『夕飯前』

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今日は金曜日。 週末を前にして、私の勤めるそのデザイン事務所の中は控えめな喧噪に満ちていた。 夕方までには出版社に依頼中のデザインデータを送信しなければならないとのことであり、その仕上げの作業に皆が勤しんでいる。 このデザイン事務所の主は30前の女性。 仮にN女史としておこう。 N女史が産み出すオリジナリティに満ちた、その可憐かつ繊細なキャラクターデザインは近年大きな評判を呼んでおり、様々な媒体が挙って彼女のデザインを用いている。 私がこの事務所にアシスタントとして勤めるようになってから二年ほどが経つ。 アシスタントとしてこの事務所で働いているのは私も含め三名。 いずれも二十五歳前後だ。 N女史とアシスタントの私たちは、ほぼ同年代ということもあり、デザインの作業に取り組む上で非常に気が合っているし、そして、プライベートにおいても行動を共にすることが多々ある。 作業が早く終わった時など、取材と称して一緒に繁華街へと出掛け、タピオカ屋などで雑談に興じたりすることもあるものだ。 週末への期待感が私たちアシスタントの手を早めたのだろうか、三時過ぎには私たちに割り振られたデザインの作成は完了した。 それぞれから提出されたデザインを細かく確認するN女史。 眉根を顰めデザインを見つめる彼女のその真剣な表情は、凜とした、されど何処か優しげな美しさに満ちている。 手早く確認を済ませたN女史は、私たちに要領良く修正箇所を示す。 指示を受け、私たちは修正作業に取り掛かる。 このやり取りは、まさに阿吽の呼吸といった感じだ。 程なくして、私たちは修正を終えたデザインをN女史へと提出する。 N女史は、私たちから提出された修正済みデザインを彼女自身が作成したベースのデザインへと組み込んで、依頼のデザインを完成させる。 そして、出版社へと送信する。 程無くして出版社の担当から電話が入る。 応答するN女史。 自然に耳へと飛び込んで来る電話から漏れ聞こる会話を聞いていると、先程のデザインは予想以上の出来映えであったらしく、出版社の担当は電話の向こう側で大いに喜んでいるようだ。 来週の初めには次の仕事を依頼したいと出版社の担当は述べ、通話は終了した。 デザイン事務所の中にほっとした雰囲気が流れる。 やはり、一仕事やり遂げた感覚というものは、何度味わっても心地良いものだ。 今週の仕事は終わりだと告げ、皆を労うN女史。 雑談を交わしつつ作業の後片付けをし、そして帰り支度に取り掛かる私たちアシスタント。 ふと、雑談が途切れる。 何とは無しにN女史を見遣る。 N女史は、壁に掛けられた時計を眺めながら、「間に合うかな?」と呟いている。 時計は五時少し前を指している。 間に合うとは一体、何のことだろうか? 実はまだ作業が残っているのだろうか? 私はN女史に尋ねてみる。 「もしかして、まだ作業とか残っているんですか?」と。 N女史は考え込むような口調で答えを返す。 「いや、作業はもう終わったんだけど、これから恵比寿駅のほうに行こうかなと思って。」 と。 そうか、と私は独り、その理由に納得した。
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