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ボイラーに火をつけ、朝生の支度を始める。朝生とは、日持ちのしない、その日のうちに売り切るお菓子。お団子、大福などのことで、今の時期は桜餅がメイン。
真琴はこの『ましろ堂』という老舗の和菓子屋に勤めている。
店に続く工場に、いつも真琴が朝一番に来てはその作業を始めていた。といっても、菓子作りが店長と奥さんと真琴、あとは売り子のアルバイトが2人、という規模。
スカイツリーが真向かいに見える――しかし惜しくもビルで半分が隠れるという残念な立地。店も工場もそれぞれが6畳ほどのコンパクトな大きさだが、土産物には『ましろ堂』と、知る人ぞ知る意外な人気店だった。
その名物の一つ、桜餅……。
作り方はわかっている。小豆の煮加減も、桜色の生地の焼き方も、詰める餡の量も。それを包み込む大島桜の葉の塩漬けも、塩加減、白梅酢の量共に店長と奥さんと全く同じに作っている。
なのに、味が違う、と感じる。
「気のせいよ」
奥さんは笑うし、店長も「この道30年のオレにも違いは感じねえ」と言う。「ただお前がそう思うなら店には出さねえでおくよ」と言ってくれた。
他の、中生と呼ばれる朝生より日持ちのする最中やどら焼きでも。干菓子の落雁でも。こんな違和感はない。
桜餅だけ。
――しょっぱい。
餡にちょっとだけ加える塩を目一杯減らしたり、葉の方の酢も薄めたりして何なら入れずに作ってみたけど。どうしてもそう感じてしまうのだ。
お客さんが何人か入ってきた。その一人の肩に、花びらが2枚乗っていた。
工場にいると外が見えないけど。桜、はらはらかな。それともびゅうびゅう吹雪かな。
頭の中で切り取られた映像が鮮明すぎて、目を閉じた。閉じても見えてしまう。ずっと真琴の中に残り続ける風景。
引越しトラックに乗り込むジャージ姿の親友。真琴の方を振り返ったのかどうか、急に強まった風に乗った桜吹雪が邪魔をした。視界が開けたときには、トラックはもう後ろ姿で遠ざかっていた。
「ええー、真琴さんて、四板袈乳業の陸上代表選手だったんですか!」
学生アルバイトの雨野が、屈託なく真琴に尋ねた。どこからその話題に転がったのか。
この問答が一番めんどくさい。「そうよ」と答えると嘘になる。「違う」と答えると理由を説明する羽目になる。
で、結局「何か問題でも?」と突っぱねる空気を醸し出すのが常だった。が、雨野は「足速いんですねえ。短距離ですか、長距離ですか」と重ねて聞いてくる。こういう空気読めない興味本位突っ込み型に、真面目に説明する気になれない。
「バカね、出場なら誰でもできるのよ。参加することに意義があるってね」
おばちゃんアルバイトの馬場がもっともらしく雨野をしたためる。こういう知った顔をした八方納め型にも説明は要らないと思う。
まともに相手をしたくない。だからもうこの話はおしまい。そういう合図のつもりで相槌を打ってしまった――「ま、そういうこと」と。
ガラスケースに菓子を並べながら答えたその一言。それは嘘の肯定だから嘘――。
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