3章 暴力団組員となる

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3章 暴力団組員となる

22歳の時に初めての刑務所に行く事になった私は,九州にある“佐世保刑務所”に送られました。 ここは,主に九州や中国地方から,犯罪傾向の進んだ26歳以下の,比較的若い人たちばかりが集められた施設で,暴力団組員や,刑務所が2回目,中には3回目という猛者もいる施設でした。 全国的に見ても荒れた施設として有名で,収容者のケンカなどで,毎日のように非常ベルが鳴り響く,悪名轟く刑務所でした。 初めこそ大人しく過ごしていた私は,一度規律違反で“懲罰房”に入れられると,その後は,同じ収容者とのケンカや,職員に暴言を吐くなどして“懲罰房”行きを何度となく繰り返しました。 父と母は3ヶ月に一度,わざわざ広島から面会に来てくれていました。母は面会では毎回のように涙を流し,父も真面目になるよう,優しく諭す,そんな面会を,遠くから来ている両親に感謝もせず,只々苦痛に感じていたのを覚えています。 刑務所という所は本来なら,真面目に生活していれば,刑の満了日より早く出所できる“仮釈放”という制度がありますが,私は反則や規律違反を繰り返し,刑の満了日まで刑務所で過ごす事になります。 3年ぶりの社会に復帰すると,すぐに私は以前から知っていた暴力団組員との縁から,“部屋住み” と呼ばれるヤクザの下積み修行に入ります。 3年間の刑務所生活で私は,反則行為を繰り返し,何の反省もせず,今後の生き方も決めてなかった為,只々真面目にしたくないという安易な思いから,ついには暴力団組員となってしまいました。 私は流されるまま,楽な方へ楽な方へと生きて行きました。 私が所属した暴力団組織は,地元でもとても厳しい下積みで有名な組織の為,散々好き勝手に生きてきた私は,途中,何度もやめて逃げようかと思いました。 しかし,周りの人間は,私がヤクザになったということで,媚びへつらい,繁華街に出ると知らない人まで挨拶してくる様になり,私は少年時代に初めて見た時のヤクザを思い出しました。 『怖いものがなくなった。』 組織の中ではまだまだ下っ端でも一歩街へ出れば誰もが恐れ,逆らわない,私はここでも大きな勘違いをしたまま最大限に“ヤクザ”となった自分に暴力装置を加速させて行きました。 2年ほどで“部屋住み”修行を無事明ける頃には,全身に刺青を入れ,どこからどう見ても“ヤクザ”にしか見えない立派なチンピラになっていました。
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