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3、心機一転
黄色い歓声が朝の教室で巻き起こる。窓際の自席でスケジュールを確認していた私は、何事かと、声のしたドアの方向に目を向けた。
「若菜! おはよ」
キラキラの笑顔を浮かべて片手を上げているのは、私の主である奏月 俊だ。反対の手には白い紙袋。今朝は気温が上がったからだろうか、ブレザーを脱いでシャツの第一ボタンを開けている。ただドアの奥に立っているだけなのに、まるでそこにだけいきなり花畑ができたような爽やかさだ。
それにしても、奏月が自分で私のクラスに来るなんて珍しい。朝の健康観察はたいてい私が特待クラスに赴いている。まだ朝のホームルームまで20分あるのに、来るのが遅いと文句でも言いに来たのだろうか。
「わざわざご足労いただき、ありがとうございました。何か不手際がございましたか」
私は周りの興味津々な視線に恐縮しつつ、奏月のもとにかしこまって歩み寄った。奏月は私の言葉を聞いてキョトンとした顔をする。
「えっ、いやそういうつもりじゃなくて、毎日若菜に来てもらうのは申し訳ないから、こうやって自分で来たんだけど」
「……そうなのですね。ありがとうございます。では場所を移動して行いましょうか」
奏月家と神立家の繋がりは、できるだけ人に知られてはいけない。私の立場が『影』と呼ばれているのもそのような理由がある。ひっそりと主を支える者は、目立たないことが一番なのだ。特待クラスまで行っていたのにはそういう意味もあった。
この高校には私の所属する普通クラスと特待クラスがある。ほとんどの生徒は普通クラスだが、抜きん出て優秀であったり課外活動に力を入れている生徒が特待クラスに選ばれる。奏月は二年生で7人しかいない特待クラスの内の一人なのだ。その内四人はほぼ登校してこないし、二人も自分の興味ある分野に忙しい。つまり特待クラスの教室は、ほぼ奏月の貸し切り状態だ。
だから教室に来られるのは正直迷惑である。今日だって教室に来ただけでこの人垣だ。雲の上の存在である特待クラス生かつ名家の御曹司、文武両道で顔も整っているという奇跡的ないいとこ取り。気さくに話していたら、面倒くさい噂がすぐに飛び交う。
「え、あのぅ、二人って仲いいんですか?」
脇にいた小柄な女子が話しかける。奏月は無邪気に愛顔でうなづいた。
「うん、そうだよ。幼馴染だし」
辺りから驚きの声が上がる。その中には悲鳴も混じっていた。
「お、幼馴染! 若ちゃん、なんで教えてくれなかったの」
「いや……」
教える必要は無いし、こんな感じになりそうだったから避けていたのだ。その後もクラスメイトの追求が続き、私は頭痛がする頭を抑えた。仕方ない、仕事第一。そうして気合を入れ直した私は無事に任務を遂行すべく、なんとか奏月を引き連れて教室を抜け出した。
「あー、若菜。もしかして……迷惑だった?」
「いえそんなことは」
ある。大アリだ。しかしそれを口に出すことができないので、私は直前で言葉を切った。今私達は、人気のない階段の踊り場で向き合っている。
「逆効果だったか、難しいな……」
ガシガシと頭をかきながら奏月が何かつぶやいたが、私は気にせずにスマホを取り出して奏月を見上げた。
「体調はいかがですか」
「大丈夫だよ」
「食欲はありますか」
「大丈夫」
「しっかり眠れましたか」
「あー……」
いつもは滞りなく「大丈夫」という声が返ってくるのだが、今日はなぜか言葉がつまったので私は目を見開いた。
「眠れないのですか? 何か原因に心あたりは? 仕事量が多すぎるのでしょうか」
「いやいやいや、ごめん。大丈夫。遅くまでスマホ触ってて寝付きが悪かっただけだから」
慌てたように奏月が否定した。私はその様子にどこか引っかかりを覚えたが、主を信じるのが『影』の鉄則なので素直にうなづいた。
「そうですか。就寝前のスマートフォンの使用は気をつけてくださいね」
そう言いながらもメモ欄には『要観察』と書き込んだ。少しの違和感も見逃してはいけない。それが私の仕事だから。
「……あのさ、若菜って寝る前何してるの?」
「え?」
唐突な質問にうっかり敬語を崩してしまった。しかし、それを全く気にすることなく奏月は、「ちょっと気になって」と促した。私は目をしばたく。
「寝る前……。そうですね、ストレッチはしますね。あと、温かいミルクを飲みます」
「ミルク?」
「はい、よく眠れるんです」
「へぇ、いいね。今度やってみようかな」
顎に手を当ててうなづいた奏月に、私は首をかしげた。奏月が私のことを聞くことは無い。何か仕事に関係あるのだろうか。
「奏月様、ご依頼のお話でしたらもっとわかりやすくお教えください」
「いや、ただの雑談だけど」
「雑談!?」
私は素っ頓狂な声で復唱した。会話の九割は業務連絡である昨日までの奏月に比べると、本当に今日の奏月はおかしい。
「やはり、体調が悪いのではないですか」
「え、」
「それとも何か隠されています? 大事になる前に申告していただきたいのですか」
そう言って詰め寄ると、気圧された様子の奏月が一歩下がった。突然の沈黙。その後、しばらくしてから観念したように、奏月は下げていた紙袋からある物を取出す。
「もっとタイミング見ようと思ったけど……はい、これ。感謝の気持ち」
ピンク、白、黄色。鮮やかな色とりどりの花束が私に差し出される。腕で抱えるほどの大きなものだ。私は目をパチクリさせながらおずおずと受け取った。
「……これは、どなたにお渡しすればよろしいのですか?」
「えっ、いや、若菜にだけど」
私に花束。これは言われなくても任務を理解せよ、という新たな課題なんだろうか。難題を前に眉根を寄せた私は、深刻な表情をして頭を下げる。
「前処いたします」
「なんでそうなるんだ……」
奏月はなぜか頭を抱えて絶望的な表情をした。その時、タイミングよくチャイムがなる。私達は微妙な雰囲気のまま、各々教室へと退散していった。
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