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1、秘書兼警護役
「あの、神立さんってスイーツ好き?」
同じクラスの飯尾くんがおずおずと尋ねてくる。彼はすごく思いやりがあって、今も自分の仕事ではない図書委員の仕事をカウンターで手伝ってくれている。
「うん、好きだよ」
「じゃ、じゃあさ。今日開店したばかりの駅前のカフェに終わったら行かない? 美味しいショートケーキがあるって聞い――」
「若菜、帰るよ」
わくわくと話を続けた飯尾くんの言葉は、突然図書室にやってきた人物の言葉によってかき消された。
「もう遅い時間だし、送ってく」
来訪者はそう言うなり、サラサラの黒髪と綺麗な茶色いアーモンド型の目をこちらに向ける。見慣れた顔だが、彼はいつも相変わらず涼し気な雰囲気をまとっており、改めて芸術品みたいだと感動してしまった。
「あれ。奏月って部活でしたよね?」
「さっき終わった。若菜は図書委員の仕事終わりそう?」
「あ、はい。この本を棚に戻したら終わりです」
そう言いつつも手元にあった4冊の本を抱えて本棚へ向かう。図書室の一番右端、古典の棚だ。
「あ、神立さん、俺やるよ!」
「ありがと。半分お願い」
飯尾くんが追いかけてきて私の真横に立ち、上半分の本を受け取ろうとした。しかし、その前に一気に腕にかかっていた本の重みが無くなって、私は反対側に首を向ける。
「……奏月?」
「残りは全部やってくれるよね、飯尾」
そうなぜか冷たく言い放って本が飯尾くんの腕にドンと置かれる。飯尾くんは目をパチパチしばたきながら、ややあってうなづいた。
「ありがと」
奏月はポンポンと上機嫌で飯尾くんの肩を叩き、反対側の手で私の腕を掴む。
「ほら行くぞ」
「えぇ、でも、飯尾くん一人に任せるのは――」
私が怪訝な顔で抵抗すると、奏月は眉根を寄せて私の瞳を覗き込んだ。同時に綺麗な顔がドアップになって少し焦る。奏月は至近距離でも動じずにため息をつくなり、一言二言私に耳打ちをした。私はそれを聞くと、骨髄反射的に素直にうなづいてしまった。
「わかりました。……じゃあ飯尾くんごめんね」
「まあ別にいいけど」
そう言ってから、飯尾くんは煮え切らない表情で口を再度開いた。
「ていうか一つ質問いい? お前って特待クラスの奏月俊なの」
本を抱えた飯尾くんの視線は私の隣に立つ奏月に向かっていた。奏月はふと真顔になってその視線を正面から受け止める。
「そう。若菜の幼馴染。よろしく」
口調は全くよろしくしたくないようなテンションである。でも、何かをそこから読み取ったのか、飯尾くんは顔を伏せて「マジかよ」とつぶやくなり、諦めたような表情で私に手を振った。
「行って行って。もう余計なことはしませんから」
「余計なこと?」
「若菜は気にしなくていいよ。じゃ、飯尾お疲れ」
ぐいぐいといつもより強く引っ張られ、私はよくわからないまま図書室を出る。そしてそのまま昇降口までずるずる引きづられるように歩いて、靴を履くときにようやく手を離してもらえた。
「あの、奏月様。私は一人でも帰れます」
「6時過ぎで結構暗いし、女子が歩くには危険だよ」
「そうではなく……」
私は困ったようにローファーを掴んだまま目を泳がせた。
「私はあなたの秘書兼警護役です」
「そうだね」
奏月は適当に返事をしながらローファーを履き、先に昇降口の外に出た。ほぼ真っ暗になった景色の中で外灯に照らされた奏月の髪に、天使の輪のような光のリングができていた。それだけで絵になってしまうような美しい人間だが、聞いているんだかいないんだかわからない態度に徐々にイライラしてくる。
「自分の身は自分で守れますし、登下校は奏月様のお父様の言いつけで各自帰宅しなければなりません」
後半は強い口調できっぱりと言い放った。しかしそれを物ともせずに奏月はクスッと笑う。
「関係ない。だって若菜は俺の『影』なんだから、俺が進む道に伸びる影のごとく、ひっそりと主人の傍らで命令を遂行していればいい。それが神立家の宿命だ」
奏月家は日本屈指の名家で、巨額の資産を有している一大財閥だ。奏月俊はその一家の跡取りである。一方神立家は江戸の昔から奏月家の補佐役として支え続けてきた裏の家系で、代々当主を守り、死ぬまで支えることがこの世に生を受けた瞬間に決定している。
そして次期当主の奏月俊の秘書兼警護役、通称『影』に選ばれたのが神立若菜――つまり私なのだ。
「でもその言いつけは本当に理解できないよ。なんで警護役なのに帰宅時に同行するなって言ったんだか」
主人の口から漏れた疑問に、遅れて昇降口から出た私は仕事用の顔で応じる。
「警護を日中に限定し、仕事以上の感情を抱かないようにするためです。だいぶ幼い頃にお父様がおっしゃられたことですから、奏月様はお忘れになっているのかもしれませんが」
「なっ……」
両側に開いた黒い柵の校門をくぐり抜けたところで奏月が絶句したまま立ちすくんだ。なぜか急にあたりの気温が下がった気がする。三寒四温の春であるし、急激な気温の変化も仕方がない。
「どうされました?」
「若菜は……俺の許嫁なんだよね?」
奏月と私の視線が交わり、強い春風が二人の間を吹き抜けた。
「それはありえません」
「な、んで」
バサリと切り捨てた私に目をむいて奏月が取り乱す。ちょうどその頃、私たちの前に黒塗りの高級車が止まった。予定通りだが一応ナンバーと中の運転手を確認し、いつもと同じであることにホッと息をつく。そして私はチラリとその車を一瞥し、奏月に向かってお辞儀をした。
「神立家と奏月家は恋愛禁止。主従関係を守るためです」
「……初めて聞いた」
「お坊ちゃん、お迎えにあがりました。一日お疲れさまです。どうぞお乗りください」
車から出てきたスーツ姿の執事が一礼をして後部座席のドアを開ける。無駄のない動き。さすが奏月の使用人だ。しかしそれをなんとも恨めしそうに見届けた奏月は、やがてゆっくりと車に乗り込んだ。
黒い墨汁を流したような空に、薄く光る月だけが浮かんでいた。私は車が走り去るのを見届けてから、静かに足を家の方向へと向けた。
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