コスメティック・シールド

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「ああ、暑い。メイクがよれる」  この言葉は私ではない。成瀬だ。  成瀬は週に一回、メイク徘徊のために私の働くネカフェに来るようになった。  店に来る時はいつもの成瀬。それから一時間ほどかけて自らにフルメイクを施し、一度店を出る。そして数十分、街をうろうろし、また店に来て、今度は三十分ほどでメイクを落として帰るのだ。  いや、正しくはメイクをし直しているのだろう。彼は普段からメイクしていると言ったから。  ネカフェの短時間利用を繰り返すというのは非常にコスパが悪かろうと思い、私は店のクーポン券を成瀬に分けてやった。すると成瀬はいたく喜び、それ以来、メイク徘徊の後に時間が合えばお茶をご馳走になっている。 「汗でよれたりするの? 見た目には全然分からないよ」 「よれるよ。女子なら分かるだろ。って、弘川は大して気にしてなさそうだな」  軽くバカにされたが、事実なので否定しない。私はおそらく成瀬の半分もメイクに時間をかけていない。  成瀬のくっきりはっきりしている目も、黒々とした睫毛も、毛穴も見えぬ滑らかな肌も、全てが成瀬の技術によるものだった。彼は毎朝スーパーナチュラルメイクを施してから登校しているのだ。 「なんでメイクし始めたの? すっぴんでも成瀬は顔が整っていそうだけど」  気楽に尋ねてみた私に、成瀬は眉を寄せた。きれいな眉間にシワがよる。 「内緒にしてほしいんだけど」 「うん」 「ここに傷がある」  成瀬が指差したのは右の眉の少し上。私も眉を寄せ目を凝らして見たが、全然分からず首を捻る。 「中学の頃さ、親父が荒れてて近所でも有名だったんだけど。ある日大暴れした親父が振り回した灰皿がここに当たっちゃって。鮮血ドバーよ」 「うわあ」 「それでここ縫ったら、傷跡に眉毛が生えてこなくなっちゃってさ。そしたらクラスの奴からフランケンシュタインってからかわれるようになって」 「ええ?」  怪我をした部分に毛が生えてこなくなることは普通のことだ。その程度のことでフランケンシュタインとは、思春期という狂気は恐ろしい。 「それで眉を描くようになったのが最初。バレないように少しずつ傷を隠していってさ、段々眉が生えてきたように見せかけたらフランケンシュタインって呼ばれなくなったね」 「すごい技術だね」 「メイクってすごいよな。殴られて青痣になっても、上手く隠すことができる。自分の手で全然違う人間になれるし、鎧を着てるみたいじゃん。女の子は羨ましいし尊敬する」  その尊敬する対象に私は入っていないようだけれど、まあいい。 「それでフルメイクするようになったの?」 「そう。メイク面白いし、なんか、やったら外を歩きたくなるんだよなあ」  成瀬はフルメイクの後、人のいない道をぶらぶらするようにしているため、驚かれたり振り向かれたりすることはほとんどないという。  たった一人、違う自分になって街を歩くだけ。健全じゃないか。 「でも、メイクしなくても平気になりたいよ。プールも温泉も行かないようにしてて。困る」 「そりゃあ困るね」 「親父が荒れてたのもフランケンシュタインって呼ばれてたのもすごい昔なのに。思い出しちゃうんだよなあ」  それから成瀬はずずずと音を立ててジュースを飲み干した。 「そうだ、弘川もメイクしてやろうか」 「やだ」  私が断ると、成瀬はほんの少しだけ不服そうにまた眉を寄せた。
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