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十七、狐と狸の話し合い、にもう一匹
応接室はほかとおなじ異国趣味で広く、細工をほどこした卓と椅子が数脚おかれていた。窓には幕が引かれているが、窓だけではなさそうだった。恵子は案内してからいったん出て、またもどってきた。髪が整えられていた。
部屋を見回す戸善の視線をたどっていう。
「だれもおりません。さ、どれでもおすわりください」
「そうですか。では御免」館の主がそういった以上幕の裏をたしかめるわけにもいかず、手近な椅子を引き寄せる。壁とは十分距離を置き、部屋の中央あたりにある小卓のそばにした。
「ならばわたしも」
「あ、あの、少々お近いようですが」左隣に来たが、真横ではなくわずかにさがった。
これは戸善も知っていた。人になにかいいにくいことをいう時や、説得したりする時は向き合わないものだ。経験則であり、知っている者には効果はないが、かといって椅子を動かして正面に向き直るのも意識しているようなのでやめておいた。
「ええ、すこし声をひそめてお話がしたいので。よろしいでしょう?」
ただうなずくが、香の匂いが暖かい気流となって鼻をくすぐる。
「では、わたしも小さく話しましょう。御用をどうぞ」
恵子は息を吸い、吐いた。
「弟と、黒鍬党についてです」
向こうからいってきた。なにかある。心を引き締める。
「雷蔵様と?」
「ええ、襲撃の件です。とうとう他国のかたに手を出しました。これは看過できません」
「わたしとしては大ごとにはしたくありません。両家と両国のためです」
「そのようにおっしゃっていただき、感謝いたします。戸善殿」
「いつ?」
「山中でお会いしてからすぐ調べさせました。こたびの任務はよほど急だったのでしょう? あまりうまくお隠しではなかった」さっき声をひそめると言ったばかりなのに、もうふつうになっていた。戸善も合わせる。
「そういわれるとその通りでお恥ずかしい」
「調べ始めると、千草様の行動への不審が浮かび、そちらからもたどりました。諜報部の養成所に通っておられますね。それとあなたの書状です。暗号は解けませんでしたが、内容や宛先の頻度分析を行いました。ほんとうに筆まめなかただこと」
「そうですか。急で準備不足だったのは否めませんが、他国での活動が明るみに出た以上、覚悟はできています。しかし、できますればわたし自らの手で始末をつけさせてください。また、このようなことを申し上げる立場ではございませんが、わたしの首と引き換えにお嬢様の無事帰国がかないますよう伏してお願いいたします」
「とんでもない。お命をあまり軽くあつかわれてはなりません。この件はまだわたしの館から外へは出ておりません」
戸善は向きなおり、恵子の目を正面から見た。
「大牧家、雨宮家、御木本家。いいえ、三家だけではない。穂高国、月城国。みな仲良くし、平和と繁栄を享受できればよいのにと思いませんか」
訴えかけるような目だった。吸いこまれ、引きはなすことはできなかった。
「おっしゃる通りだと思います。しかし恵子様、それは遠い未来の話です。また、たゆみない努力も必要でしょう」
「いえ。これまではそうだったかもしれませんが、いまはちがいます。われらひとつになり、弟と黒鍬党の企みを打ちて砕きましょう」
言葉を検討し、考えて返事をする。
「申し訳ありません。わたしは他国のお家騒動に巻きこまれるつもりはありません。お嬢様もです。だからこそこの首でご容赦願いたい」手で首をたたくしぐさをしたが、態度が軽すぎ、真剣味に欠けてやしないかとすぐに後悔した。
「なぜです。なぜわかってくださらないのですか」しかし、恵子はその手振りが目に入らなかったかのように訴えかけてきた。
「同盟を組むにはおたがい腹の底から隠しごとなしでなければなりません。恵子様はまだお隠しになっているでしょう」
「そのようなことは……」
「隠し田はどうなさるおつもりですか」
恵子は戸善をにらみつけたが、その目はすぐに笑った。
「さすがは月城の忍び。油断ならぬ」声の調子が変わった。
「さしずめ、雨宮家に郷を割譲して減少した収入を補うため、農民がひそかに作っていた隠し田を手に入れようとなさったのでしょう? しかし雷蔵様はご家中での力を増すためにそれを利用しようとした、と見ておりますが、いかがでしょう」
恵子は声に出して笑い、その笑顔のままいう。
「そう。新たな隠し田の視察に行った帰りでした。あなたがたと出会ったのは」
「しかし、わかりません。この件における黒鍬党の役割です。もし同盟を結ぼうとおっしゃられるのなら、ご存じのことをすべてお話しください」
「条件を提示できる立場ですか」
「ここでこのようにお話をしている以上、あなたはそうだと考えていらっしゃるはずです。条件交渉になるのは想定しておられたでしょう」
「ふん、黒鍬党もいわばお家騒動なのですよ。党首丹下九郎と幹部の島倉秀則が対立しています」
「島倉殿にはお会いしました。農民に取材を行う都合上地元の顔役に筋を通さねばなりませんでしたから」
「なんと、そこまでは調べが行き届きませんでした。なかなか抜け目がありませんね」
「しかし、そのときに通行の安全を保障する誓いの盃を交わしたのですが、変ですね」
「かれらにとって盃はその程度の意味しかないのでしょう。しょせんはそのような軽輩です」
「ならば、お嬢様を誘拐しようとしたのは雨宮家を操ろうとしたのですか。なんとも愚かな連中だ」
「お恥ずかしいですが、その愚かな企みに弟が噛んでいます。雨宮家を後ろ盾にわたしを引きずりおろし、この直轄地を個人所有にするつもりでしょう」
「そこまでおわかりでしたら苦労はない。証拠を突きつけて隠居をせまればいい。黒鍬党はまあ、お目付け役を入れて実質解体ですね」
「戸善殿、お話が早い。そこに協力願えませんか。明日弟と話をし、隠居をすすめる予定ですが、月城国の者としてその場にいて圧力をかけていただきたいのです。やたらなことをすると外交問題にまで発展しますよ、と」
「いいえ。わたしはお嬢様につきしたがわなければなりませんので」
「警備なら源吾の手の者がつきます。信頼できます」
「もちろんそうでしょう。しかしわたしは自分の任務を果たします。お嬢様をおけがひとつなく深山守様のお膝元にお帰ししなければなりません。それが第一優先です」
「なんとしてもですか」
「なんとしてもです」
恵子は壁のほうを見る。
「では、しかたありませんね。千草様、雨宮家はいかがなさいますか」
幕が開いた。壁龕にすわって笑みを浮かべていた。さっきの恵子様に似た笑いかただなと戸善は思った。いやな笑いかただった。
「明慶、いや戸善殿。この件については後で父上によくおうかがいするが、わたしは恵子様にお力添えする」
「それはいけません。深山守様は御患いですぞ。これはまことです」
「わかっている。しかしみすみすこの機会を逃すのは諜報部員としてはぽんこつだろう」
恵子は、ぽんこつ、がわからないという顔を一瞬したが、文脈から意味をくみ取ったようだった。
「そのようなお言葉を自分に使わないでください。しかしながら、養成所での成績を考慮しますと、このような仕事には向いておられません」
「そうはいってもここまで聞いたのだ。やらねばならない。いや、わたしはやる」
「いけません。ならばわたし一人で参ります。帰国まで付き添えず、任務を果たせずという形になりますが、こちらの警備士がつくとのことですのでお帰りください」
「戸善殿、これは雨宮家の者としてわたしが決めたことです。御木本家は御木本家で独自に動けばよいでしょう」
「器にあわぬ背伸びはおやめくだされ! お聞きわけを!」
「わたしは子供じゃない!」
恵子が吹き出し、われに返った二人は真っ赤になった。
「どっちもどっちですね。しかし年上の分、戸善殿の負けです。冷静さを失うとはらしくない」
千草のほうを向く。
「けれど、千草様。あなたならおわかりと思いますが、大人が感情を御しきれなくなるほど心配をかけているのですよ。それでも弟のところに行きますか。結局狙いはあなたなのですからかなりの危険が予想されます。良いのですか?」
「ええ、行きます。わたしは自分自身を餌とします。そうすればかれらの気を引けるでしょう。またわたしは交渉ごとにおける盾になれます。近くにいればむやみな攻撃はできないはずです。死なせたりけがをさせたりするようなことでもあれば人質の価値がなくなりますから」
「感謝します。わが家にとって恥ずべき事件ですが、無事落着した暁には雨宮家に大きな借りができます。また、これをきっかけに長年のわだかまりが溶けることを望みます」
戸善に向き、じっと見つめる。
「どうかわれらの無理を通してはくださいませんか。任務大事はごもっともなれど、大牧家の安定は月城国にとっても不利益にはなりますまい。明日付き添っていただけるだけで安定と安心が手に入るのです。どうか、おねがいいたします」
「いや、そのように頭をさげられると困ります。しかし、このような状況とはいえ、千草様に正体がわかってしまった以上はこの任務、ほぼ失敗したようなものです。成果がまったくなく帰国するなど初めてです。悔しいといえば悔しい。だからなにか土産を持ち帰りたいと考えていました」
一回息を吸う。ふたりを見る。
「行きましょう。これほどの賭けをするのはひさしぶりですが、なんとか勝ちをものにしましょう」
壁に飾られた、まったく知らない怪物を退治している、まったく知らない英雄の絵を眺める。
「わたしは冒険は嫌いです。でもこれは大冒険ですね」
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