からくり父娘(おやこ)

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 以来、部屋に閉じこもって咳ばかりしていたキヨが、自ら外へ飛び出し、積極的に人々の間を駆けまわるようになった。  一度は生死の境を彷徨ったとは思えぬ姿に、伊賀七も我ながら上出来だと目を細めるばかり。それと同時に、頑健に生まれついてさえいれば本来はあのように明るく闊達な娘だったのかと、感慨に浸らずにはいられない。  唯一の誤算が、何をどう間違えたものか、キヨがとんでもない怪力の持ち主になってしまった点であった。  キヨはかえって喜び、自ら人々のために力を振るった。伏せる老婆があると聞けば医者まで背負い、邪魔な大岩があると聞けばすぐさま除けに走る。  人々はそんなキヨの働きぶりを賞賛したものの、いつか思わぬ事件を引き起こすのではないかと、伊賀七は心休まる暇もない毎日を過ごしていた。  不安はたちまち、的中する事になる。  前日まで大雨が降り続き、ようやく訪れた晴れ間を縫って、江戸へ出ていた谷田部の若様が帰って来ると知らせが入った。  気を利かせた村の男達が山から土を運び、あちこちが泥沼のように荒れた街道を補修しようとしたところ、車を引く牛自体がぬかるみに嵌まってしまった。男達が力を合わせて手綱を引き、牛の尻を押そうとも、牛は悲し気に鳴くばかりでびくともしない。  そうこうしているうちに、沢山のお供を引き連れた若様の駕籠がやってきた。 「貴様らっ、何をしておるっ! 若様のお通りだぞ! 即刻道を空けいっ!」  怒鳴られようと、牛の脚が抜けない事には如何ともし難い。慌てふためく男達に、侍は堪忍袋の緒が切れたとばかりに刀を抜き放った。 「ええいっ、賢しいっ! かくなる上は牛ごと叩き切ってくれるわっ!」  牛を置き去りにしたまま、男達は悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らしたように逃げ出す。  そこへ進み出たのが、たまたま通りかかったキヨだ。 「お待ちくださいお侍様! 今すぐにどかしますので!」 「何だ貴様は。大の男が寄り集まっても往生しているというのに、貴様のような女子(おなご)が……わわっ!」  牛の腹の下に潜り込むや否や、どっこいしょと背中に担ぎ上げたキヨを見て、侍は驚きのあまり腰を抜かしてしまった。 「どうぞお通りください」  安全な場所に牛を下ろした後、若様の駕籠に向かってお辞儀をするキヨに、集まった人々から拍手が起こった。しかし―― 「ならぬ」  駕籠の脇から進み出た笠被りの侍が、スラリと腰の刀を抜いた。 「今さら退いたところで、若様の行く手を阻んだ事に変わりはない。二度とこのような不手際が起こらぬよう、見せしめのためにも捨て置くわけにはいかん」  まとった羽織や着物の具合から見ても、よほど身分のある侍に間違いない。彼に倣い、周囲の足軽も刀に手を掛ける。 「ですが、牛もみんなも若様が安心して通れるようにと頑張った中での失敗なのです。決して邪魔をしようとしたわけではありませぬ。どうかお見逃しを」 「ならぬ」  必死に嘆願するキヨに、笠被りは白刃を突き付けた。ひっと息を飲む音があちこちから上がる。 「十市(とおち)、待て」  緊張を破ったのは、春風のように穏やかな声だった。 「刀を収めい。民をいたずらに脅かすでない」  駕籠の内から発せられる声に、侍達が一斉に跪く。十市と呼ばれた笠被りも、舌打ちして刀を下ろした。 「そこの女子(おなご)、こちらへ。簾を上げい」  近習が駕籠の横に垂れ下がった竹簾をめくる。呼ばれるがまま進み出たキヨは、恐れ多くも若様の顔を間近で拝見する事となった。  品の良い卵型の顔に、きりりと通った鼻筋。涼し気な目元はキヨを労わるように、優しい光を湛えていた。 「その方、名は何という」 「はぁ、庄屋飯塚伊賀七の娘で、キヨと申します」 「キヨ、か。此度の働き、大儀であった。感謝するぞ。あの牛にもそう伝えるがよい」  若様は短く言い残し、共の者達を促し立ち去って行った。  キヨは村人達と共に、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。  自分はおろか牛にまで優しい言葉をかけてくれる若様に、じんわりと胸の奥が熱くなるのだった。
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