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二、すまじきものは諜報部仕え(回想の部 全六章中の一)
大雨が通り過ぎると季節が入れ替わった。朝夕はさほどでもないが、昼間の屋外は急に不快なほど暑くなった。人々は夏の訪れを感じた。
部長の執務室はいつも散らかっている。若者はそこらのものを静かに膝で押しやりながらすわった。
「すまんな、戸善。資料がたまる一方でかたづかんのだ。まあ、おかげで畳が日焼けせんがな」
そういいながら畠山部長は文机の向こうから戸善と呼び捨てにした若者を見た。机上には革表紙の書類挟みが置いてある。
部長はそれを軽くたたいていった。
「いい報告だ。さすがは戸善。新型ごおれむの実在とその性能、およびそれが今後の脅威にはならぬという結論。上はたいそう喜んでおる」
戸善はすわったまま一礼した。部長は微笑む。
「一年になるか。国を出てから」
「は。そのくらいかと。かの国では調査のため商人に身をやつしました」
「そのようだな。しかし、一度もうたがわれなかったどころか商人として利益もあげたとはたいしたやつよ」
「それは部の会計に入れております」
「いやいや、そういう意味ではない。おまえはそのような不正をする男ではない。わしは感心し、誉めておるのだ」
部長は茶をすすり、戸善にもすすめた。
「ところで、きょう呼び出したのはほかでもない。新たな任務だ」
戸善の目が鋭くなる。
「諜報ではない、支援および護衛だ。対象は雨宮家三女、小夜子嬢、呼び名は千草様」
目が鋭さを失い、疑問に見開かれた。
「そう、通常なら諜報部が受ける任務ではない。雨宮家の私設警備士か治安維持局の仕事だ。しかし、これは諜報部が行わねばならない。事情はこれから説明する。すこし長くなるがいいか」
戸善がうなずいたのをたしかめ、部長はまた革表紙をたたいた。
「これが大きな理由だ。おまえの調べてきた情報がまわりまわってこの任務になった」
部長は説明を続ける。暑くなってきたのか窓障子を開け、風を通した。
軍と王室は、新型ごおれむには緊急性はなく、即時の対応は不要との判断をくだした。それに大きく影響したのがこの報告書だった。
そして、専門部署によるさらなる分析の結果、新型ごおれむおよびその国が今後脅威や不安定要因となる可能性は無視できるほど小さいと結論された。
喜ばしいにはちがいない。わが月城国のような弱小国が周囲の情勢をうかがってはおびえる時代はひとまず過ぎ去ったといえるだろう。
「だがな、戸善。この安定はわれわれが汗水垂らしてもぎ取ったものではない。周辺国が勝手に転がって実現したようなものだ。ゆえに王は軍やわれら諜報部へのありがたみはあまり感じておられないのが事実だ」
戸善は無表情をたもとうとしていたが、文机をはさんですぐ目の前の畠山部長はわずかにしかめられた顔を見逃さなかった。
「なにもいわなくていい。わかるぞ。諜報部が動いたからこそそうした情勢が根拠をもってあきらかとなったのだ。理解されないというのはあまり気分のいいものではない」
「予算はどうなりますか」
「結論が早いな。軍は縮小される。徴兵は制度はのこすが来期から選考をきびしくして採用を減らす。装備の予算も減る」
そこで部長は言葉を切った。戸善は無言のまま目で続きをうながす。
「諜報部は無くなる。治安維持局調査部の下に入り、諜報課となる、というつもりだったようだ。王室はな」
部長の口元が歪んでいた。
「それは食い止めた。わしだってここですわって報告書を読んでばかりじゃない。それなりに友人やら貸しのある知人やらがいるからな。総動員したよ」
「では、現状のまま?」
「いや、予算は減らされる。来期からは養成所の維持はむずかしいだろう。今後、基礎訓練は軍や治安維持局と共同で行う。だが、諜報部としての形はのこるし、活動はこれまで通りだ」
戸善は無表情のままだった。
「で、おまえの任務の話だ。友人をたよったといったが、雨宮家もそうだ。それで深山守め、早速貸しを取り立てに来おった」
部長はべつの革表紙を差し出した。戸善は受け取り、はさんである書類を気のない様子でめくった。
その様子を見ながら、部長は戸善が目を走らせているあたりを読み上げる。
「さっきもいったが、雨宮小夜子嬢、千草様だな。王立高等学校を今年度卒業予定。それと半年前に諜報部養成所に入所、こちらは来月基礎課程を終える」
「なんですか、この成績で課程を修了? では、雨宮家の取り立てというのはそういう?」
「それもある。最初は現場には出さず、事務だけさせるつもりだった。それだと無駄飯を食わせるようなものだが、雨宮家の後ろ盾が得られるなら安いと思っていたのだ」
一瞬、部長は窓の外から聞こえる声に気を取られたが、話を続けた。
「しかし、千草様はその成績と反比例するかのように愛国の志は高くてな。現場仕事をご要望だ」
戸善はもう一度成績と教官の評価欄を読んだ。
「もちろん、却下したのでしょう?」
窓の外からは若い声が聞こえてきた。養成所が終わったようだった。
「すまない。諜報部をのこすためだ。最後を見ろ」
書類を乱暴にめくると彼女の要望に答える形で任務が割り振られていた。隣国、穂高国の次年度以降の農産物出来高予想のための基礎資料収集。
「まあ、養成所出たての新人にやらせる任務としてはふつうですが、この成績では無理でしょう。もしなにかありでもしたら家が家ですから大変なことに」
「だから戸善、おまえが支援し必要とあらば護衛するのだ。ただし秘密裏にだぞ。表向きは千草様の単独任務だ。それが滞りなく成功するよう縁の下から支えるのだ」
「そんな任務になんの意味があるのですか」
畠山部長は息を吸いこんだ。
「なあ、諜報課になって調査部の連中に顎で使われたいのか。わしはごめんだ。だからなんとか部としての独立性は確保した。そのためにいろいろと借りを作った。借りたものは返さなきゃならん。かんたんな理屈だ」
戸善は革表紙をとんとんとこきざみにたたき、部長がやめろというしぐさをするまで続けた。
「しかし、いつまでも続けられませんよ。それに任務終了と同時にばれます」
「それはわかっている。深山守とは約束した。今回の任務を大成功で終わらせられれば千草様には話をつけてくれる。諜報部もあきらめさせる。ただ一回だけわがままを聞いてやりたいのだそうだ。末娘だからな。あの当主も人の親ということだ」
「なぜ、わたしなのですか」
「優秀だからだ。養成所を首席で卒業。それ以降の任務の遂行ぶりも見事だ」
じっと戸善の目を見る。
「だからな、今後についても考えてほしい。実は部を背負ってもらおうと考えている。ならば雨宮家に恩を売っておくのは悪くないだろう」
ふっと笑った。
「それに、おまえは千草様には知られていないしな。一年近くここを空けていたわけだから、万が一にもすれちがってすらない」
小鳥のさえずりがする。
「どうしても嫌か。無理を押しつけたくはないが」
「いいえ、わかりました。この任務引き受けます。この書類は借ります。支援および護衛計画を立てさせてください」
それを聞くと部長はほうと息を吐いた。そのまま窓の外を指さす。
「あれだ。ちょうど出てきた」
養成所の教室のほうから小柄な娘が歩いて来る。月城国と雨宮家の紋が入った着物で、初夏の頃の草花を落ち着いた色で染めた柄だった。
「つまづきましたね」
「ああ、あそこは段差の修繕が終わっていないんだ。ま、入所したてならわかるが、もう修了というのに引っかかるのはあの娘だけだ」
ため息をつく戸善を部長が見る。
「おまえ、結婚はまだだったな」
「まさか」
「はは、そういう意味じゃない。親からすればあんな男の子みたいな娘でもかわいいんだろうなと思ってな。末娘だし。わしも子供がいるからわからないでもない。だが、おまえは理解しにくいだろうな」
「そうですね。親心はわかりません。とくにきょうみたいな任務を割り振られるとますますわからなくなりました。わがままを聞くのも親心ですか」
「そうだな。それも親心だ。聞くのも断るのも。で、今回は聞いたんだ」
「そういうものですか」
彼女は門をくぐるところだった。そのうしろ姿を見ていると、帯に描かれた花に蝶がとまろうとし、寸前で気がついたのか空高く飛んで行ってしまった。
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