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18
峰から峰へ 18
オオフリソデウオは、毎年必ずこの海へ回遊する中型の魚で、締まった身には脂も乗って、生のままや焼き物や煮物、汁物にしてもなんでも美味く、この季節の浜辺の風物詩となっている。
群れは大きく、何日もかけて渡っていくこともあって、弟達と協力して巻き網や敷き網をかけるのが常であるが、その年ごとに王とも呼べるひと際大きな一尾がその群れを統率している。
王だけは俺の手投げ銛で戦いを挑み、うまく獲れる年もあれば、取り逃がす年もある。
海に生きる俺達にとっては、大きな漁を神聖な儀式ともみなす。相手がオオフリソデウオの王と、従える群れ達の漁ならば、俺達の婚儀式にふさわしい。
そう思い、俺は決意した。
海は周りの国と繋がっていて、この頃少しずつ変化をしてきていた。
海の温度、潮の巡りなどのために、これまで獲れていた魚や貝が獲れなくなったり、反対にやたら大漁が続いたり、とおかしなことになっている。
それはいっとき、中央に暮らすおりょうさんという議長様が御隠れになっていたからだ、と黄河兄貴が言い、実際俺達の海の状況は元に戻りつつあるけれど、結界などの護りのない人間の世界の海は、今や様々に変貌を遂げてしまっているのだという。
もしかしたら、この秋はオオフリソデウオの王は巡ってこないかもしれない。
銘珠は、これまでと生活もほぼ変わっていないのだから、婚儀式もオオフリソデウオの巡りも然程気にしていないようであったが、俺の気持ちは違う。
俺は自分に厳しい任務を課したいのだ。
日ごとに太陽の消え入る時刻が変わってきた。
数日のうちにオオフリソデウオの巨大な群れが浜辺にやって来る合図だが、無事巡ってくるだろうか。
自然が変わり始め、思うような漁はできなくなっているかもしれない。
けれど、俺は舟を出してみようと考えた。
「銘珠」
「なに」
「朝、舟を出すぞ。明日オオフリソデウオが来るはずだ」
縁側で、海の向こうへ消えてゆくお日様を見送ってから卓につく。差し向かいで大皿の魚を取り分け、小鉢をつつきながら思い切って口にすると、
「兄さん……僕はその、婚儀式はしなくても良いよ。オオフリソデウオの王にこだわって、危ないことはしないで」
銘珠はそう返してきた。
「判ってるよ。危ないことはないだろ、毎年漁はしてるんだから。もう弟達にも明日の出港のことは話してきた」
「そう……」
弟達のことを持ち出すと、渋っていた銘珠も表情の険を和らげて頷く。
俺は夜だからと嫌がるうみねこを無理やり使いに出した。
++++++++++
暗闇の中で、打ち寄せる波の音だけが響いている。
目を凝らして見詰めていると、その音に合わせた滑らかな動きが僅かずつだがぼんやりと浮かび上がってきた。
弟達が群れのための準備、各々の袖網や支度を抱え、舟に向かう。皆、俺達がオオフリソデウオの王を待っているのを知っているので、
「兄さん、群れの方はオレ達に任せて」
「どうかオオフリソデウオの群れでありますように」
俺に王を任せるよう、計らってくれる。
オオフリソデウオの群れは巨大なので、四艘の動力船で網を巻いていく四艘張網漁(しそうばりあみりょう)を仕掛ける。
俺の舟は王を探し対峙するため、俺の舟の他に、群れを捕獲する四艘の同程度の速度を操る乗り手が必要になる。
皆てきぱきと自分達だけで舟を操れる、立派な若者達に成長した。
「おう、後は頼むな!」
波音より大きく低い舟の動力の音が響き、次々と弟達の舟が沖へと出てゆく。使い込んだ手投げ銛を手に俺も自分の舟へ乗り込もうとした時、
「兄さん!」
銘珠が追いかけてきた。
「兄さん、僕も乗せて!僕が舟を操る」
「銘珠。お前はここに居ろ、群れがどれくらい大きいか判らん。危ないかもしれん」
俺の言葉に、
「何言ってるの。銛を構えながら舟も動かすの?その方が危ないよ」
珍しく銘珠は鋭く返し、ひらりと舟に飛び乗ってきた。そして一気に動力を動かした。勢いよく舟が走り出す。
ひとたび走りだせば、波の音と動力によって会話は難しくなる。けれど、
「僕だって舟を動かせる!小さい時教えてくれただろ!?」
銘珠は前を向いたままそう叫んだ。
轟々とした風に髪をなびかせながら、強い力を湛えた瞳でぎっと前を見据え、
「兄さん。どんなに危なくても、今日だけは兄さんの傍に居させて」
早口に言う。
俺はがつん、と頭を殴られたような心持ちになった。
実に的確に、そして颯爽と銘珠は舟を操れていた。舟はぐんぐん速度をあげて、先に走っていた弟・玖恩(クノン)達の舟に近付くとそのまま追い抜いていく。
俺の舟は四艘の先頭を走り、王を探さなくてはならないからだ。
玖恩は舟を操る銘珠の姿に一瞬目を丸くしたが、追い抜きざまの俺に、
「オオフリソデウオの魚影だよ!ものすごい量だ!!」
そう叫んだ。声はすぐに遠ざかっていった。
来てくれたのか、オオフリソデウオ。
俺達のために。俺のために。
心が逸る。
樫で造られた、頑丈な銛の柄を握る手に力が籠った。
仕留められる確証はないが、とにかくこの地へ巡ってきてくれたことに安堵すると、ほんの少しだが周りを眺める余裕ができた。
操縦席で計器を凝視している銘珠は、どうしてか笑っていた。
形の良く優しげな唇を緩く微笑ませ、一点を見詰めながらも、銘珠は確かに満足そうだ。
遥か先の水平線が、うっすら白み始めている。
幼い頃から今日まで、もう数えきれないくらい眺めた海だけれど、幾度となくこなした漁だけれど、俺は改めて、静かに明るみを増していく海の平らかさを目に焼き付けた。
もっと早くこうすれば良かったのだ。
もっと早く、銘珠も舟に乗せてやれば良かったのだ。
こんなに遅くなってしまったけれど、俺が教えてやった小さな頃からずうっと、銘珠は密かに舟の運転を練習し続けていたのだ。
銘珠のそんな思いが伝わって、俺は胸がちりと痛んだが、同時に、自分の深いところから言いしれない強い感情が込み上げてきた。
この朝で、俺は変わるのだ。
弟達の舟を全て追い越して、群れの先へ出た。
辺りの景色が段々はっきりとしてきて、浅いところに浮かび上がってきた魚影が確認できてきた。
大きな影が揺れている。
王だ。
「兄さん!」
背中から銘珠が叫び、俺は大きく頷いた。
舳先へ足をかけ、銛を構える。舟が一段と速度をあげ、王の泳いで進む先へ回り込もうとした。
鼓動が早鐘のように胸を打つ。さあ来い。
海の中で動きがあった。
海面が揺らめきすぐに盛り上がってきて、舟の横縁を掠め海の中から、真っ黒い影が跳ね出てきた。
それは岩のような巨大な魚で、形はまごうことなきオオフリソデウオなのだが、これまで見たこともない大きさをしていた。
俺も銘珠も口を開けたきり言葉がでてこない。
ただ見守るしかない俺達をよそに、王は悠々と海へ跳ね降りて沈んでいく。
飛沫をもろに浴びて、四艘の舟は木の葉のように海面で揺られる。
「今の、なに……?オオフリソデウオの王だよね?」
「なんであんなにでかいんだ……」
混乱をきたしながらも、俺は海の先に目を走らせ、銘珠に頷く。銘珠もはたと我に返り、再び舟の動力を動かした。
オオフリソデウオは回遊魚だ。
俺達が見たこともない広い海を巡って、こんなに大きさが変わってしまったというのか。
世界の、人の世の変貌が、潮の巡りや海の生き物の暮らしや外見にまで影響を及ぼしてしまうなんて……。
そしてきっと、その生き物、という中には人間達自身や俺達、龍だって入っているに違いないのに。みな、その変化という名の荒波にもう呑み込まれているのだ。
それが判らないはずもないだろう。
俺はぞっとしたが、今怖じ気づいている場合ではない、と己を奮い立たせる。
もう一度王が海面まで浮かんできた。
小山のような頭が水面から出た瞬間、俺は渾身の力で手投げ銛を投擲した。
銛は王に深く突き刺さったが、王はそのまま一つ跳ねて、また海に沈もうとした。
仕留めたか。
全然無理だ。
ここで取り逃がす訳にはいかない。
俺は舳先を蹴ってとんぼ返りをすると、そのまま海に飛び込んだ。
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