殺したのよ。そう、これは他殺の様な自殺なの」  個人的悪や社会的悪の象徴である、あの元型か。まったく人間と言うのは厄介な精神構造をしたものだ。いつ意識のコントロールを離れて憑依するか判らないシャドー元型などと。ユノ―は神が悪魔を生み出したと、幼少の頃初めて知った時、では神の中に悪魔は内包されていたのかと解釈してショックを受けたが、人間もシャドー元型という悪魔を内包しているのだ。だから憑依されて悪事を犯したりする。それどころか、この本のような正に悪魔の本さえ生み出したりする。これも神に生み出された人間の性なのか。 「では術師が偽悪魔に命令している訳ではないのだな」  術死の犯罪にしろ、著者の犯罪にしろ、どちらにしても人間の犯罪だ。 「イングリットも丸薬を飲んだと言っているわ。それに、ほら。こうして偽悪魔に憑依されている」 「なるほど」  ではやはり、本の犯罪なのか。 「交霊会の最後には、これ等の儀式の内容や、本の内容に関する一切の記憶を忘れてしまうように、記憶を封鎖して終了したのでしょうね。でも交霊会の最中に掛けられた暗示は、後催眠として、交霊会終了後に発動する様に仕組まれていた」 「では、本の犯罪は継続中で、まだ被害者が出る可能性があるのではないか?」 「その可能性もあるわ」  赤い本よ、お前の目的は一体何なんだ。頼むから言ってみてくれ。それで新たな被害を食い止められるかもしれない。ユノ―は十字を切って祈った。  ここまでの全容を簡潔にまとめるとこうなる。交霊会の丸薬には、人をトランス状態にさせる効果があった。それを皆で飲んだ、カーライル家の面々は、本を朦朧とした意識の中で読み上げる、イングリットの催眠術に掛った。その催眠術とは、第二の人格、つまり悪魔の人格を生み出す第一の暗示、そしてその偽悪魔に催眠術のやりかたをレクチャーした後の、偽悪魔の暗示を受け入れるようにとの第二の暗示が掛けられた。その後、本の内容や、交霊会の内容についての記憶を封鎖する第三の暗示と、交霊会で掛けられた暗示を記憶を封鎖された後も持続させる第四の暗示がかけられて、交霊会は終了となった。  その交霊会で生み出された、偽悪魔の暗示に掛って、チャールズとイーディは自殺したのだ。催眠術に、殺人や自殺を犯させる力があるということは、ハシシンや一九五一年の銀行強盗事件が証明している。その通りに、偽悪魔は、二人を自殺させるための暗示に着手する事にも躊躇しなかったのだ。  そこまで黙って聞いていたイングリットが、突然笑い始めた。 「何をほざいてやがる。俺は本物の悪魔だ!」  するとマクスウェルが、 「どうかな?じゃあ、この言語は喋れるか?」 「ラテン語か?簡単だ」  イングリットが哄笑する。 「否、ヘブライ語だ」  マクスウェルが意地の悪いニヤケ面で言った。イングリットの表情が凍り付く。 「どうした、ヘブライ語を話せない悪魔なんて聞いた事がないぞ。天界に居た頃、毎日使っていたろう」  イングリットは急に黙り込んだ。 「俺が教えてやろうか?」 「煩い、そんな事はどうでも良い!その本を返せ!」  マリアの腕から奪い返そうとする。 「この本が欲しいか!」 「その本は我々の家だ!本が所有者から所有者へと移り変わる度に、新たな悪魔が生まれて行く!家であり、母なる本なんだ!返せ!」 「残念だけど、そんな事は終わりにしなければいけないわ」  グィネスは首を横に振りながら、 「マクスウェル」 「なんだ」 「内容の確認前にやるのは残念だけど、本を燃やして」 「何だと!母を殺す気か!」  ユノ―からライターを渡されるマクスウェル。 「やめろー!やめてくれー!」  イングリットが涙目になる。  ライターがシュボッと音を立てて発火した。 「畜生っ!」  その時、イングリットがライターを持つ腕に噛みついた。 「きゃー!」  痛みで我に返ったマリアは、ライターと本を両手にそれぞれ持っているのに気付き、状況を把握した。しかし、もうマクスウェルではない。リミッターは戻っている。イングリットは、ただの幼い少女に戻ったマリアを、身体の上から跳ね除けた。マリアと、ライターと、本が、床に転がる。  本を拾おうとして、手を伸ばすイングリット。  その瞬間、グィネスが叫んだ。 「イングリット!目を覚まして!」  するとイングリットは、唸り声を上げ乍ら、本を抱きかかえた。  そしてぶつぶつ言っている。良く聞くと、 「私はイングリット、私はイングリット」  と繰り返している。そしてライターに手を伸ばすと、まだ発火したままのジッポを本の下部にあてた。炎が本を包む。  それを確認すると、イングリットは意識を失った。  騒動が終わると、ユノ―は燃える本を拾い上げ、手で払って炎を消した。 「半分焦げてしまったが、まだ読める部分もある。内容を僅かにでも確認できるかもしれない。そうだろう、グィネス」 「ええ、確認したいわ」 「マリア、マクスウェルにラテン語本の内容を、出来る限り把握するようお願いしなさい」  そう言って、焦げた本を渡した。 「そろそろ、地上に戻りましょう。もうここには用は無いわ」 「イングリットは僕が背負って行くよ」  リチャードが倒れた姪を抱き起す。 「地上に戻ったら、まずどうする」 「マーガレットと話しをするわ。ディッキー殺害の件についてね。では行きましょう」  地下道から戻った五人の内、グィネスは、ミニーがマーガレットを連れて戻るのを部屋で待ち、リチャードは背負ったイングリットを彼女の部屋に寝かせて来る、と言って立ち去り、ユノ―はフランクに地下での出来事を報告に行くといった出て行った。そしてマリアはといえば…。  地下道から戻ったマリアは、グィネスがマクスウェルに言い付けた赤い本の燃え残りの閲覧をするために、館の居間を借りて読書に耽っていた。  と言っても、人格はマリアに戻り、マクスウェルは識閾下で五感を知覚してラテン語の本を黙読している。マリアのする事と言えば、応接セットのソファーに座って、ゆっくりとページを捲って行くだけだ。勿論マリアにはラテン語は解らない。だが識閾下のマクスウェルは読解している筈だ。マクスウェルが追い付けなくならない様、マリアも間を計るため、焦げた文章を目で追いながら、ゆっくりとページを進める。  そんな作業は年がら年中ある訳では無いが、初めてでもなかった。以前、グィネスから頼まれて、中世のメスメリズムに関するラテン語版の本の、翻訳を行った事もある。だから、マリアとマクスウェルの息はぴったりだった。  そんな時だった。まだ赤い本は十数ページしか読み進めていない、その時。居間の扉が音を立てて開き、誰かが逃げ込んできた。 「ちょっとこの部屋に隠れても良い?追われてるの」  また事件でも起こったのか。奇矯な館だ。呆れて物も言えない。 「どこまでも、物騒な館ね」  すると逃げて来た少女は言った。したり顔で。 「隠れん坊よ。ミニーが鬼なの」  こっちは仕事中だ、とよぽど言い返してやりたかったが、不幸にもここはマリアの自宅ではなく、彼女の自宅だ。ラテン語の翻訳中だけ間借りしている身としては、文句は言い辛い。 「どうぞ、どこへでも御隠れ下さい」 「じゃ、机の下に」  マーサはマリアが座る応接セットの机の下に身を隠した。そして唇に指を立てると、 「イルザが来ても秘密にしてね」  と、懇願した。 「判ったわ、その代わり、隠れん坊は良いけど、読書の邪魔はしないでね」  するとマーサは、少しだけ机の下から顔を出して、何を読んでいるのかと、覗き込んだ。 「何を読んでるの?」 「ラテン語の魔術書」 「ラテン語が読めるの?凄い!」  しかし、その感嘆を裏切る様に、 「てんで判んないわ」  マリアには、蚯蚓ののたくった様な文字にしか見えない。 「じゃあ、どうやって、読んでいるのよ」 「識閾下でマクスウェルが読んでいるのよ。私は紙面を見詰めて、文字を目で追うだけ」 「マクスウェル?誰の事?」  識閾下という言葉が解らなかったのか、マーサはまだ部屋に誰か居るのかと思って、周囲を見渡した。 「私の相棒よ」  心の中に居る。 「この部屋には、私と貴女の二人しかいないじゃない。そのマクスウェルは、何処に居るのよ」 「居るのよ。いつも私と一緒に」  だから心の中だ。 「そ、そ、そ、それって幽霊?」  そう言われて、マリアは思わず失笑しそうになった。マーサを馬鹿にしたのではない。実際姿も見えず、憑依ばかりするマクスウェルは、幽霊に比喩するのが適正だと思ったからだ。 「よく幽霊の出る館ね。違うわ。集合的無意識よ」  集合的無意識、と言っても、どうせ判らないだろうと踏みつつも、面倒臭いので説明なしでそう言った。 「良く解らないわ。幽霊みたいな物なの?」  だからそれがおかしくて溜まらない。マクスウェルが幽霊に比喩されるのが。だがあながち唯の比喩とは言えない、隠喩に近い比喩だ、なぜならば幽霊の正体の一部は実際に集合的無意識である事も否めないからだ。 「時に幻視となって白昼夢に現れ、幽霊と誤認される事もあるわ」  するとマーサは身震いして、 「やっぱり幽霊なのね。悪霊なの?それとも守護霊?」  悪か、善か、か。 「昔はね、私にも手に負えない悪い奴だった。私に憑依しては、悪さを働いたの。でもね、グィネスと出会ってから、マクスウェルをコントロール出来る様になったのよ」 「あのグィネスって人は霊媒師か何かなの?」  精神分析医である事は、まだ言って良いと言われていない。だからお茶を濁した。 「似た様なもんね」 「どうやってコントロールしたの?」  そのやり方は、当時の心境を思い出すから、なるべく話したくなかった。だがそい回想しながらも、マクスウェルに対する恨みが湧いてくると、「どうせ今、奴はこの会話を聞いているだろう、奴にも思い出させて、暗に責めてやろう」、という意地悪な気持ちになった。 「私の日記を見せたの。毎日毎日マクスウェルに憑依されて、わたしはもう死にたかった。その気持ちを日記に記して於いたのよ。そしたら、その日記を読んだグィネスがね、マクスウェルが憑依して居る時にね。その日記を見せて、この子はもう直ぐ自殺するわよ、そしたら貴女も消えて無くなるわ。って警告したの。そしたら、マクスウェルの奴、急に大人しくなっちゃってね」  どうだ、マクスウェル。当時十歳だったわたしを自殺の寸前まで追い詰めた罪悪を思い出したか。 「霊を鎮めたのね」  マクスウェルは聞いているのかいないのか、今も鎮まっている。反応がない。 「そう、鎮めたの。それからは、マクスウェルはグィネスに従順になっちゃってね、どうも遣り込められたのが原因でマクスウェルの奴、グィネスの事を…。私は同性愛者じゃないのに。シャドー元型だからかしら」  もう少し責めてやろうと思って、秘密をばらしてやった。 「同性愛者って何?」 「異性ではなく、同性を好きになる事よ」 「マクスウェルは女なの?」 「そう、シャドー元型ってのはね、自我と同性の姿で現れる物なのよ」 「女の霊なのね」 「そう、男みたいに、俺、なんて自称するけどね」  しかしあのおとこ女、それでも反応が無い。  そこに突然居間の扉が開いた。イルザだ。 「マリアちゃん、この部屋にマーサは居ない?探してるの」  マリアが足元のマーサを見遣ると、マーサは居ないと言え、と目配せした。 「居ないわ。どこか他の部屋じゃないの?」 「そう、困ったわねえ。隠れん坊が終わったら勉強を教える予定なのに」  イルザを良く見ると、両腕に「三年生の理科」と書かれた参考書とノートを抱きかかえている。 「他を探すように言って」  マーサが唇だけ動かした。 「他を探した方が良いわ。早くしないと日が暮れるわよ」 「そうねえ、じゃあ裏庭の方でも探してみる。邪魔してごめんなさいマリアちゃん」  扉が閉まった。するとマーサは、もう暫くはここへは戻って来ないだろうと踏んだのか、机の下から出て来て、マリアの対面に座った。 「今、三年生なの?」 「そうよ、でも、私って凄いのよ」  何がだろう。 「どうして?」 「まだ六歳で、本当は一年生なのに、勉強が出来るからって飛び級したの」 「本当に?それは確かに凄いわ」 「私の唯一の自慢。勉強が出来る事」  正直、羨ましかった。学校で先生に教えてもらえるこの子が。その上、ミニーからも勉強を教わってる。 「でも、あまり勉強に積極的には見えないわ」 「いいのよ。これ以上飛び級する気はないしさ。貴女は幾つなの?」 「十二歳。六年生よ」  世間で言えば、だ。 「じゃあ、先輩ね。学校は何処?」 「学校は行ってない。孤児で病気だから」  だから羨ましかった。自分は学校に行っていない。マクスウェルという心の病と、そのマクスウェルを利用した悪魔祓いの仕事があるからだ。 「ふ~ん。勉強出来ないなんて可哀そうに」 「でもグィネスが、家庭教師を雇ってくれてる。グィネス自身も心理学を教えてくれるし」 「心理学って何?」 「心の科学よ」 「心の科学…」  そこで突然、マクスウェルがマリアの口を乗っ取った。 「おいマリア、直ぐにグィネスの元に行け!」 「何?誰の声?」  マーサが混乱する。マリアの口から発せられているとは認識していないようだ。 「何か本に書いてあったの?」 「そうだ、重要な事が書いてある。すぐにグィネスに伝えないと!」 「霊に憑依されたのですか?」 「そうよ。今、マクスウェルが憑依中」  すると、マーサは悲鳴を上げて、部屋から出て行った。 「イルザ!勉強するから助けてー!」 「マリア、俺達もグィネスの元に急ごう」  暫くマーガレットの部屋で待っていると、ミニーに連れられた老婆が戻って来た。  マーガレットは部屋にグィネスの姿を見止めると、 「あら、またお客様かしら、また誰か結婚したの?」  と、聞いていた様な痴呆の老婆とは思えない、凛とした態度で言った。 「私は精神科医のグィネス・ロンド。宜しく」  グィネスは、老婆の穏やかな態度に対して失礼なほど撫し付けに自己紹介した。 「あら、フランクが呼んだのかしら。私の痴呆を診察しに来たのね?」  すると、グィネスは首を横に振って、 「違うわ、地下道から見つかったディッキーの遺体について話しがあって来たのよ」  老婆の顔が青ざめる。 「マーガレット、貴女は夢の悪魔に促されて、ディッキーを殺害したのね?遺体には、貴女の部屋にあったナイフと対のナイフが刺さっていたわ」  すると、老婆は、まず天敵の襲来に驚いた猿の様な顔に、それから天敵を威嚇する悪鬼の様な猿の顔に、そして天敵から逃げる怯えた猿の様な顔になると、床に崩れ落ちて跪いた。 「夢に操られたんだよ!本当は殺したくなんかなかった!」 「貴女が殺したのね?」 「本が悪いのよ!あの本はどうしたの?燃やしてちょうだい!」 「今、ラテン語が判る者に閲覧させています」  凍り付くマーガレット。  本は老婆の望み通り、半分焼けているが、それを隠して全て閲覧出来る状態にあると誤解させた方が、老婆が焼け焦げた閲覧不可能の部分について何か未知情報を知っていて、口を滑らせる可能性がある。 「ならもうばれちゃうんだろうねえ。悪魔の夢を見せたのが、夫の仕業だって。夫はね、長年私の不倫に気付いていて我慢の限界だったんだよ。だから、私に暗示を掛けて、ディッキーを殺させた。ただ信心深い夫は、殺人を仕組めば地獄に落ちると信じていた。私とディッキーは不倫の罪で元々地獄に落ちる。だが三人だけでは寂しいからと、ビリントン夫妻に自殺の暗示を掛けて、地獄に誘ったんだよ。あの夫妻は最後に魔法円の中で息絶えていたそうじゃないか。よほど悪魔の夢が怖かったのだろうね」  やはり、口を滑らせたか。催眠術の暗示は、本に記された自殺や殺人の方法を、偽悪魔が自由に実行するのではなく、術師の意志で行われるのか。と、すると…イングリットは。これは一つ老婆に確認しなければならない。だがまず、前回の交霊会の事件の方が先だ。 「つまり地獄に道連れにするために催眠術を悪用したのね」 「ただね、愛する私だけは殺せないと、自殺の暗示を掛けなかったんだよ。だから私は死ねなかったよ。ただディッキー殺害の実行犯として、いつ逮捕されるかとびくびくしながら生きて来るしかなかったんだ」 「もしかしてマーガレット、貴女は」 「痴呆じゃないよ。責任能力を問われた時のために演技していたのさ」 「では、あなたの話しに妄想や虚言は含まれてないのね?」 「真実だと誓うわ」 「それでは、ひとつ聞いて良い?術死は本の暗示に掛って、予め記されている内容の暗示を掛けるのではなく、自由に暗示を掛けられるのね?」  これを確認したくてうずうずしていた。 「そうだよ。術死は、丸薬は飲まないからね」 「じゃあ大変だわ。術死が本の暗示に掛っていないのなら、イングリットに憑依した悪魔は何だったの?」 「イングリットが悪魔に憑依されたのかい?」 「そう術死のイングリットが」 「答えは簡単。血は争えないねえ、演技だよ。悪魔に憑りつかれたというね」 マリアは塔の階段を駆け上がっていた。マクスウェルが、兎に角早くグィネスと話したい事があるというのだ。マーガレットの部屋まで来ると、体当たりする様に扉を開けた。 「グィネス居る?」  大声を出す。それに驚いたミニーが淹れていた紅茶のポットを落とす。 「どうしたの?マリア」 「マクスウェルが、グィネスに急用があるからって、走ってきたの。今、マクスウェルに代わるわ」  マリアがカタレプシーを起こして、妙にギクシャクした動きをする。そして、 「う~ん」  と呻くと、雄猿の顔に変わった。 「グィネス、フランクは全員の血液型について、何て言ってたかな。教えて欲しい」  グィネスが覚えている限り伝えると、 「なるほど、イーディとフランクの亡くなった奥さんがA型で、ほかはチャールズがAB型であるのみで、残るはO型か。チャールズは本当にAB型?」  マーガレットに訊いた。 「六年前に献血に行った時、AB型だと言われてたよ」 「それは癌を患う前?後?」 「後だね。医者の話しでは、七年前に癌を発病したのだと」  それがどうしたというのか。身体の弱いマリアに階段を駆け上がらせる程の理由はあるのか。そう問うと、マクスウェルは言った。  「このラテン語の赤い本だけどな、序盤をサラサラっと読んだら、術死は丸薬を飲まない事になっているぞ」  それは今、マーガレットから確認したばかりだ。既に既知情報である。それを伝えるために走って来たなら、マリアの運動は徒労に終わる。 「知っているわ。イングリットの憑依現象は演技よ。彼女は本の暗示に掛ってなんていない」   すると、マクスウェルは、知っていたのか、と自分の言動が無碍に無意味だったと知り、肩を落とした。 「つまり、イングリットは、本の命令でイーディ夫妻を殺害したのではなく、自分の意思で、後催眠を使って自殺させたんだ」 「わかってるわ。でも動機は何?」  イングリットとイーディ夫妻が、仲が悪かったとか、トラブルがあったとか、そういう話しは聞いていない。 「気付かないか?マーサだよ」 「マーサ?」  あの両親を一夜にして失った可哀そうな子の事? 「チャールズは七年前に癌を患った。だがマーサが生まれたのは六年前だ。おかしいじゃないか」 「何がおかしいの?」 「チャールズはAB型だった。だがマーサはO型だ」  そこでやっと気付いた。確かにおかしい。マーサは養子なのだろうか。 「確かに、おかしいわね。両親の内、片親にAB型がいると、O型の子は産まれて来ない筈よ」 「そうだろう?だが、もしかしたら、チャールズは癌になったせいで、A型からAB型に変わったのかもしれない。そういう症例があると聞いた事がある?」 「極稀に、そういう症例があると聞くわ」 「もし、そうだとしたら、本当はマーサが生まれたのは、八年前じゃないのかな。それならA型のチャールズとA型のイーディの間に、O型のマーサは生まれて来る」  確かに、その通りだ。だが何で、そんなさばを読ませるような事を? 「それにあのマーサという子は、勉強が出来るという理由で、本来なら小学一年生なのに、三年生に飛び級してる。だれかが六歳の時から、もう本来ならば一年生だからと、勉強を教えていたんじゃないかな」  今、本当は八歳だから、実際には飛び級ではないという事か。 「でも、何で、そんな二歳のさばを読ませる様な事をしたのかしら」 「イーディが大学を卒業するまで妊娠を隠す、否、妊娠してない事を周囲に悟られない様にするためだよ」  だが既に、その時、マーサは生まれていたという事か。そして、卒業してから妊娠したという事にした。だからさばを読ませたのだな。では、イーディは、本当の母親ではないという事になる。 「マーサの生まれた時、イーディは幾つ?」 「十九歳だ。学生だった。だから、世間体を考えて、二十一歳で卒業して結婚するまで、マーサは生まれていなかった事にしたのさ」  それで、マーサは二歳のさばをよまざるを得なかったのか。  予想の範疇の推理だ。グィネスの思った通りの回答だった。 「じゃあ、イーディはマーサの本当の母親ではないのね?一体誰の子なの?」  イーディでないとしたら、残るは一人だけだ。  マクスウェルは、その質問を待ってましたとばかりに、口角を僅かに吊り上げた。両目も吊り上がっていなければ、まるで仏のアルカイックスマイルだ。それ程、僅かに口角を吊り上げた。 「当時十五歳だったイングリットだよ」  やはり、そう推理するか。マクスウェルとグィネスは、毎度毎度悪魔憑き事件が起こる度に、その背景を推理している。おかげで、思考形態が似て来たのかもしれない。 「どうして、そう言えるの?」 「イングリットは、マリアにこう言っていた。姉の乳が出なくて、乳母をしていた事がある、とね」  それは未知情報だ。何時の間にそんな情報を仕入れたのか。 「十五歳の子が!?お、お乳が出たの?」 「そうだ、妊娠していたからだよ」 「父親は誰なの?」 「当時まだ十七歳だったチャールズだよ。でなければ、チャールズは殺されていない。イングリットは、チャールズとイーディが世間体を考えて、偽装結婚した後、嫉妬の炎に燃えたのさ」  姉に、子供を取られ、恋人も取られてしまった。  イングリットにとっては、その偽装結婚も恋人の裏切りに思えたかのかもしれない。  そう、これは二人への復讐だった。祖母の部屋の前で立ち聞きしながら、そう思った。マクスウェルの言う事は当たっている。  私は十三歳の時、十五歳だったチャールズと出会った。中学校が同じだったのだ。彼はサッカー部で、ピッチを走り回りながら、将来の夢を見る彼に一目ぼれしたのだ。将来の夢、それはサッカー選手になり、スコティッシュ・プレミアムシップに入る事だった。私はそれを応援していた。  だが悲劇は突然起こった。練習試合中、チャールズが靭帯を断裂したのだ。その練習試合の後には、全国試合を控えていた。  入院してしまったチャールズは、当然の様に選抜から外された。  だがこんな事でチャールズが負ける訳がない。そう信じていた。  私は毎日お見舞いに行った。愛している人の窮地を放って置けなかったからだ。  毎日、毎日、毎日、学校が終わる度にお見舞いに行って、彼を励ました。チャールズは正直、夢を挫折しそうになっていた。  私はそれが許せなかった。だから、毎日お見舞いに行っては彼を勇気づけたのだ。  その甲斐もあって、足が治ると、彼はサッカー部に復帰した。  そろそろ、高校受験を控える頃でもあった。  サッカーで有名な高校に進学するのが、彼の夢だった。  しかし、その高校への推薦は、教師から貰えなかった。靭帯の断裂による故障が、その原因だった。  彼は正直、勉強が得意な方ではなかった。だから、私は毎日彼の自宅に通っては、予習して来た三年生の教科を教えた。ちょっとした家庭教師だ。  その甲斐があって、推薦無しでも、彼は志望校に入学出来たのだ。  そうやって、何度も何度も、彼を支えて来た。何度も何度もだ。彼のためならどんな労力も厭わないつもりだった。  しかし、私と彼は、高校に入ってからミスを犯した。  私が妊娠したのだ。幸い、父親が誰かは、学校にバレなかった。彼はそのまま大学へ進学したが、私は高校を中退する事となった。大学に入ってからも、彼がサッカーを続けてくれていたのが、せめてもの救いだった。  しかし、時間を少し遡るが、私の方は苦境に立たされていた。  十五歳で母になるには早すぎると、父の判断で子供は取り上げられ、十九歳だった姉の子として育てる事になった。そして、父親が居ないのでは可哀想だからと、姉が大学を卒業すると、チャールズと姉は偽装結婚をしたのだ。  しかし半年後、私は聞いてしまった。姉の部屋の前で、行為に及んでいる二人の声を。この時は、妬み、恨んだ。  彼を、ずっと支えて来たのは私なのに。どんなに挫けそうになっても、諦めない様に、励まして来たのは私なのに!  なのに、姉に全部取られてしまったのだ。我が子も、愛する人も。  絶望感だけが、私を襲った。  具体的に犯意が及んだのは、偶然の重なり合いだった。  リチャードが本を見付け、英訳に挑んだ時だ。  私は、祖父の犯罪に気付いていた。だがそれは秘密にしていた。自分もそれを模倣しようと思ったからだ。  チャールズとイーディの幸せを崩壊させ、マーサを取り戻したかったのだ。  だがその完璧な筈の計画も、マクスウェルに見抜かれてしまった。  もうここには逃げ場がない。だからこうして、館を出る事にした。マーサを連れて。  さようなら、フランク、イルザ、リチャード、そして憎きグィネスと哀れなマリア・ヘイブン。そして御免なさい、チャールズ。  わたしは旅立ちます。 「イングリットを探しましょう。早く身柄を確保しないと」  グィネスが席を立つ。それも焦燥感に満ちた表情でだ。 「マリア、貴女も手伝って。私は皆に伝えてから探しに行くから」 「イングリットなら、部屋で寝てるんじゃないの?」  マクスウェルからマリアに戻った少女が、グィネスの焦燥感とは裏腹に、欠伸をしながら言う。 「呑気な子ね。イングリットは悪魔の演技をしている時、赤い本を持ち去ろうとしたわ。証拠を隠滅するために、処分しようとしたのよ。でもマクスウェルに捕まってしまった。そこで私に、殺人トリックを看破され、観念するしかない状況に追い込まれた。でもその後、マクスウェルが本を燃やそうとしたから、演技を続けたのよ。必死の意志でイングリットに戻った演技をして、そして本を燃やしたの。そこで彼女は意識を失ったわ。だけど、それも演技かもしれない。今頃赤い本が燃え残って誰かが訳してやしないか、探しているかもしれないわ」 「本ならここにある」 「それは私が預かって置くわ」  赤い本の燃え残りをグィネスに渡す。 「じゃあ、行きましょう。マリア」  そしてマーガレットに別れを告げると、塔を降った。 「私はフランクに事の真相を伝えに行くわ。ユノ―も彼の部屋に居る筈だから、イングリットの捜索を手伝うよう言っとく」  それを聞くと、マリアはフフンと鼻で笑って。 「イングリットはもう、この館には居ないかもね。館の中はグィネスに任せるわ。私はイングリットの部屋に寄ってから、彼女の荷物がるか確認して、無かったら外に彼女の車が在るか見に行くわ」  確かに、イングリットの姿をいちいち全ての部屋を巡って探すより、その方が効率的だ。 「じゃ、行ってくる」  マリアは小走りにイングリットの部屋に向かった。部屋は二階にあり、施錠されていなかった。そうっと扉を開く。 「イングリット?」  呼んでみたが返事は無い。ベッドの上もシーツがあるだけだ。クローゼットを開けてみた。  洋服の陰に隠れた旅行鞄は置きっぱなしになっている。 「荷物は置いて行ったのね。慌てて飛び出したのかしら」  マリアは窓から、庭を見下ろした。車もある。  まだ館の中に居るのかしら。  マーサの部屋はどうだろう。もしイングリットが逃走するなら、実の子であり、殺人の動機にもなった、可愛い我が子を連れて行くのではないか。  マリアはマーサの部屋に向かった。 「マーサ、居る?」  しかし返事は無い。まだ隠れん坊をしているのだろうか。施錠はされていない。部屋に入ると、クローゼットを覗いた。まだ冬なのに、コートやセーターが無い。イングリットのクローゼットも同じだった。 「やっぱり外出したわね」  その足で、マリアは玄関を出た。  車を使わず、コートを身にまとっているという事は、近場を目指しているという事か。  バス停だろうか。  そうおもった刹那、マクスウェルが口を借りて喋った。 「自殺だ。イングリットのクローゼットには財布があった。追い詰められて、マーサと共に自殺する気だ」 「どこで?」 「ここいらで、自殺に最適な徒歩で行ける場所と言ったら、岬の崖しかないだろ」  マリアは駆け出した。正直走るのはしんどい。しかし人の命が掛っている。偶には、誰かのために全力を出すのも良いだろう。  砦の周りを半周して、裏に回ると、崖っぷちに、二人は居た。  マリアの存在に気付いて、イングリットが警戒する。マーサを抱きしめたのだ。  やはり自殺する気だな、とマリアは思った。心中する覚悟でいるため、マーサを奪われたくない心理が、娘を抱きしめさせたのだろう。 「何してるの?」  マリアは惚けて訊いてみた。 「邪魔しないで!」  イングリットが、マーサを抱きしめたまま叫んで数歩後ずさる。その後ろは、空だ。その下は海になっている。 「ラテン語の本は解読したわ」 「知ってるわよ。立ち聞きしたから」 「だから死ぬの?」 「あのグィネスと、マクスウェルのせいよ。私達は自殺するのではなく、貴方達に追い詰められて、殺されるのよ」 「屁理屈ね。二人もの人間を催眠術で自殺に追い込んでおいて」 「姉は私の心を殺したわ。子供と恋人を奪われた私が、どんなに絶望したか判る?」 「私には心が無いの。だから判らない。でもそれじゃ、同類同志って事ね」 「貴女の心の問題なんか知らないわ」 「わたしの両親は、孤児院から私を引き取って育ててくれた。だけど、心を持たない私に辟易して、捨てたの。本物の両親と同じように」 「私は決して娘を捨てない」 「そうかしら、心中するのに、娘の命を塵程にも思ってないじゃない。捨てるのより酷い仕打ちだわ」 「何と言われようと、決心は変えないわ」 「じゃあどうぞ。さっさと飛び降りて」  イングリットが水面を見詰める。 「覚悟が出来ないの?」 「出来てるわよ」  そう言ったイングリットの声は震えていた。  そこに、グィネスとユノ―が駆け付けて来た。 「馬鹿な事を考えるのは止めなさい!」  グィネスが叫ぶ。  それに反応して、イングリットは後ずさった。その瞬間二人の姿が消えた。  その消える刹那、マリアはカタレプシーを起こしてマクスウェルと入れ替わっていた。マクスウェルが崖っぷちに向かって跳躍する。  伸ばした右手がイングリットの足を掠め、左手がマーサの腕を掴んだ。  イングリットが落下して行く。 「マーサ!離すなよ!」  マクスウェルが叫んだ。  しかしマーサは首を横に振ると言った。 「私ね、イングリットが本当の母親だって知ってたの。イーディから教えられてね。だからイングリットが大好きだった。でも、長い間イングリットを独りぼっちにして、随分寂しい思いをさせたわ。だから最後ぐらい、お母さんの傍に居てあげたいの」 「何を言ってる!絶対に手を離すなよ!」  すると、マーサはマクスウェルの腕に噛みついた。  マクスウェルが悲鳴を上げ、力が緩む。そしてマーサの腕が、すり抜けて行った。 「愛してるの、お母さんの事を」  落下して行くマーサはそう言って、落ちて行った。 「マーサアアアア!」  マクスウェルは、泣いていた。助けられなかった。自分の無力さに打ちひしがれて、マクスウェルは立ち上がれなかった。 「ああ、何て事なの!」  グィネスも、その場に崩れ落ちる。  その傍らで、ユノ―も泣きながら十字を切っていた。  そのまま暫く、虚無感が三人を包んだ。  しかし。突然そこに呼び声が聞こえた。 「おーい。おーい」  フロッガー刑事の声だ。 崖下から聞こえて来る。  マクスウェルは崖下を覗き込んだ。グィネスとユノ―もだ。  すると、そこには浅瀬に浮かぶレスキューのゴムボートが浮いていた。昨日から、溺れてしまったかもしれない、もう一人の人物を探していた内の一隻だ。  操縦桿を握っているのは、フロッガー刑事だった。それにレスキュー隊員が二人、そしてなんと、飛び降りた筈のイングリットとマーサも、ゴムのボートの上に倒れていた。  フロッガーは崖下に僅かにある浜辺にボートを停泊させた。そして岬の横の小道を登って来る。 「イングリットとマーサの様子は?」  グィネスが焦燥感を隠さずに訊いた。 「大丈夫。失神しているだけだよ」  それを聞くと、胸を撫で下ろした。 「良く、上手い事、ボートの上に落ちたな」  ユノ―が神の奇跡だと言わんばかりに十字を切る。 「崖下の海面から、飛び降りようとしているのが見えたんだよ。だからクッションになるために、下で待機していた」  まだもう一人の溺れているかもしれない誰かの捜索を続けていたのだと云う。すると、イングリットの叫び声が聞こえて、これから自殺しそうな、まずい状況に気が付いたのだと云う。 「レスキュー隊員が、二人の様子を看ているが、すぐに救急車を呼ぼう」  フロッガーが無線で救急車を寄越すよう連絡する。 「良かった、本当に良かった…」  マクスウェルは、今度は安堵から泣いていた。  二台の救急車が着くと、レスキュー隊員に負ぶされて小道を上がって来た二人は、意識喪失のまま搬送されて行った。 「これで事件は解決かな」  ユノ―が溜息を吐いた。 「解決?どういう意味だい」  何も知らないフロッガーが訝しむ。 「いえ、まだ最後の謎が残っているわ」 「最後の謎?」  マリアに戻った少女に、ユノ―が訊く。 「判らない?」  ユノ―は暫く、彫刻の考える人の様な難しい表情で黙考していたが、ハッとなって言った。 「あの本が書かれた目的だな」 「処分する前に、解明しましょう」  マリアは、そう言って微笑んだ。 「君も笑う事があるんだな」 「だって、謎解きは楽しいもの」 「同感ね」  グィネスも微笑む。  まるで、その二人の姿は母子の様だった。 翌日、ロンドンに帰ったグィネス達三人は、迷宮心理病院の前で、ユノ―と別れた。長旅に疲れたマリアは、すぐにシャワーを浴びると、自分の病室に戻り、就寝した。グィネスは、カーライルの館に電話をすると、リチャードから、ユアンが赤い本を譲り受けたという貴族の名前を聞き出した。  マイケル・ボウ・フラウ。それが貴族の名前だった。電話帳で調べると、住所はロンドンになっている。今日はまだ日曜だ、外来は無い。一度そのフラウ卿から話しを訊きたい。  それをマリアに伝えると、自分も付いて行くという。グィネスはフラウ卿にアポイントメントを取ると、その日の夕方に、会う事になった。  ロンドン郊外のフラウ卿の館には、グィネスの車で、マリアと二人して向かった。  館に着くと、ひげを蓄えた花柄のワイシャツの男が出迎えた。車を降りると、 「あ~らいらっしゃい、待ってたわよ」  と握手を求めるグィネスの頬に無理やりキスをした。 「そっちのおちびちゃんも、唇が欲しい?」 「おちびちゃんじゃなくてマリア。キスはいらないわ」  すると男は不機嫌になり、 「あらそう、生意気な娘さんね」  と、機嫌の悪い猫の様な顔をした。  娘ではない、と否定しようとしたが、今日の二人は白衣ではない。私服だ。母子に見えてもしょうがあるまい。  それよりも、グィネス達が会いたいのは、と思っていると、まるで心を見透かした様に、 「私が、フラウ卿よ、よろしくね」  と挨拶された。 「さあ、中に入って。グィネス。紅茶の用意があるわ」  と館に入っていく。  その背中を見送ると、 「おネエじゃん」  とマリアが呟いた。    館のテラスで紅茶を飲みながら、フラウ卿が話す。 「ユアンとは、昔から懇意でね。珍しい本が在ると、買い取ったりしていたのよ」 「ユアンがアッピンの赤い本を探していると知ったのは何時頃?」 「出会った頃から話しに聞いていたわ」 「あなたがユアンに譲ったのよね」 「そう、ベルギーで古書店を開く知り合いから、表紙が真っ赤の刻印の何もない本を手に入れたけど、例のユアンとかいう知り合いが探している本じゃないのか、と連絡があったの。それで直ぐに送って貰ったわ」 「中身は読んだ?」 「何語だか解らない文章だったわね」  グィネスは紅茶を啜って、 「私達は、あの本を書いた人物を探してるのよ。一体何のために書いたのか知りたくて」 「あの本に何か因縁があるの?」  グィネスは、手短に、悪魔憑き事件を語った。 「本の中に悪魔が宿っているのね!何て素敵な本!ユアンに譲るんじゃなかったわ」 「素敵も何も死者が出ているのよ?」  するとフラウ卿はブルルと震えて、 「今夜は悪夢に魘されそうだわ。お酒が必要ね」  フラウ卿からは、これ以上引き出せる情報はなさそうだ。では次は誰に話しを訊くべきか。この本は人から人の手に渡ってユアンの元にやって来た。なら、ユアンの本の入手経路を遡って行けば、いずれ書いた張本人に辿り着くかもしれない。 「あの本を譲ってくれたのは、ベルギーの…」 「ジッタ兄弟よ。ジッタの店という古書店を経営しているの。気さくな二人組」 「住所は判る?」 「最近店を移転する予定だと言っていたわ。蔵書が多くて、店が手狭になったのよ。その新しい住所は知らないわ」  これは、手間がかかるかもしれない。だが古い住所が判れば、近隣に新住所を知っている輩も居るかもしれない。 「古い住所で良いわ、教えてくれない?」 「ベルギーまで行くの?」  フラウ卿は大きく目を見開いて驚いた。 「よっぽど、その本に御執心なのね」  そう言って、部屋にメモを取りに行き、住所を走り書きする。それをグィネスに渡すと、 「本には本当に悪魔が宿っていて、憑りつかれたんじゃないの?」 「御忠告ありがとう、フラウ卿」  メモを受け取ると、グィネスは立ち上がった。マリアもそれに続く。 「可愛いお嬢ちゃん、最後までキスはさせてくれないの?」  マリアはうへえと呟いた後、 「遠慮しときます」  と突っぱねた。 「私で我慢して」  グィネスが、申し出る。 「じゃ、さよならのキスよ」  フラウ卿は軽く、グィネスの頬に唇を当てた。  グィネスとマリアは車に戻ると、相談した。  ベルギーには、いつ旅立つかをだ。 「病院には、他にも医師が居るから、休みは取れるわ」 「じゃ、一旦荷物を纏めに行きましょ。鉄は熱いうちに打て、よ」  マリアの言う通りだ。赤い本の著者を求める情動が熱い内に向かった方が良いだろう。 「じゃ、今夜は列車のなかね」 「私も付いて行くから」 「頼もしいわ」  実際、マクスウェルが一緒なら心強い。 「マクスウェルと女三人旅ね」  そう言って、グィネスはエンジンを掛けた。  ベルギーに向かう列車は、寝台車を選んだ。夕方、食堂車でケバブを食べると、寝台車に戻って、それぞれの寝台に潜り込んだ。グィネスは一段目、その上がマリアの寝台だった。 「ねえ」  と、ぶっきらぼうにマリアの声がした。私を呼んでいるのか。 「何?マリア」 「マーサにはそれでも母親が居てくれて良い」  とマリアの震える声がした。 「マーサが落ちる時の言葉が頭から離れない。親子って何なの?」 「大切な絆の事よ」 「でも私は二度も捨てられた。絆なんて信じられない」  マリアの声の震えが一層強くなる。泣いているのか。 「イングリットがもう少し、大人になってから、マーサを産んでいれば、マーサもチャールズもイングリットも、幸せな家族になれたのにね」 「そうね。でも歴史にもしはないわ。可哀想だけど、あの結末が、あの親子の運命なのよ」 「マーサには幸せになって欲しかった」  両親の居なくなったマーサを、自分と重ね合わせているのか。 「家族が…欲しいの?マリア」  するとマリアは黙り込んでしまった。グィネスは言ってから、しまった、と思った。聞いてはいけない質問だったのかもしれない。  すると、声が震える程度だった鳴き声が号泣に変わった。これはまずい。情緒が乱れている。周りの客にも迷惑を掛けてしまう。 「マリア、マリア」  慌てながら呼んだ。 「降りて来なさい。私のベッドに入って」  すると鳴き声が小さくなった。  どれだけ時間が過ぎただろう。鳴き声が漸く聞こえなくなると、マリアが降りて来た。そして、カーテンをゆっくりと開ける。 「来なさい」  毛布を捲りながら、寝台の奥に身体を寄せてスペースを作る。まだ幼い少女は、真っ赤に晴れた両目を涙で濡らしながら、寝台に入って来た。  グィネスは、その華奢な身体を抱きしめながら、 「さっきは、変な質問してごめんなさい」  と謝った。  少女は何も応えずに、グィネスの胸に顔を埋めた。 「ねえグィネス、私の本当の両親ってどうなったの?」  幼いころの記憶を辿っても、孤児院までの記憶までしか思い出せない。  そう訊かれて、グィネスは逡巡した。 「知ってるんでしょ?」  確かに知っている。だが話すべきではないだろう。 「教えてくれないの?」  教えるには、まだ早すぎる。せめてマリアが成人してからでないと。  するとマリアは、悔しそうに歯ぎしりした。 「お母さんに会いたい。大人になったら会わせてくれる?」  それは出来ない。マリアの母親はもう…。 「ねえ、グィネス!応えて!私はお母さんに会えるの会えないの?」 「この話しは止めましょう」 「どうして!ちゃんと良い子にするから!御飯も残さずに食べるし、皿洗いも手伝うし、洗濯物も手伝うから!病室の片付けも毎日する!だから教えて!」  そんな約束をされても、話す訳にはいかない。 「それは、無理よ。無理なの。話せない」  するとマリアは、グィネスの胸から顔を上げて、 「…死んだのね」  絶望的な顔をした。  グィネスは天を仰いだ。どうか、この子の心を御救い下さい。イエス様。 「どうして死んだの?」  グィネスは全身の力が抜けていくのを感じた。 「不治の病だったのよ。それでも、子供を産みたいといって、私生児の貴女を産んだの。でも死期が近付くと、それを悟って、貴女を孤児院に入れたの」  マリアの瞳はグィネスの瞳を真っ直ぐに見ていた。こんな事、まだ十二歳の少女に伝える事ではない。自分は、大変な過ちを犯している。  少女は硬直したまま動かない。ただ、瞳から、つうっと雫が伝った。  そして、無表情のまま言った。 「ありがとう、グィネス。話してくれて」  そしてもぞもぞと寝台を出ると、梯子を上って、自分の寝台に戻って行った。  その日、グィネスは一睡も出来なかった。  ベルギーの首都に着くと、まずタクシー乗り場に向かった。そして立ち話しをしていた運転手達に、 「ジッタの店はしってるか」  ときいたが、 「あそこなら閉店したよ」 「いや移転だろ」  と議論になった。  だがだれも新しい店の名前は知らなかった。  これでは目的地が判らない。タクシーは諦めて、ジッタの店の旧番地のある、◯◯までタクシーで向かった。到着した頃には日が暮れかけていた。旧番地に着くと、そこはキャリットの店という古書店に変わっていた。  ガラス張りの店内を外から望むと、店の女主人が、レジで読書している。 「取り敢えず入ってみましょう」  二人は、入り口の扉を開いて入店する。カランと扉のベルが鳴ると、女主人が顔を上げた。 「いらっしゃい」 「ちょっとお訊ねしたい事があるのですが…」  グィネスがジッタの店について訊いてる間、マリアは絵本のコーナーを物色していた。 「アキレスと亀」 「子猫とパラドックス」 「パズルと熊太郎」  どうも、並んでいるレパートリーを見ると、ここには知育本しか置いてないようだ。マリアは正直がっかりした。 「ゾウのミッキー」  が置いてないからだ。 「そうですか、大変失礼しました」  グィネスの礼が聞こえた。話しは終わった様だ。何か収穫はあったのだろうか。 「出ましょう、マリア」  店外に出ると、 「キャリットさんは、この街に越して来たばかりだから、ジッタの事は知らないって。昔から住んでる方に訊いた方が、判るんじゃないかと言われたわ」 「他の古書店を当たってみるのね?」 「そうするしかないわね」 まあ、何だ。初っ端が空振りだっただけだ。次にグィネス達二人は、向かいの古書店に向かった。看板の文字の焼け具合から見ると、築十年って所だろうか。南国堂とかいてある。  二人は、木製の自動ドアを抜けると店内に入った。主人は、五十代の眼鏡の紳士だ。  さっそくグィネスがジッタの店について訊く。 「ジッタ兄弟とは、十年来の顔見知りだよ。つい最近、店を移転しちゃったけどね。蔵書が多すぎて、手狭になったんで、郊外の大型店舗に移ったんだよ。なんでも、図書館みたいな店だと聞いたよ」 「行った事は無いの?」 「ああ、場所は知らない。人伝に聞いたんだ」 「それは誰?」 「隣の店の主人のリンだよ」  すると、グィネスは、ありがとう、と礼を言って踵を返した。  しかし気付くとマリアが居ない。店内を探すと、絵本のコーナーを物色していた。 「行きましょう、マリア。隣の店の主人が、ジッタの店を知っているわ」  しかし、マリアは動かない。 「ゾウのミッキーが無いの」  そう言ってベソをかいた。 「ゾウのミッキーって何?」 「絵本よ」 「行きましょうマリア、絵本なら後で買ってあげるわ」  マリアの腕を掴んで、店外に向かう。  その時、微かに「お母さん」とマリアが呟いたが、グィネスはそれを聞き逃した。  隣の店は、如何にも昔ながらの古書店といった感じの古ぼけた店舗だった。軒先の幌を潜ると、開けっ放しの入り口から入店した。店内は暗かった。暗がりのレジには、置物の人形があるだけで、人は居ない…と錯誤をおこしかけた。だがよく見ると、それは人形の様に動かない、年老いた店主であると判った。 「あの…」  声を掛けると、微かに店主が動いた。鼻の上の眼鏡がずり落ちたから、やはり微かに動いている。  返事を待って見詰めていると、十秒ほど経ってから、 「なんだね」  と口を開いた。 「ちょっとお伺いしたい事があるんです」  こんどは五秒で返事があった。 「客なのかね」  客じゃ無ければ話す事は無い、という意味だろうか。  そう察して、グィネスは、マリアに言った。 「マリア、何か好きな本を選びなさい。買ってあげるわ」  するとマリアは、 「この店は絵本を扱ってないわ」  としょ気た顔で言った。  なら仕方がないと、グィネスは手近にあったポーの「黒猫」を手にすると、 「これを買うわ」  とユーロをだした。  店主はそれを丁寧に梱包すると、おつりと一緒に寄越した。 「何か訊きたい事があるんじゃないのかね」  まさにその通りだ。 「質問に答えてもらえるのね。ありがとう」 「こちらこそ、まいどありだよ」 「ジッタの店を探しているのよ」  すると、店主はメモ帳を破って、住所を走り書きした。 「ここだよ」 「これが、ジッタの店の住所なのね?」  店主は黙って頷いた。 「ありがとう。本当に助かるわ」 「まいどあり」  店主はそう応えた。  用が済んだら出て行ってくれと言わんばかりだ。  それを察したグィネスは、マリアを連れて外に出た。 「タクシーを探しましょう」  大通りに出ると、直ぐにタクシーは捕まった。  後部座席に乗り込むと、住所のメモを見せる。  運ちゃんはOKと言うと、車を発進させた。  すっかり夜の帷が降りた街並みは、紫色に染まっていた。 「ジッタの新しい店に、絵本のコーナーあるかなあ」  窓から流れ行く景色を眺めながら、マリアが呟いた。 「ゾウのミッキー?」 「そう、確か、ゾウのミッキーだとおもった」 「何か思い入れのある本なの?」  するとマリアは窓から視線を足元に落として、 「昨日ね、私、一睡も出来なかったの」  グィネスと同じだ。 「お母さんの事を考えていたのね」 「うん、それでね、どんな人だったのか一生懸命思い出そうとしたの。そしたらね、一つだけ記憶があったの」 「お母さんの記憶?」 「うん。ベッドで一緒に横になって、お母さんが絵本を読んでくれる夢。とっても温かくて、優し思い出なの」  母親の温もりを身体が覚えているのだろう。 「その絵本の題名がゾウのミッキーなの?」 「そう、たぶん、そんな名前のゾウの話し」  するとグィネスは、判ったわ。と笑顔で、真っ直ぐにマリアを見詰め、 「探しましょう。その絵本を」 「買ってくれるの?」 「ええ、見付けたらね」 「グィネス!」  マリアはグィネスの肩に抱き着いて泣いた。  その絵本から母親に関する個人的無意識の潜在記憶が蘇るかもしれない。今の、この子にとっては、その記憶と向き合い、母親への渇望を克服する事が必要かもしれない。  暫くそうしていると、運転手が車を停めた。 「着きましたよ」  料金を払って、車を降りると、ドーム状の図書館みたいな建物の前に居た。  ここがジッタの新しい店か。看板には「古書の眠る蒼い星座」と書かれている。  ドームの内側は、プラネタリウムなのだろうか。 店に入ってみる。すると立ち並ぶ書架の頭上には、ブルーのLEDの中に、キラキラと星座を模った黄色のLEDが輝いていた。暫く頭上にだけ見惚れていたが、 「いらっしゃ」  と声を掛けられ我に返った。  見ると、禿頭の小柄な紳士がレジから此方に笑顔を送っている。 「貴男がジッタ?」  名前を言われて、少し驚いた様子だった。どうやらジッタであるらしい。 「いきなり訪ねて来て御免なさい。少し訊きたい事があるの」 「何だい?何でも聞いて良いとも。特に本の事ならね」 「その本の事なの。貴方、イギリスのフラウ卿と懇意で、以前真っ赤な刻印の何もない本を贈らなかった?」 「フラウ卿なら確かに懇意だが、贈った本は山ほどあるからねえ。それにフラウ卿は新刊本よりも古書を好むんだ」  周囲を見回す。確かにここの書架に並べられた本達はまだ綺麗で、古書には見えない。 「ここは新刊を扱うフロアだからね。地下一階が古書のフロアだよ。そっちの担当に訊いた方が詳しいかもしれない」 「そうなのね。地下へは何処から行けば良い?」 「奥の階段」 「案内ありがとう。地下の担当に訊いてみるわ」  グィネスは、まだ星座に見惚れているマリアをつつくと、地下へ行こうと促した。  怪談は薄暗かった。ステップを踏み外さない様に、ゆっくりと降りる。  すると、下から誰かが上がって来た。  禿頭の紳士、ジッタだった。 「ひゃあ」  グィネスは驚いて悲鳴を上げた。  するとジッタが言った。 「双子だよ。兄弟で経営しているんだ」  マリアがクスクスと笑う。グィネスの驚きっぷりが面白かったのだろう。 「兄さんも人が悪い。その事を伝えないなんて」 「驚いたりして、失礼したわ。貴男が古書担当のジッタさんね」 「そうだよ、何か用かい?」  グィネスは一息置いてから、 「フラウ卿の事は知ってる?」 「懇意にしてるお客様だね。というより友人に近い」 「そのフラウ卿に、真っ赤な刻印も何も無い表紙の本を贈らなかった?」  弟ジッタは、暫く考えた後、 「ああ」  と思い出した様な声を上げた。 「階段で長話も何だから、事務所に移ろう」  案内されて、地階のレジの奥にある事務所に連れて行かれた。  そして応接セットに座ると、 「あの本は、手書きだったし、日記みたいな本だったから、ただでフラウ卿に贈ったんだよ。卿は珍しい本が好きだからね。一体何の本なのやら」 「あの本のせいで、大勢の人が落命したのよ」 「どういう事だい」  グィネスは、簡潔に悪魔憑き事件の話しをした。本の正体が、催眠術の実践の内容である事も。  すると、弟ジッタは目を魚の様に真ん丸にして驚いて、 「何て事だ!」  と叫んだ。 「恐ろしいことよね」  グィネスが共感したつもりで言うと、 「何て貴重な本を、ただで譲ってしまったんだ!」  と後悔の表情をした。 「えっ、貴重な本?」  グィネスとマリアが、同時に声を上げる。 「そうだとも。そんな貴重な本は聞いた事がない。博物館行きの本だよ」  グィネスは戸惑いつつ、 「それは、そうかもしれないけど…」  と判ったふりをしてから、 「死者が出ているのよ?」  と咎める様に睨んだ。 「だからこそ博物館行きの本だと言ったんだ。呪いの本じゃないか」  その奇矯な考え方に呆れて物も言えないグィネスは、一時茫然とした。  しかし、聞かなければいけない事が在るのを思い出して、 「あの本の著者は判る?」  と単刀直入に訊くと、意外な言葉が返って来た。 「カール・グスタフ・ユングだろ?中に署名があったよ」 「ユングですって?!」  まさかユングが、あんな本を書くはずがない。  しかしそこで、グィネスの瞬間的理論が仮設を生んだ。 「もしかして、それって赤の書の事?」 「ユングの赤の書は有名だな」  赤の書とはユングの日記の事だ。 「文章はラテン語だった?それともドイツ語?」 「ドイツ語だった」  そして天を仰いで失望した。 「ああ、何て事なの!ユアンが手に入れた本というのは、赤の書の写本か何かだったのよ!」 「きみが追っている本とは違うのかい?」 「振り出しに戻ったわ。じゃあ、あのアッピンの赤い本は誰が書いたのかしら」 「アッピンの赤い本か、大変な本の著者を探しているな。だがアッピンの赤い本の作者なら、悪魔バールだと聞いた事があるぞ」 「悪魔は実在しないわ。でも本は実在した。そこが問題なのよ」 「では偽典アッピンの赤い本という事になるんじゃないかね」 「そうなるわね。誰かがアッピンの赤い本を偽造したのよ」  そのまま二人は沈黙した。二人?マリアが足りない。話しに夢中になっている間に、何処かに行ってしまった様だ。 「あら、マリアったら、どこに行ったのかしら」  グィネスは立ち上がると、 「ちょっと連れを探して来ます」  と事務所を出た。  地階のフロアをウロウロしていると、絵本のコーナーで、マリアが一冊の本を抱きしめて泣いていた。 「どうしたのマリア」 「有ったの」  そう言って、抱いていた本の表紙を此方に向ける。  ゾウのミッキー  そう書かれて居た。 「見付けたのね」  思わず、微笑む。偽典アッピンの赤い本の事など忘れて、嬉しかった。  これで、この子は母親の潜在記憶を引き出して、問題と向き合う事が出来るかもしれない。この子の心が救われるかもしれないのだ。ああ、イエス様、奇跡を有難う。  この子が母親の愛を思い出す事が出来れば、この子自身にも愛という感覚が生まれるだろう。そうすれば、治療は一歩前進だ。 「良かったわね、マリア」 「何か買うのかい」  弟ジッタが、何時の間にか背後に居た。 「この絵本を買うわ」  グィネスが絵本を受け取り、レジに持って行く。  本を購入すると、赤の書の情報を有難うと礼を言い、店を後にした。 「今夜はどうするの?また寝台車?」  大事そうに絵本の入った袋を抱えるマリアが訊く。 「そうね、今夜はゆっくり休みたいわ。ホテルを探しましょう」 「駅前に戻れば、きっとホテルがあるよ」 「歩きましょうか」 「偶には良いかも」  そう言って二人は駅前に向かった。 ホテルはツインの相部屋を取った。部屋に入ると直ぐに、マリアはシャワーを浴びに行った。歩いたせいで汗をかいたのだという。  グィネスは、その間にイギリスに電話を掛けていた。相手はカーライル家のリチャードだ。 「もしもし、リチャード」 「そも声はグィネスだね。本の著者は判ったのかい」 「その件についてだけれども、私達が追っていたのは、アッピンの赤い本ではなかったわ」 「どういう事なんだい。ユアンは貴族からアッピンの赤い本を譲ってもらったんだろ?」 「それが違ったのよ。譲ってもらったのはユングの赤の書の写本だったの」 「じゃあ、あの悪魔憑き事件を起こした赤い本は、何処からやって来たんだい」 「それについては、私の直感が囁いているわ。ある一つの可能性をね」 「可能性?」 「それが正解かどうか、確かめたいの。そこで、私達がイギリスに戻るまでに、お願いしたい事があるのよ」 「良いとも。何でも引き受けるよ」 「まず、ユアンの日誌の様な物が無いか、遺品から探して欲しい」 「お安い御用だ。確かあったと思ったよ」 「それと、心理学や医学についての、特にフロイト、ジャン・マルタン・シャルコー、ベルネーム、エミール・クーエに関する本が遺品の蔵書に無いか探してみて欲しいの」 「メモするから、ちょっと待ってくれ。フロイトにシャルコー、ベルネームにクーエだね。OK。メモを取った。探してみるよ」 「忙しい所を本当に御免なさいね。でも、それで謎が解けるかもしれないの」 「構わないよ。任しといて」 「じゃ、要件はそれだけ」 「気を付けて帰って来てね」 「有難う、リチャード」 「それじゃあまた」  通話を切った。  もし、直感の囁きが当たっていれば、赤い本の著者は彼しかいない。そして、その直感は間違いない筈だ。そんな自信があった。  そこにマリアがバスから出て来た。 「グィネスもシャワー浴びて。浴びたら、お願いしたい事が在るの」 「お願い?」 「うん。絵本をね、読んで欲しいの」  何だ、そんな簡易な事か、今、リチャードに託したグィネスのお願いからしたら、同じお願いでも、労力に雲泥の差がある。 「いいわよ。読んであげる。じゃ、シャワーに行って来るわ」  シャワーから出ると、マリアはグィネスのベッドに潜り込んでいた。 「悪戯っ子ね。自分のベッドに戻りなさい」 「違うの、昨日思い出した記憶ってね、お母さんと同じベッドで、二人で並んで、絵本を読んでもらう記憶なの。それをグィネスに再現して欲しいのよ。そうすれば、自由連想法みたいに、次から次へと、お母さんの記憶を思い出すかもしれないわ」  ちょっとグィネスは勘違いしていた様だ。ただ私に甘えて絵本を読んで欲しいのではなく、精神分析的やりかたで、個人的無意識から潜在記憶を引き出そうとする試みだったのか。 「わかった。やりましょう」  グィネスはベッドに入ると、先に寝ていたマリアの横に並んだ。そしてマリアが抱いていた絵本を受け取り、二人に見える様開くと、読み始めた。  絵本は十五分程で終わった。 「何かお母さんの記憶をおもいだした?」 「うん、沢山。一緒に公園を歩いた事や、登山に行った事、海で泳いだ事、手作りの離乳食の事も。全部幼少期の記憶」 「そう、ではお母さんがどんな人だったか判ったのね?」 「うん」 「では、一晩かけて、何故その記憶が抑圧されていたのか考えなさい」  すると、マリアは首を横に振った。 「もう判ってるわ。昨日、お母さんが不治の病だったと聞かされるまで、私は自分が捨てられたんだと思い込んでいたからよ」 「今はどう思うの?」 「お母さんは、私を孤児院に託したんだって思う。自分の代わりに育てて欲しいって。そして、それは順調に行ってた。養子にしたいという養父母も現れたし。でも何故か私は病気になっちゃった。二重人格に」 「どうして二重人格になったと思う?」 「判らないわ」 「そう、判ったわ。これからの方針がね。何故、養父母の元で、もう一つの人格が生まれたのか、ね」  マリアは、瞳から雫を伝わせた。 「何で、あんなに優しい養父母の元で、あんなに野蛮な人格が生まれたんだろう」 「イギリスに帰ったら、そこを分析してみましょう」 「今日はここまで?」 「ええ、あすは朝早くに飛行機で帰るわ。もう寝ましょう」 「うん、判ったわ」  そう言うと、マリアは自分のベッドに戻った。 「電気を消すわよ」  そう言って、グィネスは、ランプのチェーンを引いた。  ※   ※  どれくらい眠っただろうか。 「グィネス、グィネス」  囁くように呼ばれて、目が覚めた。  声の方を見遣ると、マリアが此方を見ている。しかし声はマクスウェルだ。 「野蛮な人格の俺だよ」  グィネスは、こんな夜中に何の用なのかと、眉根を寄せた。 「俺が生まれた理由を知りたいか?」  そう言われて、グィネスは目を丸くした。今まで起源の判らなかった人格が、自分でその起源を説明すると云うのか。 「昨日、お前がマリアの母親が死んだと告知しちまったせいで、もう隠せなくなった。いずれお前達は、俺の起源に辿り着くだろう」 「だから自分で説明すると言うのね?」 「その通りだ。そもそも、この子は、母親の死を知らなかった。だから孤児院で育ちながらも、いつか母親が迎えに来てくれる、と信じていたんだ。だが十歳の時に、養子に欲しいという養父母が現れた。それまで養父母は、養子を探すために、何度も孤児院を訪れていて、マリアも、その人柄の良さは良く知っていた。だからマリアを養子に欲しいと、言われた時、この子は非常に悩んだんだ。いつか母親が迎えに来ると信じたい、でも養父母の娘になるのも悪くない。マリアにとって、養父母は理想の両親だったからな。母親は迎えに来ると信じているのに、一向に音沙汰がない。だから結局、養子になる道を選んだんだ。だがそれは、この子の中に葛藤を生み出す試練でもあった。この子は養子に成ってから、ずっと苛まれていた。自分は母親を裏切ったのではないかと。その葛藤は日増しに膨れて行った。その葛藤は荒んだ暗く遣り切れない思いを生んだ。だが人の良い養父母の前では、その思いは抑圧しなければいけない」 「その抑圧された思いが、貴女なのね?」 「そう、この野蛮で、荒んだ暗い、女だよ」 「だけど、母親は死んでいたと知った今、その裏切ったのではないかという思いは薄れつつある。そうでしょう」 「その通りだ。だから俺は、もう直ぐ消える」  グィネスは思わず涙した。やっとこの子を、病気から、また病院から解放出来る。 「後の事は頼んだぞ、グィネス。俺が憑依するのは、これが最後だ。じゃあな、さよなら、グィネス」  そう言うと、マリアは目を閉じた。 「マクスウェル…」  今まで、幾多の偽悪魔憑き事件を、悪魔のフリをしたマクスウェルと解決して来た。  その思い出が走馬灯の様に蘇る。 「もう、貴女は居ないのね。何処にも…」  グィネスは泣きながら眠りへと誘われて行った。  イギリスに到着すると、その足でハイランドに向かい、館を目指した。到着すると、二人はリチャードにユアンの部屋に通された。そして、 「探し物は見付けておいたよ」  とユアンの日誌を見せてもらった。 「赤の書を手に入れてから心理学に興味を抱いて行ったのが判る。ユングだけではなく、その師匠のフロイトも読んでいるわね。フロイトの催眠治療に興味をもっていたようだわ。そこからは、ジャン・マルタン・シャルコーや、ベルネーム、エミール・クーエにも興味を覚えてる。ともに催眠術を治療に生かした先達ね」 「確かに、その人物達に関する本が、こんなにあったよ」  机の上は、その本の山で埋め尽くされていた。 「真相はこうじゃないかしら。あの赤い本を書いたのは、ユアンなのよ。殺人計画のために、書いたの。尤もらしくラテン語で書いて、アッピンの赤い本だと豪語して交霊会を開いたのよ」 「バールが書いたんじゃないのね」  マリアが、少しがっかりした風に言った。 「悪魔は存在しないわ」 「存在する方がロマンがあるのに」 「私が教えた心理学を忘れたの?マリア」 「覚えていますよ、グィネス先生」  そうして、二人は微笑みあった。      ※   ※  それにしても悪知恵の働く婆さんだ。フロッガー刑事は辟易していた。  グィネス・ロンド医師からは、マーガレット・カーライルは痴呆ではない、と聞いている。グィネスが、今回のややこしい催眠術犯罪について追及した際、ディッキーを殺害したと自白したマーガレットは、責任能力を追及された時に備えて、痴呆の演技をしていた、と証言したというのだ。  余談だが、孫のイングリットも、悪魔憑きによる犯罪に見せかけるために、悪魔に憑かれた演技をしていたという。グィネスは、ただ単に偽悪魔の演技をして、スケーブゴートにしようとしていたのだろう、と推知しているが。フロッガーから見れば、これは実に上手い手で、この演技による偽悪魔は、警察の目を誤魔化すスケーブゴートにもなるし、仮に逮捕された際は、責任能力追及をかわす良い手段となる。  まったく、カーライル家の血筋なのだろうか。狡猾な女が多い。イングリットといい、あの婆さんといい。  兎に角、まずは弁護士に責任能力鑑定を行われる前に、聴取出来る所までやっておかないと。  ディッキーを刺殺したマーガレットは、その後、遺体を壁に埋めている。これは自分の犯罪を隠蔽するための行為だ。自分がディッキーに取った行為が、例え催眠術に操られて殺害したとはいえ、術から覚めた後は法に触れると判っていたという事ではないだろうか。それなら、この遺体を壁に埋めるという行為は、責任能力のある理性的行動だ。そこを突いてみるか。  否、待てよ、遺体を埋める所までが催眠術の指令だったと言い返されたら反論出来ない。  実際、ディッキーの日誌には、殺害されたと思われる前日に、ナトリウムランプを買って来いと頼まれたと記述がある。誰に頼まれたのかは判らない。この犯罪の黒幕ユアンかもしれないし、実行犯のマーガレットかもしれない。  しかし、ここでマーガレットが自分がディッキーに頼んだんあと証言すれば、催眠術は数日間に渡ってマーガレットを支配していた可能性もあると、マーガレットや弁護士から出て来るだろう。そうなると、その期間だが、殺害前日の買い物を頼んだ日から、遺体を埋め終わるまでだ、と向こうは訴えるに違いない。  そうなると、遺体を埋めた行為は、理性的な行為とは言えない、催眠術中の行為だと当て嵌められるのではないか。  これでは、痴呆の証明を崩す崩さない以前の問題となる。催眠術に掛った状態では責任能力を問えないだろう。しかし、遺体を埋めた後に、その記憶を有していたならば、遺体遺棄罪はなんとか立件出来る。それには、催眠術の解けた後のマーガレットが痴呆では無かったとの前提が付く。  何か他に、マーガレットの痴呆が演技だと証明出来る方法はないだろうか。そして、マーガレットが、有罪に持ち込める行為を間違って取ってやしないだろうか。  そういえば、リチャードが、砦の周囲をうろついたり、室内に目撃された人影は、マーガレットだと推知していたな。砦の周囲の足跡のサイズや、蜘蛛の巣の高さが、マーガレットの体躯と一致する、と。  どういう事だろう。  もしかしたら、砦側の地下道への入り口に、誰も近寄らせないために、幽霊の噂を立てる事でそれを防ごうとしたのではないか。もし誰かが砦に悪戯で侵入し、地下道に降りれば、遺体を発見されてしまうかもしれないからだ。  幽霊の噂が立ち始めたのは、ディッキーが行方不明になってから、大分経ってからだという。仮に、犯行時マーガレットが催眠状態にあたとしても、噂が立った頃には、もう催眠状態は解けていた筈だ。これは、まだ催眠状態にあったとするには反証し辛い仮設だろう。  ならば、痴呆の状態で実行したのか理性的な状態で実行したのかが争点になる。  恐らくそれは、理性的な状態の筈だ。自分の犯罪を理解していて隠蔽しようとしている。  良し、そこを突いてみよう。  フロッガーは自分のデスクから、取調室に戻ると、黙ってマーガレットの正面に座った。  そしてニヤリと笑うと、 「幽霊ごっこは楽しかったかい?」  単刀直入に訊いた。  するとマーガレットは口をかっぴらいて茫然とした。 「何の話し?」 「ディッキーの幽霊のフリをして、砦に人を近寄らせないようにしたろ」 「言ってる意味が解らないわ」 「もしアレが君じゃないとしたら、一体誰なんだい」  マーガレットは暫く沈思黙考すると、 「ディッキー本人よ」  と無表情に言った。 「あはははは、笑わせるな!じゃあ、この世には幽霊なんてものがあって、ディッキーが化けて出たとでも言うのかい?」  フロッガーは、大笑いした。痴呆の演技の最後の足掻きだ。  しかし、マーガレットは、そんなフロッガーの嘲笑など無視して、 「可愛い子だったのよ、ディッキーは。私より十歳年下でね。普段はしっかり者で気さくな、ただの管理人なのに、私と居る時は甘えん坊さんだった。キスをね、おねだりして来るのよ。そんなディッキーが、私は愛しかった。だから彼を失った時は、茫然自失だったよ。でもね、ディッキーは、私が催眠状態で彼を殺害したのだと理解してくれていた」 「理解してくれていた?どうして判る。もう死んでいるんだぞ?」 「その後も私を愛していて、逢いに来るの。隠し通路を塞ぐ絵画がね、向こう側からノックされるんだよ」 「ノック?」 「それでね、一度ノックされた時に絵画を外してみたんだよ。するとね、血塗れの彼が私に抱き着いて来たわ。そしてキスをおねだりするのよ。私は、それが怖くてね。それ以来、ノックが聞こえるたびに、毎晩悲鳴を上げていたわ」  どっちにしろ、有罪には出来ない。そう諦めていた。マーガレットは、実際に痴呆なのだろう。だから、あんな幻覚を見る。痴呆になった切っ掛けは、ディッキーの喪失かもしれない。気の毒な女だ。  フロッガーは、署の屋上から、吸っていた煙草を、苦々し気な表情で投げ捨てた。                                        了
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