43人が本棚に入れています
本棚に追加
スマホが振動してメッセージが届いた。急いで確認する。月子さんだ。
『遅くなってごめんなさい。ロータリーに車を停めています』
僕は慌ててすっかり冷えたコーヒーを飲み干し、荷物をリュックにしまい、しまい忘れたナイフをジャケットのポケットにつっ込んで店を出た。
駅前のロータリーを見ると、大きめの白い外国車が停まっていた。僕は右側にまわって車に乗り込んだ。
「大志君ごめんね、遅くなっちゃった。行こう」
月子さんはいつも通り僕に声をかけると、車を発進させた。車内は月子さんの香水の香りが漂っていた。
「お疲れさまです。月子さん、運転代わりましょうか?」
「いいえ、大丈夫」
月子さんはいつも通りこたえた。もし事故にでもあって、運転していたのが見ず知らずの若い男だったら、月子さんの夫は驚くだろう。
車内にはいつも気持ちのいいクラシックの音楽が流れていた。それは、音楽にあまり詳しくない僕でも耳にしたことがあるようなピアノ曲だった。
月子さんはいつもより口数少なくハンドルを握っていた。
どうしたんだろう、仕事で何かあったのだろうか。
僕が月子さんの仕事の悩みを聞いたところで、解決の道筋を与えることなどできない。小さくため息をついて車の窓から夜景を見た。
「ああ、今夜は下弦の月ですね」
「本当だ」
「下弦の月といえば、僕、源氏物語に好きな短歌があるんです」
「どんな?」
月子さんの声が明るくなった。月子さんはこの業界ではめずらしく理系出身だが、文学の話が好きだった。
「心いる 方ならませば 弓張りの月なき空に 迷わましやは――
もしもあなたに真心があるなら、月のない暗い空でも迷わず私のところに来られるはずでしょう」
「いいわね。でも私は、恋人が暗闇の中を迷いに迷って、空が白んだころにようやく自分のところにたどり着く、みたいな方がいいわ。時間が切なく過ぎていくのが素敵」
月子さんはちらっと僕を見て笑った。それはいつも人を待たせている側の発言だった。
待つのは辛いですよ、月子さん。
暗い夜空の下に乱立する高層ビルが煌々と輝き、光の壁のようだ。僕たちは夜光虫のように消えない都会の光に吸い込まれていった。
最初のコメントを投稿しよう!