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二十、蝸牛の角の上、闘うか踊るか |畠山《はたけやま》部長 |大牧恵子《おおまきけいこ》様 |千草《ちぐさ》様
二十の一、畠山部長
畠山部長の執務室はあいかわらず散らかっていた。火鉢のそばの資料はふちがめくれあがっており、危なく感じられたのですわる場所を作るついでに遠ざけた。
「すまんな。次から次へと書類ばかりでかたづかんのだ」
「秘書をお雇いになっては? ちょうど任務を終えたばかりの卒業見こみがいるはずですが」
「よせ。それどころじゃない。おまえのせいだぞ」
そういいながら分厚い革表紙を指さす。戸善が帰国してから丸三日かけて書き上げた報告書だった。穂高国での一日一日を完全に記載し、隠し田についての新事実と発生した事件についての分析もつけた。提出してすぐにはなにごともなかったが、十日目のきょう、呼び出しがかかったのだった。
「任務は失敗、しかしもっと大きいものを見つけてきたな。おまえらしいといえばおまえらしい。だが、ちょっとやりすぎた部分もあるな。他国のお家騒動に首を突っこむなど、独断で行っていいものではないぞ」
「それは記載もしましたがやむをえませんでした。正体があきらかとなった時、首を差し出したのですが受け取っていただけませんでしたので」
「ふん、大牧のほうがうわてだったか。たしかにしようのないことではある。ただな、おまえ、ちょっと肩を入れすぎじゃないか」
「は、しかしながら恵子様には尋常ならざるお力添えをいただきました。今後の両国関係を進めるうえで大牧家はたよりになります」
「かんちがいするな。それを考えるのはわれわれではない。隠し田もそうだ。おまえやわたしの家を含め、黙認していた貴族は格別のお情けで見逃してもらえるが、内務と税務がうごきだした。農民相手だ、慎重を要する。むやみに刺激を与えるな。わかったな」
火鉢から糸の束のように煙がたった。炭になにか混じっていたのだろう。
「はい」
部長は鉄瓶をどけると炭を継ぎ足した。火力を上げて煙の元を燃やしきる気らしい。
「それから、部の今後だ。隠し田の件がちょっとややこしいことになっている。われわれの実力が疑われているのだ」部長は自分の湯飲みに茶を淹れる。戸善にも目で、いるか、と聞くが、答えをたしかめずに注いだ。
「当然でしょうね。わたしが他部署の者だったら文句のひとつもいいたくなります。なぜいままでわからなかったのだ、と」
「そうだ。農産物出来高予想などは新人にさせるような任務だとしていたが、おまえはついでにとんでもない事実を釣り上げてきた。そういう属人的な技能の差が存在していること自体が批判されているし、困ったことにわしももっともだと思う。調査する者によって結果が変わるのなら、その報告を受ける側はたまったものではない」
「蒸し返されたのですか、あれを」
「そうだ。どうしても諜報部を課にしたい連中がいる。それも王室のほうに。やつらは信頼性の確保を理由に訓練と技能評価の平準化をあげた。治安維持局がまとめて面倒を見るのだそうだ」
「たしかに局の規模なら可能でしょう。われわれには無理ですね」
部長は茶を苦そうに飲む。
「そうはっきりいうな。こんどばかりは危うい。深山守は当分表にはでられんし、王室にくいこめる人脈がない」
戸善も飲んだ。それほど濃くはない。なのに部長が苦そうな顔をしている理由はわかる。しかし、共感はできなかった。自分が隠し田の報告をするまでこの状況を見逃していた組織。わたしもその組織の一員だが、いったん離れて第三者としてみた場合、この組織に外国の情報収集と分析をまかせておいていいだろうか。それは国の安全や他国との関係に悪い影響を与えないだろうか。
諜報部の現状維持を容認していていいのだろうか。
「なあ、戸善よ。いまの部にできる改善策として、教育訓練課程を見直そうと思っているが、手伝ってはくれぬか」
「どのように?」
「詳細はべつとして、大まかには実践的な課程を増やしたい。諜報の基本である情報の収集と分析、これを実習によって体得させる」
「しかし、予算はどうしますか。座学とちがってかかりますよ。実習は」
「そうだが、来期からは基礎訓練は軍や治安維持局と共同になるからな。その後の課程を変えるつもりだ。思ったより増額にはならない。精鋭に絞りこんで人数を減らす」
いやな感じがする。戸善は茶をすすった。
「だれが教え、評価をくだすのですか。教官は足りますか」
「そこだ。手を貸してほしいのは。それなりの地位を用意するから……」
「お断りします」
「早すぎるぞ。まあ聞け。以前いったように、おまえには諜報部を背負ってもらいたいと考えている。これはその前段階だと思え。それとあたらしい地位は昇進になるようにはからう」
「現場に出られない職など、わたしにとっては降格とおなじです。それに、人員を減らすのにも賛成できません」
「ならばどうする。考えはあるのか」
「ええ、治安維持局の下に入ればいいでしょう。いまとなっては巨大な組織の傘下に入ったほうがなにをするにしてもうまくいくはずです。もう部として独立している意味はありません」
「本気か。われわれの地位はどうなる?」
「わたしは自らの身分など重視していません。国のためになるかどうかが判断の基準です」
部長は湯飲みを手に取ったが、空だと気づくとこんどは鉄瓶から直接白湯を注いだ。かなり熱くなっていたのですぐには飲まずに置いた。
「わしが保身をはかっているというのか」
「ご自身のことです。おわかりでは?」
「きびしいな。おまえは。わかった、考えてみる。きょうは帰れ」
戸善は一礼して部屋を出たが、部長が腹を決めたのがわかった。と、いうよりも、迷っていた背中を押したのだろう。
新しい諜報課に自分の居場所はあるだろうか。直近の報告はどう評価されるだろう。身辺整理を始めたほうがいいかもしれない。
冬の空を小鳥が飛んでいく。羽ばたきと翼をたたむ動作を繰り返すので波を描く。ひよどりだろう。みょうに高い耳ざわりな声だ。あの鳥はあの飛びかたが理にかなっているからそうしている。ほかの鳥にはほかの飛びかたがある。
いまのわたしや諜報部もそうだ。その時その状況に合った動きかたがある。それがいままでやってきたことの否定になったり、不満を抱いたりすることもあるだろうが、国のためにあきらかによくない動きを続けるよりはいいだろう。
でも、疲れた。明日一日だけは休みにしよう。
二十の二、大牧恵子様
翌日、遅めに起床すると、恵子様からの文が届いていた。上質の紙をきちんと巻いてある。白さが朝の目にまぶしい。
封を切ると縁側にあぐらをかいてひろげた。
もちろんのことだが、一連の事件についてや政治については目立つような記述はなかった。表面上は時候のあいさつに続いて個人的な動向を知らせ、深山守様を気づかっていた。ただ、深読みすればある程度は推測できるように書かれていた。
たとえば異国の研究について進み具合を記したうえで、落ち着いたら学者を招いて個人講義を受けようと思っているが、王室の意向が心配だとあった。そこにさりげなく、異国との関係強化を示唆し、王室が懸念を示しているとにじませていた。
一日休みにするつもりだったのに、戸善の頭はすぐに仕事の態勢に切り替わった。
恵子様はどこに向かっておられるのだろう。穂高国の一貴族にとどまる気はないらしい。関係を深めようとしている異国は大国で、ごおれむを運用している。王室が警戒するのは当然だ。異国の研究などといっているが、一貴族が王室の頭を越えて外交を行おうとしているとみなされかねない。
寺への圧力を強めるといっていた口調を思い出す。弟を退けて大牧家を一手に握り、実質的に隠し田の支配権も得た。それによって穂高国の胃袋をつかんだも同然となった。そうしてすぐに異国の学者を呼びたいという。
式の各項が出そろってみればかんたんな算術だ。恵子様の狙いはわかりやすすぎるほどわかりやすい。
ため息をついた。その狙いの実現に自分は力を貸したも同然だ。自分と千草様。御木本家と雨宮家は自動的に大牧家の味方になってしまった。選択の余地はない。やはり、あの時に首を差し出しておけばよかった。
しかし、なぜそれをわざわざわたしに知らせるのか。野心は秘しておけばいいのに。
それと、返信をどうしよう。うかつなことは書けないが、かといってだれかに相談もできない。これはあくまで私信の形をとっているし、相談相手によっては御木本家を不利な立場に追いこみかねない。
ぽんこつという言葉が浮かんできた。そうだ、振りをしよう。ぽんこつの。ほのめかしなどわからなかった。深読みはしていない。
こちらも時候のあいさつに続いて個人的な動向、深山守様の現状など当たり障りのない表面的なことだけ書こう。
はっきりと逃げるわけだが、いまは逃げだけが有効な手だ。誠意はないが、他国の騒動に巻きこまれずに済む。
筆を手にとる。そう思ったようには書けなかった。
『蝸牛角上の争い』という言葉を引用した。自分が穂高国で経験した大牧のお家騒動は、ごおれむをもちいるような国々から見ればその程度の微小ないさかいに過ぎないものだというつもりだった。
そして、二つの国が土地のことで争っていれば、そうした大国に踏みつぶされるだけだとも。また、恵子様の研究は結構だが、異国の着物を着ているだけのいまのままでは相手に飲みこまれる未来しかないだろう。
また、われら以外にも外国の動向に目を向けた者はすべて同感だろうが、いかんせん、少数派だ。わたくしとて任務で外国に行かなければこのような視点は持たなかった。
名誉と恥に生き、無意味となった作法を守り続け、蝸牛角上にて踊り続けるわれらが未来をつかむための方策を共に考えたい。
そういった内容を一気に書き上げていた。思いをまとめてみただけで出すつもりはなかったのに、読み返せば読み返すほど、これこそ送るべき書状だと確信した。
もう一度、お会いしたい。
最後にそれだけ付け加えると、戸善は封をした。
二十の三、千草様
その月の終わり、もう日なたの木のつぼみは明日にもはじけんばかりにふくらんでいた。そして、春の訪れとともに深山守は回復し、無事床上げとなった。いま、雨宮家は初春の風がほこりを舞い上げるようにごったがえしている。遠慮していた来客が引きも切らない。皆本復の祝いや遅れていた年初の挨拶をしに来たのだった。
雨宮家ともなればその客もそうそうたる面々だった。王城に出入りできるような貴族はすべて本人が直接か、名代を寄こしているといってもいいだろう。
だから、招待されたとはいえ、戸善は控えの間で小さく、目立たぬようにしていた。それでも周囲からの目線が気になる。あきらかに場ちがいな家のものがいる、と思われている。
その周囲の目が戸惑いに変わった。
「おお、戸善殿、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ」末子の千草が直接入ってきて、場をわきまえぬ気軽さで声をかけたからだった。
戸善は平静をよそおって居並ぶ貴族たちの前を通り、長い廊下を歩いていく。
「どう、きれいでしょう。祝いのために作ったのですよ」袖を上げて模様を見せた。
「おきれいですね」しかし、初めて見る気がしない。
「この鳥、おわかりですか」そういわれてやっと思い出した。あの夜着ていた異国の浴衣の鳥だった。
「鳳凰というそうです。鳳と凰。はるか東の国では瑞祥だそうです」
燃え上がるように鮮やかだった。
「よくお似合いです」
「ありがとう」と微笑む。
深山守様は病み上がりなのに思ったより元気そうだった。血色もいい。しかし、脇息にもたれ気味にしている。完全に回復したのではないのだろうか。それとも客に疲れたのだろうか。
「戸善殿、よく来られた。また、小夜子の件、いろいろと済まぬ」
部屋に入って着座するやいなや、挨拶もそこそこに向こうから話し出したのであわてて頭をさげて口上を述べる。
「深山守様におかれましては、御患い御快癒、誠にめでたいかぎりでございます。御木本家一同、お祝いを申し述べますとともに、さらなるご健康をお祈り申し上げまする」
「はは、そのような堅苦しい挨拶は今朝から聞き飽きた」笑いながらいった。前とおなじく右にすわった千草様も笑う。
また、柄明慶として拝領した短刀の返却をしようとしたが、もらってくれと強くいわれたのでそのままとなった。
「あらためて、小夜子が世話になった。礼をいう。本来ならばすぐにでも挨拶すべきであったが、患いのせいでこのように遅れてしまった。許してほしい」
「そのような……。とんでもないことでございます。また、こちらこそ任務失敗となり、また、秘密を守り切れずに申し訳ございません」
「そのことだが、問い詰められたよ。この着物もそのせいで作らされたようなものだ」右を見ながらいった。
「だが、おかげで小夜子と時間をかけ、向き合って話ができた。そう考えれば患いも悪いものではない」
深山守は一瞬だけ遠くを見るような目をした。
「戸善殿、前にいってくれた小夜子の評価、あれも伝えた」横で千草がうなずく。
「そのうえで話し合ったが、諜報はあきらめるそうだ」
戸善はなにも返さず、ただうなずいた。
「そこで、これは小夜子の希望でもあるのだが、将来について戸善殿のご意見もおうかがいしたい。このような場でいきなりはぶしつけかとも思ったのだが、きょうを逃すともうなかなか会えそうにないのでな」
目を丸くする戸善を見て、二人はまた笑った。
「父上、いった通りでしょう。戸善殿、驚かせて申し訳ありませんが、わたしからもお願いします」
「これは……、たしかに急ですね。しかしながら、心当たりがないわけではございません。教育に携わられてはいかがでしょう。それも児童の」
こんどは深山守の番だった。「児童教育? さて、それはいかがな所以かな?」
「実を申しますと、任務中、もっと気楽にせよとのお言葉をなんどか頂戴いたしました。柄明慶は地方出身のため訛りなどを気にしてかたくなっていると思われたようです。そのおっしゃりようやお気の使いようはわたしの心を暖かくしました。その経験からです」
「暖かく?」
「自分のことを気にしてくれている。けれども下に見て憐れんでいるのではない。それが伝わりました。ゆえに児童を教え導くのに向いておられるのではないかと思いつきました次第でございます」
深山守は右を向く。「どう思う?」
千草はなぜかうつむいたままだった。耳が赤い。「そうか」
その様子を見てなにか悟ったようだった。
「戸善殿、ご意見承った。済まぬがわしはこれにて座をはずさねばならん。無礼なれど許されよ」頭をさげる戸善を見、小夜子にいう。「後のもてなしはまかせる。くれぐれも丁重にな」そういうと部屋を出て行った。
先に口を開いたのは千草だった。
「いったいどうされたのでしょうか。あのような父上は初めてです。お気を損ねたのではないようですが。戸善殿、お気になさらぬように」
「もちろんです。きょうは来客に次ぐ来客でしょう。気にはしません。わたしもそろそろ……」
「いいえ、父にはもてなしを命じられました。茶菓などお持ちしますゆえ、そう急がずにごゆるりとおくつろぎください」
そういわれてはすわりなおすほかないが、戸善は落ち着かない。なにか落ち度があったのかと考えていた。
白砂糖をふんだんに使った上品の菓子と茶が供された。薄く半透明の板は舌にのせると花の香りと甘みを残して消えていく。次に茶をひとしずく舌にのせると、渋いうまみが追いかけた。
「まあ、殿方が茶菓でそのようなお顔をなさるなんて」千草が笑った。それから茶のおかわりを注ぎながらいう。
「ところで、さきほどのお話ですが、わたしには教師が向いているのですね」
「はい、そう思います。高等教育を受けてもそれだけでは教え導くことはできません。千草様は共感する力が秀でておられます」
「おだててはいけません」
「いいえ。実際わたしの心は暖かくなりました」
「柄明慶の心が、でしょう?」
「わたしの心が、です」
「では、教師の道を考えてみましょう。諜報よりは国のお役に立てるでしょう」
「千草様につきまして、いろいろと差し出がましいことをお父上に申し上げましたが他意はございません。ご不快でしたらお許しください」
「いいえ。怒ってはおりません。けれど、自分の家のせいで養成所の評価が正しく伝わってこなかったことだけが残念です」
戸善はその言葉を飲みこむあいだだけすこし間を置き、そして返事をした。
「以前、背伸びは止めろ、と子どもあつかいして大声を出したことがございました。しかしいまの千草様はもう子どもではございませんし、背伸びもしてらっしゃいません。そのままの、等身大の千草様だと思います」
千草はまっすぐ戸善を見る。もううつむいていないし、耳も赤くはない。
「それではそろそろ本当に失礼いたします。深山守様にもよろしくお伝えください」
「はい。ではお送りしましょう」
「いいえ、そこまでは」
しかし、千草は玄関まで見送った。
「ひとつよろしいですか」戸善の背に声をかけた。
「どうぞ」振り返る。
「再度おうかがいします。これ、いかがでしょうか」袖の鳳と凰を見せた。
「お似合いですが、少しばかり色が多すぎるかと思います」
「父とおなじことをいうのですね」
「そのようにお笑いになると、色の多さは気にならなくなります」
「ありがとう」
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