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明るい場所
私は気がつくと木の質感が肌に触れる床に座っていた。周りは真っ暗で、何も見えやしない。
肌を通して伝わる材質、川の流れるような音と、木が軋む音が耳に入るのと、僅かに上下に揺れる場所に座っている感触から、木製の舟にでも乗せられているのではないかと推測した。
「目、覚めたかい?」
突如暗闇から落ち着いた男の声が聞こえてきた。私は警戒でビクリと身を震わせる。
「そんな怯えないで。舟がひっくり返ったら大変だ」
男の言葉から、やはりここは舟の上なのだと確信する。しかしどうして私は舟になど乗っているのか。
「あなた誰よ。舟なんか私知らないわよ」
「僕はカロン。ここには君から乗って来たんだよ」
「嘘言わないで。私は舟になんか乗ってない」
「でもここに来ることを選んだのは君なんだ」
「私を元の場所に返してちょうだい」
「それはできない。と言うか、僕にそれを決める権限はない。君が決めることだ」
「じゃあ返してよ。今すぐに。私はこんな場所にいたくない」
「もう少ししたら選べる場所につく。その時に僕から聞いてあげるよ。そして君の希望通りに舟を進めてあげる」
仕方なく私は会話を切り上げる。相変わらず真っ暗で何も見えない場所で、カロンと名乗った男の声だけと会話するのは奇妙な感じがした。
水の流れる音と、ギィッギィッという木の軋む音が相変わらずBGMのように流れている。精神を不穏にさせる音だ。
「そろそろ、かな」
カロンが呟くと、突然、暗闇に二つの分かれ道が現れた。何も見えなかった世界に分かれ道が現れたことがわかるなんておかしな話だろうが、二つに分かれた水の流れが私にははっきりとわかった。
一つは明るい光が漏れ出る出口へと向かう水路だった。眩し過ぎて出口の向こう側は全く見えない。
もう一つは今いる場所よりも深い暗闇に覆われた出口だった。言わずもがな、深い闇の向こうに何があるかなんて何一つ見えない。
「君が決めていいよ。どちらに向かう?」
カロンが私に尋ねる。
「そんなの……明るい方でしょ」
長々と続く暗闇に気が滅入っていた私は、一刻も早く日の当たる場所へと出て行きたかった。
「そうか。わかった」
彼の言葉に嘘はなかったらしく、舟は静かに向きを変え、明るい方へと向かって進み出した。
少しずつ、眩しい出口が近づいてくる。入り込む光に照らされて舟を操るカロンの顔が見えた。声の落ち着きのわりに若い男だ。私とさほど変わらない歳だろう。
「あなたは何をしている人なの?」
考えるよりも先に声が出た。カロンが驚いた顔で私のことを見つめる。
「声を聞いた時は老人かと思ったけど、想像より若いみたいだし、そもそもここは何処なの?」
「想像なんてできるのか? まだ」
失礼な男だ。
「想像くらいするでしょ、生きてたら。そうしなきゃ、わからないことは一生わからないままだし、息が詰まりそうな日常から逃げ出す術もなくなるじゃない」
カロンはそれを聞いて黙り込んだ。
「あなたは誰? そしてここは何処なの?」
私は彼の態度に構わず再び尋ねる。
「もう一度聞くよ。どちらに進みたい?」
カロンは私の問いには答えず、先ほどと同じ質問を重ねてきた。
「え? だからそんなの明るい方って……」
言いかけて私は気がつく。ここが何処かもわからないのに、なぜ当たり前のように明るい方へ行こうとしたのだろうか。ここよりマシだと思ったのだろうか。ここが何処なのかも知らないくせに。
「どちらに進む?」
生きていれば、わからないことの方がずっと多い。それでも生きていくのは、そうしなければ辿り着けない場所があるから。人生はこの暗闇の中に似ている。明日どころか一秒先の保証もない。望むと望むまいと、川のように時は流れる。
「こっちにして」
私は暗い出口を指差した。
「それがいいよ」
カロンが答えた。君はまだ考えることも感じることもできるのだから、と。
人生は暗闇の中だ。明るい場所などあるわけがない。もしあるとすれば、それはきっと何かしらの終着点だ。そしてそこにたどり着いたら、もう二度と進むことも戻ることもないのだろう。そこにあるものが苦であっても、無であっても。
カーテンの隙間から差す陽に顔を照らされて私は目覚めた。床には昨夜買い占めた酒類の空缶と、睡眠薬が全て押し出された銀色のシートの殻が複数。
妙な夢を見た気がする。昨夜のことはよく覚えていない。ただ酒で睡眠薬を一気飲みしたのは覚えている。
――君はまだ考えることも感じることもできるのだから。
落ち着いた男の声が脳裏に蘇る。誰に言われた言葉だっただろう。思い出せない。
突然、強烈な吐き気に襲われた。私はユニットバスのトイレへと急ぐ。
ゲーゲーと生理的な反射に追われて胃液を嘔吐しながら、今日がまた始まることに嫌気を覚えている。
けれど昨夜覚えた睡眠薬を一気飲みするような衝動は、もう当分湧いてくることはないと思えた。
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