薄暗い居間で

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 彼女はため息を吐いて、一人で続ける。 「綺麗な海を見て、二人で追いかけっ子をやって、本当に楽しかったね」    僕は頷いた。  忘れもしない。一番幸せな思い出だ。  誰もいない夕暮れ時だった。  波の返す音が、鼻をくすぐる潮の香りが、足元の砂の感触が、何もかもが新鮮だった。  海斗と名付けた親の気持ちが初めて分かった瞬間だった。  雄大な水平線はどこまでも続きそうで、心の中で二人の未来と重ねていた。  赤い光がたなびいて、キラキラ輝いていた。  空と海のコラボレーションはすごかった。海がまるで空の鏡のようだねと言ったら、当たり前でしょと言って君は笑ったね。  空の色を海が映すなんて、それまで知らなかった。興味がなかった日々が勿体なかった。  海に行こうと言ってくれた君には、いくら感謝しても足りない。  美しさに見惚れて、時が経つのを忘れた。いつまでも眺めていたくなる景色だった。  沈みゆく太陽を前に、君は急に走り出したんだ。  あの頃は白いワンピースを着ていたね。麦わら帽子がよく似合っていたけど、風に飛ばされないか心配したよ。  捕まえて! といたずらっぽく微笑む君は天使のように可愛らしかった。麦わら帽子を押さえながら走る姿は素敵だった。  僕がプレゼントした帽子だったけど、大切にしてくれていたね。気に入ってもらえたようで、とても嬉しかった。  互いに水を掛けながら走って走って。びしょ濡れになってもそれでも走って。  辺りが星空に照らされる頃には、疲れ切って二人で砂浜で眠ったものだ。  その時つないだ手の温もりは、忘れられない。 「思い出しちゃうよね。砂で汚れて二人で笑い合って。寒くて風邪を引いたっけ。先生は怒るし、友達には笑われたけど、楽しかったよ」  陽向は自嘲気味に笑って、頬を濡らしていた。  嗚咽を漏らしている。  歯を食いしばり、両肩を震わせる。  声を掛けられる者はいない。彼女から連絡しない限り、一人暮らしの彼女を慰めるられる者はいない。  しばらくすると、陽向は深呼吸を始めた。  いくらか呼吸が整ったようだ。  テーブルにもたれかかりながら、ゆっくりと立ち上がる。  フラフラした足取りで、棚に近づく。  新居で使おうと、二人で買った木製の棚だ。  棚には、麦わら帽子とフォトフレームが置いてある。フォトフレームには、僕と彼女のツーショット写真が飾ってある。  二人そろって笑っていた。   「本当に楽しかったよ。でも、どうして……どうして一緒になれないの?」    陽向は写真に向かって呟いた。  その声と小さな肩は、頼りなく震えていた。   「好きだよ。今もずっと」  僕はどうすればいいのか分からなかった。  そんな赤裸々な告白は初めて聞いた。  僕を可愛らしくからかったり、僕の無知を笑ったりした。  とびっきりの笑顔で迎えてくれていた。  彼女の告白に、答える事はできない。答えても伝わらない。声を届けられない。  さみしげな背中に触れても、すり抜けるだけだ。抱きしめる事もできない。  あまりにも情けない気分になる。  彼女は振り返った。  僕と目が合っているのに、気付きもしないだろう。  気づいてもらえる努力もできない。   「海斗がいなくなってから、ずっと寂しいよ。いっその事、私もこの世をおさらばしちゃおうかな」  陽向は台所の方向に目を向ける。  包丁やナイフがあるだろう。  それで自殺をはかるのか?  僕はぞっとした。やめてくれと叫びたかった。  その想いが届いたのか、彼女は首を横に降った。 「痛い想いをするのはめんどくさいや。綺麗なまま死にたいし」  そう言って、引き出しから大量の睡眠薬を取り出している。  僕の想いは届いていなかった。  僕の手は、無情にも彼女の手をすり抜ける。ワインで睡眠薬を飲み込む彼女を見守るしかできない。止める事ができない。  陽向は床に両膝をつき、倒れ込む。 「海斗……一緒になろう」  そう言って、ゆっくりと目を閉じていった。  眠るように死んでしまうつもりだろう。
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