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「壱道さん、お疲れ様です」
捜査一課に一番乗りで到着した木下琴子は、夜勤明けの成瀬壱道に声をかけながら鞄を置いた。
「昨夜は大変でしたね」
課長である小国から電話がかかってきたのは夜中の2時だった。
酔っ払った中年男性が、妻を人質にアパートの自室に立て籠もっているということだった。
『成瀬と管轄の交番の警官で説得に当たっているが、強行突破も視野に入れている。安土寺だ。向かえるか?』
琴子が慌てて着替えている途中で再度、電話が鳴った。
『ーーー必要ない。来るな』
名乗りもせずに成瀬はそれだけ言い残すと通話を切った。
こういう時に折り返し電話をかけると、彼の機嫌を損ねることを知っている琴子は、いつでも急行できるようにシャツとチノパンを身に着けながら床に就いたのだった。
「酔っ払いなど取るに足らない」
成瀬はふっと鼻で笑いながら足を組み直した。
「説得するふりをして隙を見て夫人を保護し、取り押さえて連行した。留置所でいびきを立てて寝て起きたら、何一つ覚えていないときたもんだ。とんだ抜け作野郎だった」
「そうだったんですか。でも昨夜は雨だったから、みなさんーーー」
言い終わる前に成瀬は盛大なくしゃみをした。
「大丈夫ですか?」
慌ててデスクのティッシュ箱を渡すと、成瀬はそこから一枚とって鼻に当て、引き出しを開けた。
「あ、ちょっとーーー」
琴子が思わず声を上げると、成瀬は首を傾げた。
「マスク、入れておいたはずなのだが」
その発言に琴子はぎょっとして成瀬を覗き込んだ。
「―――壱道さん?」
「何だ」
成瀬がただでさえ目つきの悪い目の下に、大層なクマをこしらえた顔で琴子を睨む。
「……そこ、私の席ですよ?」
成瀬が驚いてピンク色のひざ掛けがかけてある背もたれを振り返り、そのあとデスクの上を見た。
訪問した幼稚園からもらったまるでプリンセスのような似顔絵の横に、咲楽のガラスプロムナードで買ったストームグラスがきらきらと光っている。
「…………」
まだ信じられないという様に目を見開いている成瀬に、琴子は近づき屈んだ。
「失礼します」
言いながらその額に手を当てる。
「―――壱道さん。すごい熱…」
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