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この年の秋分の日の夜、砦を密かに抜け出した日神子と真木は、月影に誘われる様に那津の砂浜に現れた。真木は元の世に戻った時、差し支えが無い様に元の軍服を着て拳銃を腰に付けている。
「真木、この小鏡を渡す。元の世の行く末を見定め、この地に戻りたいと思う気持ちになれば、今宵と同じ日の同じ砂浜で、この鏡で海に向かって月の光を送れ」
「その様なことになれば、その約束を果たすことにする」
「ならば、波打ち際に立て」
日神子が月の光を神鏡に反射させ、波打ち際に立つ真木に向けた。そこで、神気を滾らす様に呪文を唱え、エィと引導の言葉を発した。すると月明りと反射光に照らされていた真木の姿が朧げとなり、暫くすると消え去っていた。
真木は月明りに照らされ、博多の砂浜に立っている。胸に手を当てると、ポケットには日神子から手渡された小鏡が入っていた。
やっと、戻れたのかと辺りを見回すと、月明りの下に一面の焼け野原が広がり、バラックの様な建屋が数軒並んでいるのが目に付いた。
「何だ、この有様は。まさか米軍にやられたのか」
溜息にも似た声を上げた真木は、町中へと足を踏み入れた。すると町角で裸電球を灯し、雑貨を売る店の小母さんに呼び止められた。
「あんた、帰還兵かね。そんな腰に拳銃をぶら下げとると、進駐軍に捕まってしまうわいな」
「えー、進駐軍だと」
「あんた、アメリカさんの進駐軍を知らんのかいな。何処から帰って来たんや」
<進駐軍とは。まさか日本は、既に負けてしまったのか>
「俺は、駆逐艦に乗って南方へ行く処を、艦が撃沈され無人島で過ごしていた」
真木は、出まかせの話を語った。
「そうかいね。それはご苦労でしたな」
「それにしても、ここはえらい焦土になっておるな」
「ここらは去年の空襲で、すっかり焼けてしもうた。そやけど広島や長崎に較べると、まだましや」
「広島が、どうかなったのか」
真木は、故郷となる広島の話に、急に不安を覚えた。
「無人島におったのなら知らんか。広島はピカドン(原爆)にやられて、一帯が何もなくなった」
「ピカドンだと。それは原子爆弾か」
真木は、かつて聞いたことがある開発途中の強烈な爆弾の話を思い出した。
「そうともゆうとるな」
「それは、何時のことだ」
「去年の夏や」
「去年と言うと」
「去年は、昭和二十年やがな」
<俺が駆逐艦に乗ったのは昭和十九年の初夏であった。すると、それから一年後に広島が壊滅し、日本も負けたのか>
真木は、小母さんに礼も言わず駆け出している。
「あんた、何処へ行くんや。きい付けなあかんで」
後ろに小母さんの叫び声が聞こえていた。
町中で出会った人に事情を話すと、博多引揚援護局を教えてもらった。ここを訪れ拳銃を返還した後に、広島行きを手配してもらえた。広島に着くと、そこには何も無く、高温を浴びた焼け跡が随所に残っていた。実家は何処か見当たらず、数軒あった親戚の家も跡形も無く消え失せていた。
「これは酷い」
この分なら市内に暮らしていた人々の、恐らくは数万人が亡くなり、これからも増え続けるであろう。真木は後に原爆ドームと呼ばれる産業奨励館の前を流れる元安川の畔に座り、茫然とドームを眺めていた。
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