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二十八、骨肉の試合
大牧家と数度の書状のやり取りがあり、非公式の使者の行き来ののち、戸善の準備は滞りなく仕上がった。
兄たちはそれぞれに祝いの言葉と品を携えて帰省し、小郷里介と戸善への挨拶を済ませ、封を解かれたそれぞれの部屋に入った。
さらに急報が届き、非公式ながら、王室から式次第の御見とどけ役が来ることとなった。そのせいもあって家中落ち着かないが、悪い雰囲気ではない。使用人たちはひさしぶりに家族が集まったとよろこんでいた。
皆の滞在中、夕食はそろってとることになった。母の離れを開放して使っている。
「このたびはまことにめでたいが、おどろきでもあるな。兼光が婿養子。相手が大牧家とは」長兄憲時が豪快に食べながらいった。食欲は兄弟の共通点だった。
「兄上はそればかり。うらやましいのですか」次兄貞義があきれたように返した。
「ああ、うらやましい。大牧家とあれば出世まちがいなしの玉の輿だ。よくやったさ」その表情は言葉ほど気楽ではなかった。
「『玉の輿』は男子にはあまり使いませんよ」
「ならなんというのだ?」
「さあ。わたしは学者ではありません」どこかしらけたような貞義だった。
長兄、次兄の順に酒を注ぎながら、戸善は如才なくつとめようとしている。これからふたりには恵子様に会ってもらい、家を出るときは見送ってもらわなければならない。短い間だが、しこりはほぐしておきたかった。
「父上、御木本家から婿養子が出るのは過去にもあまり例がないはずですが、そのあたりいかがですかな」憲時がだまったまま箸を動かす小郷里介に問うた。
「たしかにそうだが、おまえのいう通りまったく前例がないわけではない。問題はあるまい」
「その少数の例はすべて月城国内の貴族です。先祖の時代からつきあいのある名家ばかりです」
「なにがいいたい?」箸を止めて長兄を見た。
「いまさらかもしれませぬが、この話、やはり考え直していただくわけにはいきませぬか」
戸善はじっと様子をうかがう。貞義は驚きを顔に表してしまった。
「ほんとうにいまさらだな。これについてはすでに王室への届けも済み、御許しも出た。むしろひっくり返したほうが家の恥になる」さとすような口調の小郷里介だった。
「しかし、わたしは長兄、つまりいずれ御木本家を継ぐ者として、どうしても懸念をぬぐいきれませぬ」
「敵ではないぞ。いまの穂高国は」
「王室ではそうは見ておりません。さまざまなうわさを耳にしますが、今回の件、良い方向にはとらえられておりません」そういって貞義を見る。「そうだな。おまえも聞いているだろう」
「聞いてはいますが、兄上、父上のいうとおり、いまさらです。兼光の婿養子の件はもう動かせませぬぞ」
「いいや。動かせるさ。流行り病にでもなればいい」
「兄上、本気ですか」たまらず口を開いた戸善を憲時はにらんだ。
「おうよ。やはり末子は甘やかされすぎだな。武人にもならず諜報の道を選び、結婚もしないでいたかと思えば敵国の貴族の婿養子とは、父上が良いといってもこちらは承服いたしかねる」
「そのようなことは申されませぬように。どうかこの婿の件、笑ってお許しくださいませぬか。また、ここは母の間です。悲しませるようなことはおっしゃらないでください」戸善は頭を畳にすりつけんばかりにして頼んだが、長兄は冷やかにそれを見た。
「その手には乗らぬよ。おまえは頭を下げることなどなんとも思っちゃいない。自分のわがままを通すためならなんだってできるやつさ」
「では……、では、兄上がどう思われようともかまいません。ただし、国と国、家と家との関係がかかっております。芝居でもけっこうですのですべてが順調に進みますよう慎み深く、重々しくかまえてはくださりませぬか」
長兄は目を細め、大きな音を立てて盃を置いた。
「兼光。おまえは機械か。心の臓のかわりに歯車がまわっているのか。なぜ血を分けたこの兄が無礼な態度をとっているのに怒りを表さぬのだ。なにゆえほんとうの心を見せてくれぬのだ。おまえは大牧恵子様をなんと見ておるのだ」
「は、人として尊び、敬っております。また、お慕い申しあげ、愛しく思うております」
その瞬間、はじけるような笑い声がかぶさった。憲時はひざをたたいて笑っている。「でかした! 兼光。よういうた。ほめてつかわすぞ」
貞義は下を向いている。笑い顔だが目をこすっている。「おまえがそのようなことをいうとは。恵子様とやら、よほどの方らしいな」
しかし、兄弟そろった笑いは長くは続かなかった。上座からにらみつける小郷里介の目があった。
「兼光、それが本音か。おまえはひとりの女を愛しいと、そういうのか」
小郷里介は座を見回し、静かだが深い声でいう。
「兄弟そろって愚かなり。愛しいという心、つまり愛情は国や家、領民、知識や仕事に対して抱くものだ。それを一個人を愛するなどなにごとか。浮かされたか兼光」
「父上、それはちがいますぞ。人ひとりを愛するのはまちがってはおりません」憲時が反論するが、ひとにらみでだまった。貞義は腕を組んでいるが、小郷里介の言葉に不満がありそうだった。「兼光がまことの心を開いて見せてくれたのです。それが女を愛するという情でした。なにも過ちはございません」
「おまえたちこそなんだ。ふたりそろって歌詠みにでもなったか。ならばおまえたちの婚姻に愛情はあったのか。すべてわたしが家と家との関係を考慮して世話をしたのであろうが。それが不満か」
ふたりとも首をふった。口を開いたのは憲時だった。
「企みのあった婚姻であったのは事実です。けれども、いっしょに暮らすうちに情が芽生えてまいります。それも愛です」
「それはおまえが自分をだましているだけだ。よいか。われらは自らを殺さねばならん。すべてを国のため、家のため、民のために捧げなければならん。それができるからこそ貴族であり、特権をもって人の上に立っても許され、税と称して金品を集め、田で泥だらけにもならずに米の飯を食えるのだ」にらみつける目が開く。「わかるか、兼光。おまえが婿養子に行くのはよい。だが、それは愛ゆえにではなく、未来への計画がなければならん。自らを捨てよ」
「父上、母上に情はなかったのですか」戸善の声は淡々としていた。まるで事務的な問い合わせをしているようだった。
「あった。わしとて完全ではない。いま自らを捨てよ、といったが自分自身ができているとは言いきれぬ。だが、そういう心がけでなくてはならんのだ。わしを含め、おまえたちも愛をかんちがいするな」
「つまり、母上にその情をお告げになったことはないのですか」
「それは答えぬ。必要もない」
「いえ、ございます。母上が父上の情を知って亡くなったのか、ぜひともうかがいたい」
兄たちは話の行方がわからなくなっていた。膳のものはすべて冷め、魚の煮汁は凝りはじめていた。
「父上、ひとつお手合わせ願えませんか」
「なんだ、急に」
「いえ、いまの父上であれば勝てる気がいたしますので」
父と末子の会話は、兄ふたりをおいたまま進んでいる。
「忍びは忍びにすぎん、武の術の前ではただの手妻だ」
「では、受けてくださるのですね」
使用人たちは長兄と次兄から突然灯りを用意するように命じられてとまどっていた。この時間に訓練場を試合に差し支えないほどに明るくせよとのことだった。皆なにが起きているのかわからなかったが、御館様と戸善様が試合をすると聞いてさらに困惑した。
「準備整いました」憲時がいい、全員訓練場に入った。
「灯りは十分だな」小郷里介がいう。
「灯り代はわれらが持ちます。そのかわり立ち合いますよ」貞義が緊張をやわらげようというのか、わざと軽い口調でいった。
木刀をとる小郷里介を横目に、戸善も木の短刀を手にした。いいのか、という憲時を無視する。
素足の二人は訓練場の中央に進み、礼をした。
まっすぐ刀をかまえ、正面を向いて堂々と立つ小郷里介に対し、戸善は忍びらしく短刀を小刻みに動かしながら左に回りこもうとする。
兄ふたりは忍びのやり方を通そうとする戸善になかばあきれている。屋外の夜戦ならともかく、このような障害物がなく四方を囲まれた明るい屋内で忍びが武人に勝てるとは思えなかった。武器の選択もおかしい。
一瞬、戸善が前に出たが、反応を試すためだけで間合いにも入れなかった。刀は微動だにしない。が、つぎの瞬間、今度は小郷里介がすべるように一歩を踏み出した。刀が揺れ、短刀が下がった。両者とも相手の出方を見ている。
短刀が突きだされたが、遠すぎる。二、三合わせるが必殺とはならない。
一瞬もとどまることのない戸善の短刀が小郷里介の左脇からあばらのすきまをねらうが、流れるような足さばきでかわされた。なめらかに足を運ぶにもかかわらず、上半身にふらついたところはなかった。戸善の攻撃は致命傷とはならない。
それをきっかけに、小郷里介の攻撃がはげしくなった。骨をも断ついきおいの刀を戸善が紙一重でかわす。が、回避はできるものの、防戦のみになってしまい、さきほどのように間合いにも入れなくなった。
憲時と貞義は戸善の左手がぼんやりと光を発しているのに気づいた。光球が撃ちだされ、小郷里介の顔を正面から襲った。
そして、よけようとした上半身が傾いた瞬間、光球とともに戸善もふみこんでいた。刀が反射的になぎはらうようにすべり、接近を阻んだ。
さらに戸善の左手から光球が撃ちだされていた。小郷里介は難なくよける。そこへ二撃、三撃と光が放たれるが、すべるような足取りで抜けた。大人の拳ほどの光球は行き先を失い、当たった天井や壁でぎらぎらと光っている。もし顔面にあたれば視力を奪えただろうが、父上に命中させられはしないとふたりは思っていた。われわれでもあれならよけられるだろう。
そして、短刀がまっすぐ小郷里介の懐に飛びこもうとしたとき、勝負あったと思った。というより、戸善が試合を投げたと見た。あのような無謀な突進はありえない。
しかし、ふたりは自分の目が信じられなかった。父上が間合いを誤った。早すぎる。なんとか戸善の左肩に当たったが致命傷相当ではない。そして、短刀が胸を貫くように突きつけられた。
「参った」小郷里介が宣言した。床に座りこむ。いまになって汗がふきでている。
戸善は左肩を押さえて座った。すこし血の気が失せた顔で、ほう、と息をつく。「母上は父上の情を知ったのですか」
「おまえの生まれたころだ。妻にいった。政略結婚だったが、いまは愛している、と、それは念のようなものだから信じてほしい、とな」
「母上はどのようなご様子でした?」
「そこまでいわせるのか。笑っていたよ。あのようなかわいらしい笑顔はほかにはない」
「それをうかがえれば十分です。お手合わせありがとうございました」
「待て」短刀を片付け、訓練場を出ようとする戸善を憲時が呼び止めた。「説明しろ。あたらしい術か」
「いいえ、わたしに使えるのは光球と気を消す術だけです」消えつつある光球を指さす。「光りあるところに影あり、です。適切な位置に光球を配置し、遠近の間隔を狂わせるように影を作り、あるいは消しました。さすがに昼日中や屋外では困難です。夜の屋内だからこそできました」
「卑怯な。父上を愚弄するか」貞義がむっとしたようにいった。
「いや、ちがう。おまえたちも見ていただろう。わしは完全に術中に陥った。戸善は忍びだ。そこに卑怯もなにもない。勝とうという強い意志だけだ。わしはそれについても負けていたよ」
自嘲するようにつぶやく小郷里介をふたりはじっと見ていた。やがて皆訓練場を出ていき、灯りは消された。
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