30人が本棚に入れています
本棚に追加
六月の第三日曜日が近づくにつれて、心に小さなささくれができていく。
町を歩けば見かける『父の日』の文字。お父さんに日頃の感謝を、お父さんにプレゼントを贈ろう、お父さんに……。
私のバイト先のカフェでも、レジのそばに『父の日ギフト』と称してコーヒー豆を置いていた。ちなみに母の日も敬老の日も同じことをしている。マスターによるとイベントに合わせて繊細にブレンドしているらしいが、一介のバイトである私には分からない。
私はレジに立ち、『父の日ブレンド』を購入した客を笑顔で見送る。私と同じ、大学生くらいの女の子だった。父親に贈るのかもしれない。駅のそばに良い雰囲気のカフェで買ったの、今度一緒に行こう、なんて話すのだろうか。きっと仲が良いのだろう。
「――ふざけないでよッ!」
空想に耽っていた私を、金切声が現実に引き戻した。店の奥を振り向くと、目を吊り上げた女子高生が、向かいに座った男子高校生にコーヒーをぶっかけたところだった。季節のブレンド、五百六十円の一杯が男の子の制服のシミに早変わりだ。
「好きって言ったじゃない! 最低!」
女の子はテーブルにカップを叩きつけると、リュックを引っ掴んでそのまま店を出ていった。「ありがとうございました〜」という私の声が間抜けに響く。
他に客がいないのが幸いだった。私はため息をついておしぼり片手に男の子に近づく。彼はへらりと笑い、すまなそうに頭を下げた。
「毎回すみません、みちるさん」
「谷くん、マジでうちを修羅場にするのやめてくれる」
私の差し出したおしぼりで顔を拭く彼は、月に一、二回のペースでこういうことを起こす。決まって私がシフトに入っているときだ。初めて遭遇したときに、何も言わずに飛び散ったコーヒーやひび割れたカップを手際良く片付けてしまったのが良くなかったのかもしれない。
「いやー。みちるさんは全てを分かってくれてるから頼っちゃうんですよね。今日も水をガラスのコップで出さなかったでしょ、割れやすいから」
「入店時の雰囲気でピンとくるようになってきた自分が嫌だよ」
「ナイスコンビですね、俺たち」
ひひ、と笑う谷くんは整った顔立ちをしている。明るいし、人懐っこいし、同じクラスにいたら好きになっちゃう女の子の気持ちも分かる。
慣れたもので、修羅場の片付けは十分もすれば終わった。壁にかかった時計に目をやると、もう閉店時間だ。
谷くんは席を立つ様子がない。
「今日はどうするの」
「勉強してって良いですか? もうすぐ模試なんですよ」
谷くんは私の二つ年下で、高校三年生だった。私の通う大学を目指しているとかで、彼が最初にコーヒーをぶっかけられた後、雑談しているうちに勉強を教えることになった。それ以来、常連になって一杯のコーヒーで粘って閉店後まで勉強している。マスターも籠絡、いや了承済みだ。彼はただの修羅場メーカーではないらしい。
閉店作業を終えて席に戻ると、谷くんが問題集を開いて待ち構えていた。
「ここが分かんなくて……」
「うん? これ行列の応用でしょ。この公式を……」
「あ、なるほど。さすがみちるさん!」
谷くんは頭が良い。少しヒントを与えるだけですらすら問題を解き始める。私も向かいに座り、大学のレポートを書き始めた。
そうして三十分ほどが過ぎた頃。私のスマホが着信を告げた。母からの電話だった。珍しい。大学に入ってから一人暮らしをしている私は、なかなか母と連絡を取ることもなかった。
「ごめん、ちょっと出るね」
「もちろん」
谷くんに断って、スマホをそっと耳に近づけた。
「もしもし……」
「みちる? 今電話いい?」
スマホから聞こえてくる声は元気そうだ。なんとはなしにほっと息をつく。
「お母さん、久しぶり。どうしたの?」
「あのさあ……」
歯切れが悪い。いつもハキハキとしている母にはあまりないことだった。
辛抱強く待っていると、ため息が吐き出された。
「……晴彦さんのこと、覚えてる?」
ひゅ、と息を呑む。向かいで谷くんが怪訝そうに顔を上げ、私はガタリと立ち上がった。椅子が倒れかかるのを、身を乗り出した谷くんが押さえる。
「……お父さんがどうしたの」
店の隅に移動し、声をひそめた。通話口の向こうからは重苦しい空気が漂ってくる。
「みちるに会いたいんだって」
「な、なんで」
父は幼い頃に母と離婚した。父の浮気が原因だ。その後はとうの浮気相手と再婚し、幸せな家庭を築いているらしい。慰謝料こそ支払われたものの、父が私に面会を希望することはなかった。
それが、今さら、なぜ。
母の声は刺々しかった。
「さあね。ま、みちるも二十歳だし、キリがいいとでも思ったんじゃないの。向こうが指定してきたの、みちるの誕生日なのよ」
「誕生日……もうすぐだ」
スマホを強く握りしめる。私の誕生日は再来週の日曜日。そう、父の日だった。
「会いたくなければ断って良いし。お母さんから言うから……」
「会うよ!」
自分でも思いがけないほど大きな声が、静まり返った店内に響き渡る。私は口元をハッと手で覆った。
「……そうしたいなら、いいけど」
ぽつんと落とされた声が、雨だれのように耳を打った。詳細はメールで、と電話が切られる。
しばらくその場に立ち尽くしていた。スマホがやけに重く感じられる。
――私は何かを期待しているのだろうか。
首を振って、のろのろと席に戻る。谷くんは問題集に視線を落としていた。
「みちるさん、もうすぐ誕生日なんですか」
「ちょうど今年の父の日がね」
会話が漏れ聞こえていたのだろう。私は咎めずに淡々と答える。谷くんがほっと息をつき、それから明るく笑った。
「誕生日パーティーとかやらないんですか?」
「やらないかな」
「えー、じゃあ誕生日デートとか」
「彼氏いないし……」
「みちるさん本当に可愛いのに! しかも俺に勉強教えてくれるくらい優しいし、リアルガチでモテそうなのにな〜」
「谷くん」
たぶん、慰めてくれているのだと思う。しょうもないことを言って気をそらしているのだ。けれど、今の私はそれに乗る余裕がなかった。
「谷くんってなんでいつも思ってもないこと言うの?」
「は……」
彼の顔がこわばる。しまった、と思っても口は止まらなかった。
「谷くんが本当、とかガチでとか、真実であることを強調するときはたいてい嘘だよね。それはここに来る女の子にもそう。好きとか可愛いとかスラスラ言って、女の子をその気にさせて、結局怒らせてる。それを繰り返す。なんで?」
「……今日のみちるさん、意地悪ですね?」
「今日は谷くんをいじめたい気分かも」
睨みつけると、谷くんはうろうろと視線を彷徨わせたあと、ふーっと重い吐息を漏らした。
「別に、俺から何かしたことは無いんですよ」
「というと?」
首を傾げる。彼は開き直ったように私を真正面から見据えた。
「いつも向こうから声をかけてくるから、それにノリを合わせてるだけです。告白してくるのも向こうから、手を繋ぐのも向こうから。キスだって俺からしたことは一度もない。……紳士的でしょ?」
自嘲するように薄い笑みを浮かべる。
けれど、と私は目を伏せる。
店を出ていくときの女の子の顔がちらつく。彼女たちはいつも眉を吊り上げていて、でも瞳は潤んでいて、頬は真っ赤で……ざっくりと、傷ついていた。
それはきっと――。
谷くんが頬杖をつき、私をじろりと見上げる。
「だから、あんなに怒られる理由が分からないですよ。……俺の行動を見れば、俺が何言ってたって、結局何もしてないって分かるはずなのに」
「……でも女の子たちは、谷くんを好きなんだよ」
「……はは」
乾いた笑みで、彼は告げる。
「それが俺には良く分かんねえよ」
その瞳の荒みっぷりに気圧されて黙り込んでいると、谷くんが勢いよく立ち上がった。問題集をカバンに放り込み、大仰に腕時計を覗き込む。
「やべっ、俺そろそろ時間なんで帰りますね!」
「……うん、じゃあね」
ゆるゆると手を振る。谷くんは軽く片手を上げて、振り向かないまま扉をくぐる。
常連を一人失ったかもしれない。マスターには悪いことをしたな、と少し反省した。
最初のコメントを投稿しよう!