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二十六、話は香で果てる
寺は里ほど暑くはない。とはいってもそれはくらべての話であって、じっとしていてもしっとりと汗ばむような日だった。
いま、以前雨宿りをさせてもらった書院兼客間で会談が行われている。両家の当主と農民の代表。それぞれに実現を望む未来がある。どうか決裂だけは避けてほしい。全員利口にふるまい、公平な負担と利益の享受を実現してほしい。それだけが戸善の望みだった。
日の出とともに始まった会談は、食事と数回の休憩をはさみ、日が沈むころ決着がついた。客間を出てくる皆はにこやかだった。
しかし、かれらの表情だけではまだ気を抜けなかった。会談が成功裏に終わったとは察したが、だからといって警備はゆるめられない。帰っていく農民代表を見送り、雨宮家に一行が到着するまで緊張は続いた。
張りつめた時間にも終わりがくる。月が昇る頃、戸善はすべての特別警備態勢を解き、通常に移行した。それと同時に臨時の指揮権は消滅した。雨宮家の警備士たちは敬礼してわかれを告げた。
「ごくろうさま。いえ、そのままで」
雨宮家にて遅い夕食が供された。任務を終えた解放感から遠慮なくいただいていると恵子様が入ってきた。かすかに香がただよう。
「よろしいのですか。晩餐会では?」
「ちょっと抜けてきたのです。こうでもしないとおなじ屋根の下なのに会わないままになります」いたずらっぽい顔をしている。
「では失礼して、食べながら」
「あなたはほんとうによく召し上がる。気持ちがいい」
恵子様に茶を淹れ、雑談をしながら会談の首尾を聞く。
農民たちの一部は土地交換に応じ、のこりは関所の下働きとして雇われることを受け入れた。その際の越境の特権や給与など詳細な雇用条件も了承された。収穫までには大半の農民たちへの対応が完了し、遅くとも来年の田植えまでには片がつくとのことだった。
戸善はほっとして体中の力がぬけていくのを感じた。
「よかった。苦労のかいがあります。波風立たずにおさまりそうですね」
「ええ、関係者皆がわきまえてくれたので、すべて内々に片がつきました」
「では、われわれのことを進めましょう。父上には?」
戸善の言葉に恵子がうなずく。
「すぐにでもお会いしたいところですが、会談のついでと思われては失礼にあたります。日をあらためて使者を立てるということでよろしいでしょうか」
「それがよろしいと思います。おっしゃるとおり、父上はかたいところがあります。たしかに今日明日では軽んぜられたと考えるでしょう」
「兄上様方はいかがしましょう? お知らせはいつごろが?」
「知らせは父上からがよいでしょう。それに、今年は始祖大供養です。直接会えるかどうかもわかりません」
「それではやむをえませんね。お会いしたいのですが」
「なんとか機会を作ってもらいましょう。いちども顔を合わせないということはない」
戸善は食事を終え、茶を飲んだ。
「千草様のことですが」
急に出た名前にむせる。「大丈夫ですか?」「失礼しました」
恵子は戸善と自分に茶を注ぐ。
「お話をしました。お若い方というのは……、なんと申しますか、一途でうらやましい」
「一途?」
「戸善殿へのお気持ちをうかがいました。純粋で、透明でした」
「われわれはちがうのですか?」
恵子は悲しそうな目になった。
「ちがいます。おたがいを慕いあっているのはたしかです。けれども純粋ではないでしょう? 家と家、国と国、そういう関係も考えていらっしゃるでしょう? 今後の両国について指導的立場になろうという絵図面を描いてらっしゃるはずです」
「その通りです。認めます。婿養子として大牧家の人間となったのちに行使できる力とその範囲について考えなかったといえば嘘になります」
「それでよろしいのです。自分がいまいる場所でなにをどう行うか考えない者は生きていないのと同じです」
戸善は茶をぐっと飲み干した。
「その点で、ときどき考えます。若者は一時的に外国で過ごすよう義務づけたらいいのではと。異なる場所で行動する経験をつませたい」
「いいですね。でも穂高と月城のようなすぐ近く、というか、ほとんど同一文化の国はだめですよ」
「それはそうです。外国、ではなく異国、ではどうです」
「実現に向けてお考えになっては? 全成人は無理としても学業優秀な者から希望者を募ればいい」
戸善は笑う。
「もう内政の話ですか」
「はじめたのはあなたですよ」
話が途切れる。
「では、そろそろもどりませんと……」
どこからか風がはいってきて灯りを揺らした。影も揺れる。恵子は突然戸善の手をにぎりしめるとじっと見つめ、頭を下げて部屋を出ていった。香だけがのこった。
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