八、君子にあらずんば危うきに近寄る

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八、君子にあらずんば危うきに近寄る

 朝日とともに目を開いた。ここに来るまでの回想が遠のいていく。庭に降りると一応昨夜の足跡を調べ、素人であると再確認した。手練れによる暗殺や誘拐の試みではない。もしそうだったら自分一人では対処できなかったはずだ。刺しちがえるのがせいぜいだろう。日光に目を細めながら無力さを感じる。  きのうのお嬢様の依頼は書状だったのでちょうどよかった。自分の書いたものといっしょに商人に託そう。それから深山守(みやまのかみ)様と部長が話し合って調査を中止にし、もどってくるようにという指示が返ってくるのに十日から十五日くらいか。ならばひと月後には帰国できているだろう、と考えた。それまでは危ないが、自分の役割を果たすまでだ。  それにしても、お嬢様のあの言動、なんとかして抑えられないだろうか。しかし、こっちが本当の任務を知っていると悟られてはいけない。困ったものだ。  朝をいただくとその家を後にした。主人は隣国の貴族をお泊めした名誉だけで十分といい、礼を受け取ろうとしなかった。千草(ちぐさ)様は貴人らしくあつかわれて喜んでいたが、戸善(とぜん)は朝食時の会話のせいだと考えていた。千草(ちぐさ)様は庭に野良猫が出たといい、鯉を狙っているようだから用心するように、と無邪気にもそういったのだった。  いや、むしろその無邪気さが相手を恐れさせたのかもしれない。その意味では良かったともいえる。油断ならぬ二人連れ、という評判が立つのは悪いことではない。  秋晴れの街道は農産物やそのほかの物品を積んだ荷馬車が行きかい、道端によけながら歩かなければならなかった。しかし、そのおかげで月城(つきしろ)国にもどる商人に出会え、書状を託すことができた。 「明慶(あきよし)、すこしいいか」  人通りがまばらになると話しかけてきた。 「急ぎます。歩きながらでよろしければ」 「うん、立ち入ったことを聞くが、どのくらいになる。警備士になってから」  いまごろ身体検査とは。戸善(とぜん)は振り向かずに答える。 「三年ほどです」 「そのまえはなにをしていた」  直接的な質問しかできないのだろうか。すこしは遠回しに探ればいいのに。 「おなじです。商人の倉庫警備などです」 「わたしとは一度も会ったことはないか」 「お嬢様は辺境へは?」 「ない」 「では、会っていないはずです。わたくしもこの任務を受けるまでは中央へなど行ったことはありませんから」  千草(ちぐさ)は一瞬だまり、そしてまた聞いた。 「しかし、おまえ、訛りが少ないな。発音や言葉が中央よりだ」  なかなか鋭い。そこは弱いところだった。あまりに急な任務だったため、柄明慶(つかあきよし)に設定した出身地の訛りを練習しきれなかったし、言葉の勉強時間もなかった。 「そうでしょうか。自分ではまだ恥ずかしいのですが」 「訛りは恥でもなんでもない。なぐさめじゃないぞ。わたしは言語を勉強したからな。どんな言語でもそうなった経緯がある。穂高(ほだか)国や辺境の言葉は帝国初期の雅な部分を色濃く残している。いわば本来の古代語に近い。むしろ月城(つきしろ)国中央の発音や言葉のほうが過度に変形したとさえいえるくらいだ」 「学問の話はわかりませんが、ありがとうございます」 「どうもおまえはかたすぎると思っているのだが、出身や訛りを気にしているのではなかろうな。長い旅だ。もっと話してくれていい」 「重ねてありがとうございます。そういたします」  戸善(とぜん)は胸が暖かくなるのを感じた自分に驚いていた。まだ若く学生でもあるのに、不器用ながらも気を使ってくれている。これまで成績や教官の評価だけで判断していたのがまちがっているような気になった。  どうやら任務遂行を考えてばかりいるあまり、人をその仕事に関しての利用価値だけで判定していたようだ。人は歯車仕掛けではないというのは自分にこそいうべき言葉だった。 「今夜の宿が見えてまいりました」  騒ぐ声が風に乗って聞こえてくる。 「あれか、にぎわっているな」 「ええ、この季節ですから。早くに収穫を終えて現金を手にした農民も飲みに来ています」 「取材にはもってこいだ」 「お気を付けください。飲んでいます。というか、飲まれていますので」 「いざとなれば、おまえが守ってくれるのだろう?」 「もちろんですが、もめごとは避けてください」 「わかっている。あ、おまえもすこしは羽を伸ばせ。飲んでもいいぞ」 「いいえ、足に来ますといけませんので」 「まじめだな。おまえは」  宿はかき入れ時であり、混乱が渦巻いていた。 「どういうことだ。一部屋とは?」 「お二人はご夫婦では? そううかがっておりますが」  番頭はそういいながら書状を見せるが、二人の様子を見てとまどっている。夫婦というには年の差がありそうだ。 「これはちがう。雨宮家のお嬢様と従者だと連絡が行っているはずだ。最高の部屋とその従者用の二部屋を用意しなさい」 「困ります。すべて埋まっています」 「亭主を呼べ」  しかし、亭主も同様に頭をかくばかりだった。のらりくらりとかわす。 「もうしわけありません。今夜一晩だけなんとかご辛抱いただけないでしょうか」 「明日なら用意できるのか」 「はい、それはもう、まちがいなく」  戸善(とぜん)はうしろにさがって確認する。 「いかがいたしましょうか」 「一晩だけであろう。かまわぬ」 「よし。その部屋に案内しろ。それと衝立を貸してくれ」  部屋は廊下の突き当りだった。衝立を仕切りにして入口の前に場所を作る戸善(とぜん)を見て千草(ちぐさ)がいった。 「わたしはかまわぬ。部屋で休め」 「そうはいきません。わたしは従者です。その上未婚の男女が同室などゆるされることではありません」 「しかし、廊下など、休めるものではないだろう。まる一日歩いたのだ。畳の上がいい」 「お言葉はありがたく頂戴いたしますが、こればかりは。それに一晩だけです」 「ならばここの亭主の部屋でも使えないか」 「わたしの任務は護衛です。一人だけとはいえ、できうるかぎりおそばにいませんと」 「かたいのう。明慶(あきよし)は」  数回押し問答となったが、戸善(とぜん)が押し切った。荷を置いた千草(ちぐさ)は宿に来ている婦人を中心に取材を始めた。しかし、またもやいきなり農産物について尋ね、そればかり聞いている。結果として、変わった二人連れの話がこの宿中に広まるのにさほどの時間はかからなかった。 「風呂はべつなのだな」と千草(ちぐさ)がいう。穂高(ほだか)国では男女別の風呂のほうが一般的だ。宿屋の風呂ではすぐ外で待つというわけにもいかず、本来なら女官が付き添うところだがやむを得ない。 「前にいったな、これではお供でございます、と。わたしもそう思う。いまさら危ないことなどなかろう。おまえものんびり湯につかってふやけてはどうだ」  からかうようにいった。 「ここは混んでいるようです。むしろそのほうが安心でしょう。常に人の多いところにいるようにしてください」  それには乗らずに答えた。 「わかった」  入口でわかれ、戸善(とぜん)はもうもうと湯気の立つうす暗い風呂場に入って耳をすませる。自分たちがどう見られているかうわさを探していると、ざわめきのなかで太い声とかすれ声が気を引いた。 「……なあ、あいつらほんとに貴族かい? どうもそうは見えないが」かすれ声が水をはねさせる音をさせながらいう。 「だが、とも思えない。金を出させようともしないし、むしろ払いはいいみたいだぜ」太い声がそれに答えた。 「そりゃ撒き餌だからじゃないか。そうやって油断させてから仕事にかかるつもりかも」  、という言葉には複数の意味があり、その中には忍びの者、諜報員という意味もある。戸善(とぜん)は注意して聞いていたが、どうやらかれらは詐欺師の意味で使っているようだった。ほっと一息つく。 「……じゃああのお嬢様とやらは頭の悪いふりをしてるのか。田や畑仕事のことばかり聞いて、まるで役人だよ」太い声があきれたようにいう。 「ちげえねえ。なあ、ひとつ痛い目に合わせてやるか。にせよ、役人にせよ俺の目の黒いうちはここらででかい顔はさせねえ」かすれ声が威勢のいいことをいった。 「だが連れの兄さんはちょっと厄介そうだぜ」 「できそうなのか」 「目つきがな。油断ならねえ。刀ぶらさげてるし」 「じゃあこっちも兄いのお耳に入れるか」 「よせよ、こんなことでわずらわせちゃならねえ」 「でも、一応は」 「まあ、いいさ。よしとこう」  こういった宿屋街にありがちだが、裏を取り仕切っている顔役でもいるのだろう。ますます目立つのがまずい状況だ。  かすれ声が報告しようとし、太い声が止めることが繰り返され、そのうちにうやむやになり二人は風呂から上がった。後をつけると大部屋泊まりだった。  顔役の正体までは確認できなかったが、推測ではなく、そういう有力者がいるのは確実だと考えてよさそうだった。  穂高(ほだか)国の裏社会について知っているかぎりを思い返した。裏があるのは珍しくはないが、お嬢様に累がおよぶのは避けねばならない。こちらから話をつけたほうがいいだろうか。しかしあの太い声のように止める立場の者がいるのであればしばらく様子を見てもいいか。  いや、こっちは数をたのみにできない。やつらが動きだしてから後手で対応していては間に合わない。ならば消せる火は消しておかなくては。  戸善(とぜん)は湯上りののんびりした風をよそおいつつ、大部屋に上がりこんだ。
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