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父から指定されたのは、駅近くの大きなホテルの一階にある喫茶店だった。
綺麗めのワンピースを着て、髪もきちんと整えて。心臓がやけに跳ねるのを感じながら、喫茶店に向かった。
名前を告げると、すぐに店員が席に案内してくれた。導かれたのは二人がけの奥まった席で、すでに一人の男性が待っていた。窓の向こうの景色を見ている。ポロシャツにスラックスという、全く飾り気のない恰好だ。
その人が、ゆっくりと振り向いた。
「……みちる」
「お父さん」
その顔を見た瞬間、あれだけうるさかった心臓が、スンと平常に戻るのが分かった。言葉が出てこない。いや、感極まってなどではない。瞳は乾いて、涙の一粒もこぼれない。これは。
――無だ。
まったくの、虚無である。
父が口を開いた。
「……大きくなったなあ」
「……まあ、十六年ぶりだから」
「もうそんなになるのか」
椅子に腰を下ろし、父と向かい合う。父はずいぶん年老いていた。髪に白いものが混じり、肌はたるみ、白目が濁っている。どこにでもいる、ごくごく普通の中年男性だった。
おお、これが、私のお父さん。
店員にコーヒーを注文する。ミルク砂糖なし、ブラックで。豆本来の味を楽しむためにはブラック以外あり得ないと、かつてマスターが熱弁を奮っていた。
また父はおずおずと、
「コーヒーなんか飲むようになったんだなあ」
「……もう二十歳だよ」
「二十歳!? 大人じゃないか」
目を丸くしている。その手元にはアイスティーのグラスがある。
結露したグラスがコースターを濡らしているのを眺めながら、私は眉を寄せた。
「……なんで今日、私を呼んだの」
そう、今日は私の誕生日で。
だから私はここに来た。今日この日じゃなかったら、きっと私は来なかった。
だって私は――。
父はなんでもないように笑ってみせた。
「いやあ、実はこの間、病気をしちゃってな」
「……はあ」
「別に命に関わるものじゃないんだが、手術をして……まあ、そのときに今までの人生を振り返って、みちるがどうしているか気になったんだ。レナ……今のうちの子が大きくなったから、きっとみちるも立派になってるだろうってな」
「……はあ」
コーヒーが運ばれてくる。熱いまま口に運んだ。酸味が強くて、あまり私の好みではなかった。
「それでちょうど、仕事でこの辺りに来る用事があったから、頼んでみたんだ。まさか会ってもらえるとは思ってなかったよ。みちるはどうして会おうって思ってくれたんだい?」
「……どうして?」
私はカップをソーサーに置いた。陶器の触れ合う微かな音がした。
脳裏に、谷くんとの会話が蘇る。彼にコーヒーをぶっかけていった女の子たちの顔も。彼女たちはみんな、大好きな谷くんに嘘をつかれて傷ついていた。
ふ、と唇に苦笑が滲む。どうして今までこんなに簡単なことに気がつかなかったのだろう。
――私はずっと、「愛してる」の続きを聞きたかった。
父のことが好きだったから。「愛してる」が本当だって信じたかったから。
だからこんなところまでノコノコやって来た。日付に意味を見出して、何かがあるんじゃないかって。
でもよく考えてみろ。父が口で何を言ったって、私に何かしたか。慰謝料を支払って、面会交流もせず、それきり。「愛してる」だなんて嘘に決まっている。
そうすると、父と別れた最後の光景が、霧が晴れるように鮮やかになった。
右手を上げて玄関から出ていった父。その先には、すらりとした女性が立っていた。父は私に別れを告げていたんじゃない。彼女に手を振っていたのだ。
「……十六年前、最後に私になんて言ったか、覚えてる?」
「え?」
私の唐突な問いかけに、父がうろたえる。腕を組み、考え考え、
「……ごめんな、だったか?」
その不安そうな瞳に、心の底から笑いが込み上げてきた。
私はもう、傷つきもしない。
父を無邪気に慕う子供は時間の中に消え、そこにはぽっかりと無があるだけだった。
「『愛してる』だよ、お父さん」
父の顔色がサッと変わる。私は立ち上がり、ワンピースの裾を翻した。
「そういえば今日誕生日なの。ここは奢ってね」
「おい! みちる!」
他の客の視線が突き刺さる。パパ活なんかに見えているのかもしれない。すみません、その人私の本当のパパなんです。
喫茶店を出ると、外の日差しが眩しかった。目をすがめ、手庇を作る。いい天気だ。どこかに出かけよう。
そのとき、バッグの中でスマホが震えた。今日の面会を心配した母だろうか、と思いながら通知を開く。
谷くんからだった。
『これはリアルガチなんですけど、また女の子にフラれました! 映画の招待券が二枚余ったので、よければ一緒に行きませんか?』
「……嘘つきだなあ」
思わず声がこぼれる。
でもきっと、必要なときだと思ったから連絡してくれたのだろう。
すいすいと指を動かし、返信した。
『いいよ。私もちょうど男をフってきたところだから、暇だったの』
<了>
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