Bird watching 1

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Bird watching 1

 進藤玄(しんどうはる)は、足早に歩いていた。  味気ない住宅街の夜道を急ぐ玄を、乾いた寒風が追い抜かす。ついでの嫌がらせか、寒風は追い抜かしがてら、玄の耳朶をチクチクと刺して行く。  ピアスの穴を開ける時はこんな痛みなのだろうか、穴を何個も開けている人は根性あるなあ、などと想像して寒さから気を紛らわそうとしてみる。が、効果のほどは特にない。なにをどうしたって、寒いものは寒いのだ。  執拗な寒風の虐めから逃げようと、身体に力を込め、ぐっと縮み込ませた。すると毎日の労働の賜物である、ゴリゴリと強張る肩や首筋、肩甲骨周りに、痛み痺れとも違うなんとも形容しがたい不快な感覚が産まれ、玄は二重の苦しみを味わう事になった。 寒さは嫌いではない。冬の朝、布団に包まって二度寝を貪るのは、至高で至福の一時だ。だがしかし、今宵の急降下した気温と針先のように尖った風は、そんな優しい慈悲はないようだ。この冷え込み具合は、本格的な寒波到来の前のジャブなのだろうか。  首に巻いた薄手のスヌードをずり上げて耳を隠し、防虫剤の匂いと鼻水を啜りながら、玄は目的の場所に急いだ。  馴染んだ住宅街の道を進んでいくと、やっと目当ての建物が現れた。静かな住宅地の中にたたずむ、豪華でも瀟洒でもない、平凡な7階建てのマンション。近所には似たような建物が沢山あるので、意識しなければ素通りするレベルのマンションだ。が、無慈悲な寒風に散々嬲られた玄にとっては、癒しとぬくもりの温泉宿のように感じられる。 「あー、風呂入りたい」 と、周囲に人気がないことをいいことに、わりと大きい声で独り言を呟きながら、入り口をくぐる。こんなエントランスの明かりと似た、オレンジ色の入浴剤を大量に投入した風呂に入って温まれば、少しはこの全身の疲労もほぐれるだろう。  だけど。  エレベーターに乗り込んで、「5」のボタンを押しながら、玄は少し憂鬱になる。よくよく考えれば、玄がこのマンションを訪れる時は、肩こりが更に倍増するような事案しかないのだった。 そう思うと、エレベーターが5階に到着しても、そしてほっこりと暖かいであろう部屋の扉が目前となっても面倒くささが勝って、素直に喜べない。  放課後の中学生のようにぐずぐずしながら、とはいえ早く暖かい場所に行きたいのは本当なので、目的の502号室のインターフォンに腕を伸ばしかけた時だった。  バン!と勢いよくその部屋の扉が開き、玄の鼻先をかすめた。運良くぶつからなかったのは、若干腰が引けぎみの訪問だったからか、俺の鼻が単純に低いからか。  急な出来事に、悴かんだ思考と身体がついていけず、思わずよろけてしまうと、今度はいい匂いの柔らかいものが飛び出してきて、玄に体当たりをしてきた。それを受け止める余裕はもちろんなく、玄の身体はタックルされた勢いのままに、ドアと反対側の壁まで後ずさった。  キャ、とそれは叫び声を上げた。タックルしてきたものは若い女で、ドアの前でよろよろしていた男に大層驚いたようだった。心の準備ができていなければ、それがいくら若くて可愛い女の子だったとしても、スマートに抱き止められるものではない。その女も同じく、自分の体当たりで突き飛ばした玄に対して咄嗟に謝るでもなく、驚き顔のまま停止した。茶髪でちょっと派手だが肉感的で、大きな瞳が割合、玄の好きなタイプだ。  開け放たれたドアの前で、見つめあう若い男女。運命的な出会いを果たした2人だったが、残念ながら恋は生まれなかった。  部屋の奥から男が現れた。男はまるで急いでいない、ゆったりとした足取りだった。その男の登場は、一瞬、なにかの舞台を観ているような錯覚を起こさせる。時間を溜めて、スポットライトと共に、スターが降臨した。といっても、このスターは、キラキラしていないし、金髪でもないし、唐突に歌い始めたりもしないけれど。  玄と顔を突き合わせたまま立ち竦んでいた女が、男が部屋の奥から出てきたことに気が付き、はっとする。振り返り、彼の顔を見て、また振り返り、玄の顔を見る。玄は壁に背中を張り付けて突っ立っているだけで、ぼけっとその様子を眺めていた。 「ミカ」 それが彼女の名前なのか、「ミカ」と呼ばれた女は再度男を振り返って、叫んだ。 「総くんのバカ!」 そして、壁に張り付いている玄に対しても、 「総くんのバカ!!」 何故、初対面の女にバカと叫ばれるのか。それに俺の名前は総くんじゃない。なによりその「バカ」は確実に玄に向かって言われるべきワードではない。  ぽかんと自分を眺めている玄を、般若のような形相でひと睨みして、女は足音も荒く駆け出していった。結局、謝罪の言葉はないまま。  後に残された男2人の間に気まずい沈黙が広がった。ところが気まずいと思っているのは、玄だけだったようで、先ほどバカ呼ばわりされた「総くん」は無表情のまま、 「悪い、入って」 と何事もなかったように、玄を部屋に迎え入れた。走り去っていった彼女を、視線ですら追う素振りはない。 「追いかけなくていいのかよ」 「どうせ、帰ってもらうつもりだったし」 男は1ミリも表情を崩さず、答えた。  家主の態度はクールだが、それでも部屋の中は暖かい。だがすぐに上着を脱ぐ気にもならず、それに部屋に入る前から余計な疲労をいただいてしまったせいで、そのまま部屋のソファに座りこんだ玄の耳に、ある音が飛び込んできた。  鳥の囀りだ。  囀りは甲高いトーンで、チィチィピチピチと喧しい。この囀りの系統からして小鳥サイズのようだ。どこにいる?  煙草臭く殺風景な部屋の中をぐるりと見渡せば、その囀りの主は何処からともなくパタパタ飛んできて、「総くん」の頭の上に、ちょこんと着地した。  それは、鮮やかな桃色の雀だった。  男の柔らかそうな黒髪の中に埋もれてピチピチと囀る姿は、巣で母の帰りを待ち焦がれている子雀のようだ。玄の視線に気づいて、男は尋ねた。 「これ、どんな風に視える?」 「ピンクの雀」 玄の答えに「総くん」は、ちょっと感心したかのように、形よく片方の眉を上げた。それが外国映画の俳優のようで、そんな芝居がかった仕草が不自然にならないことが羨ましい限りだ。  玄にとんだとばっちりをくらわせた男の名前は、佐瀬総一郎さ せ そういちろうという。サ行が多くて発音しにくいことこの上ない名前だが、たとえこいつが火薬田ドン、という名前だったとしても、世の女性達は放っておかないだろう。  無口でポーカーフェイス、人付き合いが苦手で孤独を好み、当然気の利いたトークもできず、ファッションには無頓着、なんなら髪ですら自分でカットして済ませてしまうようなこの男を何故、女性達は放っておかないのか。  答えは簡単、この佐瀬総一郎は世にも麗しい美青年だからだ。  フリーライターという仕事柄、家に籠ることが多いせいか、日を浴びない総一郎の肌は白い。体温を感じさせない薄い皮膚が、細いけれどもしっかりとした骨格の身体、そして長い手足を覆っている。漆黒の髪は緩くウェーブがかかったくせ毛で、高級な長毛種の猫のようだった。その中に納まる頭蓋骨とその後頭部は綺麗な卵型のラインを描いている。ふわふわした黒髪と同じく、瞳は黒曜石のような漆黒で、長く濃い睫毛が縁取る。黒目がちで、程よく吊った切れ長の瞳を均等な幅の二重の瞼が覆っていた。すっと直線に伸びた鼻筋は適度な高低差を作り、いくらか小さめの鼻、つるんとした陶磁器に似た肌と相まって、それは上品な男雛のよう造作だった。  しかし、それまでの完璧なバランスで配置された小奇麗なパーツとは趣が異なる、やや厚めの赤い唇が妙に肉感的で、お人形然とした総一郎の顔にアンバランスさと躍動感を与える。総一郎の出来のよい顔面を、ほほうと感心しながら鑑賞していると、いきなりその唇が不適切な色香を放出してくるので、油断をしている者は無駄に心臓を鳴らす事となる。  綺麗な指先を優雅に動かして煙草を咥える時、総一郎の赤い唇からチラリと舌先が覗いたりすると、それは酷く扇情的な光景となり、見慣れている玄ですら、おっ、と思う事がある。玄には断じてそっちの趣味はないけれど、しかし、夜のベランダで水仙のようなシルエットで佇みながら煙草をふかしている総一郎の姿などは、玄の大好きなオーブリー・ビアズリーの作品から抜け出してきた線画のようで、やっぱり綺麗だなぁ、と素直に思うこともしばしば、ある。  「もしかして、さっきの彼女を怒らせた原因は、それ?」 微妙にひりつく感じがする鼻先をさすりつつ尋ねると、総一郎は静かにうなずいた。ピンク色の雀はピチピチと囀りながら、玄には全く目もくれず、今度は総一郎の肩に飛び降りた。せわしなく羽と尾を震わせている様を眺めながら、玄は頭の中の鳥図鑑を開いた。いる、こいつにそっくりな鳥が。名前を思い出したいのだが。 「女の子なんだ」 総一郎が良い声でポツリと言った。 「そうだろうな、桃色雀のおっさんなんて想像するものこえーよ」 「可愛い子だよ。中学生かな?」 途端に雀は一層甲高く囀り、嘴で総一郎の細い首筋を突いた。 「痛いって。ごめん、高校生?」 すると雀は囀るのを止め、それを肯定するかのように上下に頭を振った。 「桃色雀の正体は女子高生だったか」 総一郎は無表情をほんの少し崩して、目尻を甘くした。  そういうところだぞ、総くん。玄は聞えよがしな大きいため息をついた。  孤独を好むくせに、総一郎の女関係は活発だ。  美麗な彼が無言で突っ立っているだけで、女性達は群がるようにやってくる。その様は砂糖に集る蟻、男女逆転の女王蜂と働き蜂のようだった。  それは彼のこの美貌ならば、当然といえは当然なのだが、それに加え、総一郎は人を絡め取るような独特な空気を纏っていた。官能的で卑猥で、でも上品で優雅で、という、相反するもの混ざった混沌としたもので、赤い唇から漏れ出る暴力的な色香同様、相手を強烈に引き寄せ、合わぬ者は完全に弾いてしまうという、独特な空気だった。   例えるならそれが、フェロモン、というものなのかもしれない。それを、総一郎本人は全くの無意識で巻き散らかしているのだから、性質が悪いのだ。  放っておけば家から一歩も出ないような男だが、フリーのライターとして一応働いているので、ミーティングや取材などがあれば渋々外出をし、オフィシャルな場だと思えば言葉少なに対応する、最低限の社会性は持っていた。(玄はそれを目撃したことがないが、そうなのだろうと思っている)  そうして下界に総一郎が降臨すると、彼が望まずともいつの間にか、その美貌と独特な空気が、出会った女性達を引き寄せ、絡め取り、夢中にさせてしまうのだった。  女性関係と比例して、色恋のトラブルは少なくない。玄が知っているのは、ほんのひと握りだ。トラブル、と思っているのは玄だけで、総一郎にとっては日常生活の、ほんの一部に過ぎない。  総一郎は、来る者を拒まず、去る者を追わない。誰のものにでもなって、決して誰のものにもならない。総一郎は、人間の女であろうが、そうでなかろうが頓着なく受け入れる。その代り、手放すことにも頓着がない。最初から「なかったもの」という括りにしてしまう。その執着の無さはいっそ清々しいものだった。  受け入れるということと、愛しているということは、同義語ではない。受け入れられたはずの者は、いつか総一郎を何ひとつ、自分のものに出来ていないことに気づく。そして、彼のなにもかもを求めるようになり、自滅して去っていくか、優しく「さようなら」と告げられて終了となる。  彼は、自分の目の前で巻き起こる、悲しみや怒りや嫉妬、という大きな感情の嵐を、いつもの氷の無表情を崩さずに、他人事のように眺めるだけだ。  佐瀬総一郎は、どこか大事な感情のコードがごっそりと切断されたかのように、いつでも泰然としていた。  「毎度泣かせるなら、付き合うなよ」 と、言ったこともあるが、 「断わるのも、面倒なんだよ」 という、羨ましいのかそうでないのか、他人を非常にイラッとさせる返答が返ってきた。    玄は、そんな人でなしの総一郎の女性の出入りの激しさにギブアップし、たとえ紹介されたとしても、彼女達の名前と顔を覚えることはとっくに放棄していた。  そもそも、玄と総一郎は、一般的な「友達」の間柄ではない。お互いの彼女や仲間達とつるんで酒を飲んだり、遊びにいったりするような関係ではなく、それにどう考えても総一郎はそういうことはしないので、いちいち付き合っている女のことを覚えなくとも、差し障りはないのだ。  それに総一郎が引き寄せるのは女性に限り、ではない。  「今度は、その女子高生に惚れられたのか?」 「そうみたい」 「はあ・・・チッ」 玄はため息と舌打ちを同時にするという器用な技を繰り出した。 「そいつを帰せばいいんだな」 「うん」 総一郎が入れてくれた、温かくてほろ苦いコーヒーを一口飲み、気持ちを落ち着ける。そして、改めて状況を確認するべく、雀の観察を開始する。  今回の相手の姿形は、本当に雀そっくりだ。スズメ目。羽に入る茶褐色の筋模様、胴体に対して小さめの尾羽がぴよぴよと動く様は、なんとも愛らしい。頭から胸元にかけては、紅色と表現したほうがよいような、濃いピンク色だ。始終囀っている大きめの嘴は更に鮮やかな紅色で、そこだけだと白文鳥を連想させる。総一郎を映す目玉までも赤い色だった。  玄は引き続き、頭の中の鳥類図鑑を捲ったが、まだ名前が思い出せず歯がゆい。まあ名前は、これからの対処にはなんの関係も無いので、後からゆっくり思い出すのでもよい。  ピンク色の雀であり女子高生でもあるそれは、総一郎の頭や肩にまとわりついて離れない。きっと風呂にも、トイレにもついていくことだろう。玄にじっくりと観察されていることに気づいていないのか、気づいていないふりか知らないが、こちらには目もくれないのが少々腹立たしい。  チィチィ、ピチピチ。  総一郎だけに向かって、一生懸命に語りかけている。語りかける内容は、鳥の囀りにしか聞こえない玄には解らない。むしろ解りたくない。誰が他人への愛の囁きを聞きたいものか。いや、愛の囁きではないかもしれない。もしかしたらこの世への恐ろしい呪詛の囀りかもしれないのだ。  肩の上の彼女の声を聞いているのかいないのか、その内容は、総一郎にはヒトの言語で聞こえているはずだ。だが教えられない限りは、玄からその内容を尋ねることもない。  「さっきの彼女は、なんで怒ってたんだ?」 玄はバードウォッチングを続行しながら聞いてみる。 「ああ」 総一郎は雀を肩に乗せたまま、煙草に火を付けた。吸い込んだ煙を吐き出しながら総一郎は説明を始めた。 「この子、彼女がここに来るのが嫌だったみたいで。来るたび凄く怒るんだ。毎回、彼女の耳元でこの部屋から出てかないと呪ってやる、痛い目にあわせてやる、とかなんだか物騒なこと囁き続けたり」 「・・・・・・・」 せっかく温まり始めたのに、ぞっとするような事を。愛らしい桃色雀のイメージダウンだ。 「あとは、髪の毛を引っ張ったり、転ばせようとしたりとか」 「うへえ」 「今日もそれが酷くてさ。彼女は当然この子がいるなんて気づいてないから、それでも気分は悪いし、怪我はするしで、だんだん機嫌が悪くなってきて、そうしたらこれが」 総一郎はローテーブルの上を指さした。 「口紅?」 「どこから引っ張り出してきたのか知らないけど、いつの間にかテーブルの上に置いてあったのを彼女が見て、浮気してる、って怒り出した」 「これ、誰のなんだよ」 「さあ?」 「あのなあ、お前いつか女に刺されても文句言えねーぞ」 「そうだね」  そうだね、じゃねえだろ、と文句を言うのも阿呆くさい。人間でもそうでなくても、総一郎の事を単純に気に入って付き纏う者の方が、帰す時に面倒なのだ。今日は疲れているし、寒いし、俺の気分もローテンションだから、手こずるのは御免だ。  玄は、立ったまま煙草を燻らしている総一郎にそっと歩み寄り、慎重に、彼の肩の上で囀る雀に声を かけた。  「えーと、こんばんは」 もう観察は終了。後はなんとか、雀の心を逆なでることなく帰ってもらえるように集中する。 「今までの話、聞いてたろ。こんな男のところにいても、いいことなんか、なんにも思うんだけど」  玄の呼びかけに、雀が囀を止めた。雀は視線をこちらに向けることはないが、確実に玄の声を聞いている様子だ。玄は努めて優しい声を意識する。 「だから、帰りなよ。部屋から出してやるから」 ちなみに、あんたが見向きもしない俺だってそれなりにキュートな若いメンズだぞ、とは口には出さず、心のなかで訴えるに留める。  雀は、剥製のよう身動きせず、しかし細かく尾羽は震わせて続けている。 雀がすぐに大人しくなったので、ちょっとは抵抗されることを覚悟していた玄は、安堵した。それでも、まだ慎重な姿勢を崩さず、雀の様子を伺う。総一郎の肩の上、雀は静止したままだ。賑やかな囀り声が消えた室内は静かになった。ヴーンンと、冷蔵庫だろうか、電化製品のかすかな唸りが響く。 「な、帰りな?」  これ以上できないくらいに抑えた動作で、咥え煙草の総一郎の肩でフリーズしている桃色雀に、そっと片手を伸ばす。これくらいの小ささなら、たとえつつかれたとしても、大した被害はないだろう。  逃げるな、逃げるなよ。できる限りの優しい動きを意識して玄が差し出した指先に、雀はしばし、赤い目をきょろきょろさせて、戸惑う素振りをみせた。  玄は知らずと息を止めていた。総一郎もひっそりと息を潜め、ただの止まり木と化したように動かない。その唇に挟んだ煙草からゆらゆらと細い煙が上がっている。チラリとその顔を見ると、伏し目の睫毛の陰影がやけに濃く頬に落ちていて、なぜだか懐かしい気持ちになった。  雀は、暫く迷っていたが、程なくして、総一郎の肩から玄の人差し指に飛び移った。玄の指に移動した雀は、空気よりも軽いようで、その重さと感触を感じさせない。 「よっしゃ、いい子だぜ。佐瀬、窓」  玄が言うよりも早く、総一郎はベランダに向かっていた。躊躇なくベランダの扉を開放する。部屋の中に一気に外気が流れ込み、温もりを奪っていく。どのみち、この雀を帰らせるのが優先なので、今は寒かろうがなんだろうが、事が早く済むに越したことはない。  玄は、雀を落とさないようにゆっくりとベランダの外へ出る。そして、寒くて黒い夜空に向けて、その名のとおりの人差し指を差し出した。 「ほら、行きな」 桃色雀も寒いのか、震えながらしばらく動かなかった。しかしそのうち、ゆっくり、ゆっくりと小さな羽を広げる。 「頑張って飛んでけよ?」 と、玄の励ましが通じたのか、雀は、一瞬足にキュッと力を込め、次の瞬間には、小さな羽ばたきで上空を目指し、飛翔した。  小さく細かい羽ばたきはいじらしくも可愛らしいものだったが意外に高速で、雀はあっという間に夜空に溶け込み、その姿を消した。もういくら目を凝らしても、遠慮がちに瞬く星の光しか見えない。こうして、ピンクの雀である女子高生は、2人の前から姿を消した。 「はあ、意外にあっさり終わった」 玄は、冷たいベランダの手すりにもたれかかった。肩からどっと力が抜ける。 オオマシコ。 不意に鳥の名前を思い出した。スズメ目アトリ科。主に北に生息する、鮮やかな紅色の小鳥の名前だ。 「今日も、ありがとう」 凍えるベランダから退散して、室内に戻った玄に、良い声がお礼を告げながら、入れ替えた温かいコーヒーを差し出した。総一郎のこの言葉を聞くのは、一体何回目だろう。それと同じ回数、玄はこの面倒に巻き込まれているのだ。 「可愛いって言ってたのに、あっさりバイバイかよ。相変わらず冷たい男だな、お前」 玄は根に持つタイプなので、先ほど無駄に「バカ」と言われたことを引きずっていた。この部屋の扉が掠めた鼻先も、まだヒリヒリしている気がする。 「あっさりなのは向こうも同じだよ」 総一郎は、玄の嫌味など全く気にせず、しれっと続けた。 「それと、今回の用事はこれじゃない」 「はあ?アレを帰すんじゃないのかよ」 「今のはついで。他にもちょっと相談にのって欲しいというか、助けて欲しいことがある」  ほら、やっぱり。  総一郎に呼ばれる度に、玄の肩こりは蓄積される一方なのだ。                   To be continued・・・→
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