30人が本棚に入れています
本棚に追加
結論から言うと、店は常連客を失わずに済んだ。
次の土曜日。店が閉まる直前に、少し気まずげな顔をした谷くんがやって来て、いつものコーヒーを頼んだのだ。
「お待たせしました。レギュラーコーヒーでございます」
「……みちるさん」
「なんでしょう?」
「……この後、時間あります?」
バイトが終われば特に予定はない。頷いてみせると、ホッとしたように頬を緩めた。なみなみとコーヒーの注がれたカップを持ち上げる。
「出禁になってたらどうしようかと思いました」
「私はただのバイトだよ」
店内には彼以外に客の姿はない。閉店には少し早いがもう店じまいでいいだろう。入り口の看板をひっくり返していると、谷くんがわざとらしく声を上げた。
「あー! まだ閉店時間じゃないのにもう閉めてる! ただのバイトなのに!」
「うるさい客は出禁にしようかな」
「横暴だ!」
馬鹿みたいな会話でも、身に馴染んだ居心地の良さが流れた。これでもう、何も言わなくてもいつもに戻れる。お互い踏み込んだことのない、ただのバイトと客に。
でももちろん、そうはいかなかった。
店内に戻ると、谷くんは姿勢を正して待っていた。決闘でも申し込むかのような緊張感の中、私は彼の向かいに腰掛ける。
「……前に、みちるさんに言われたことですけど」
ぽつぽつと谷くんが話し始めた。視線がテーブルに落ちている。
「俺、人を好きになったことがないんですよ」
突然の告解に目を見開く。では、あの修羅場は。
「全然分からなくて。でも、周りは彼女欲しいとか彼氏欲しいとかばっかりで。俺にもその目は向けられて。なんか、それが当たり前みたいなんですよ。誰かと付き合ったりキスやら何やらしたりするのが」
絞り出すような響きだった。息苦しそうに胸元を押さえている。
「だから、みんなの真似をすれば、俺にも分かると思った。嘘でも好きと言い続ければ、それは本当になるんじゃないかって」
谷くんはくしゃりと笑う。泣くのを堪えるみたいな、下手くそな笑顔だった。
「でもダメでした。みちるさんもご存知の通り、俺は女の子を怒らせて、傷つけてばかりでした。……なんでそんなに怒るのか分からなかった。みんな、俺のことが好きだったから怒ってたんですね。俺にはそんなことも分からなかった。自分には無い感情だから。みちるさんに言われるまで、気づけなかった」
照れ臭そうに頭を掻き、
「ここでたまに会うだけのみちるさんにさえ嘘だって見抜かれてたんです。今までどんだけ薄っぺらいことをしてたんだよって、恥ずかしくなって」
谷くんが大きく息を吸う。それからまっすぐに私を見つめた。
「もうやめます。いや、たまに断りきれないことがあるかもしれませんが、できるだけやめます」
今日はそれを伝えに来ました、と話を結んで、彼は口を閉じた。
沈黙が肩にのしかかる。谷くんの目線は落ち着きなく泳いでいる。私はふっと微笑んだ。
「……常連客が一人、減っちゃったかな?」
なるべく軽やかな声音を出す。彼の肩から力が抜けた。
「なんでですか。これからも勉強しに来ますよ。まあ、客単価は下がるかもしれないですけど。……あ、そうだ」
思いついたように、谷くんは私に両手でスマホを差し出した。連絡アプリの画面が写っている。
「あの、連絡先教えてもらえませんか」
「え? なんで?」
首を傾げると、谷くんがわたわたと手を振り回した。髪の隙間から覗く耳が赤い。
「いやその……分からないことがあったら教えて欲しくて」
「私は谷くんの家庭教師じゃない」
と、言いながらも、私もスマホを取り出した。目を丸くしている彼に突きつける。
「私も言い過ぎたから。これは詫び代。……ごめんね」
「……はい! いっぱい連絡しますね!」
「必要なときだけにして。受験生は勉強するんだよ」
ポン、と電子音がして、無事に連絡先が交換される。谷くんが私のアイコンを指でなぞった。
「……それじゃ、必要なときには連絡しちゃいますね」
「私も谷くんがカフェに忘れ物したときに使お」
「もっと必要なときありません?」
「あんまり思いつかないな……」
最初のコメントを投稿しよう!