『夕飯前』

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最寄り駅から電車に乗り、恵比寿駅に到着したのは5時半頃だった。 「余裕で間に合いましたね。」とN女史に話し掛ける私。 N女史は言葉を返す。 「いや、急がないと駄目だと思う。」 その表情には、何故か焦りの色が浮かんでいるように思えた。 そして、N女史は急ぎ足で改札へと向かう。 呆気に取られる私。 エキナカのチョコレート店に行くのではなかったのか? そう狼狽える私と、N女史との距離は急激に開いていく。 私の気配が薄れ行くことを感じたのか、N女史が振り向く。 その表情には怪訝そうな色が浮かんでいる。 そして、何処かしら殺気めいた雰囲気すら漂わせている。 その雰囲気に気圧された私は、知らず知らずのうちにN女史の後に続いて駅の改札を出ていた。 改札を出たN女史は、恵比寿駅の西口へと向かう。 その足取りからは焦りすら感じられる。 遅れぬよう急ぎ付いていく私。 けれど、N女史が一体どこへ向かおうとしているのかさっぱり分からない。 唯一のヒントは、事務所でN女史が口にした『夕飯前』という言葉だった。 『夕飯前』と言うからには、何か甘いものの類だろう。 私はそう考える。 そして、こう思った。N女史がここまで焦りを示すほどに強く執着するものならば、相当に期待できるものに違いない。 N女史が何処に向かいつつあるのかは分からない。 けれども、私はむしろサプライズ的な興味すら抱きつつあった。 N女史の目当てはケーキだろうか、チョコレートだろうか、或いは和な甘味だろうか、と。 恵比寿駅の西口を出たN女史は、そのまま西方向へと歩みを進める。 チェーンの飲食店が並ぶアーケード街を抜け、居酒屋や焼き肉屋が居並ぶ裏通りを駆けるようにして歩み行く。 そして、住宅街へと差し掛かる。 一体何処に向かうのだろう? 隠れ家的なカフェなどだろうか? そんな私の疑問を微塵も斟酌することなく、N女史はひたすらに歩みを進める。 何かの施設のものなのだろうか、長い塀の脇を歩き、そして目黒川に差し掛かる。 一週間前は桜の花も見事だったであろう、目黒川に掛かる桜並木は、新緑が芽吹き始めたその梢を、未だ冷たさの残る春風に揺蕩わせている。 そんな情景に目をくれることも無く、N女史は只管に歩みを進める。 漸くして、大きな道路へと突き当たる。 道路を横切る横断歩道を渡ったN女史は、その歩む方向を左へと変える。 この時点で5時50分だった。 「間に合いそうだね」と、恵比寿駅を出て以降、初めて口を開いたN女史。 その表情は、どこかホッとしたような雰囲気を湛えていた。 「間に合う、ですか?」と疑問を口にする私。 N女史は微笑みながらその右手を挙げ、行く先を指差す。 「ほら、今日はそんなに列も長くない。」 その声は喜色に溢れているように思えた。 私はN女史が指差したその先を見遣る。 そして、愕然とする。 その先には3人ほどの男性が列を為していた。 その列の頭上には、黄色いテント看板が見える。 まだシャッターの閉まった店内からは、あの匂いが漏れ出してくる。 店内に満ち満ちているであろうあの匂いが、恰もダムの放水口から溢れ出すかの如く店外へと迸り出ている、そのように思えた。 そう、そこは「ヤサイマシニンニクアブラカラメ」という呪文でお馴染みのあのラーメン屋さん、その目黒店だった。
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