アパート

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 暗がりの中、もぞりと、足の甲の上を何かが這いずった。  凝視すると、二十センチくらいの細長いものが、身をくねらせ蠢いている。  ケニア人青年、ギタリが逃がしてしまったという変種のムカデだろうか。  死の恐れはないが、毒性の針を持つと言っていたように思う。  はっきりと見えないのが、余計に恐怖を誘う。  押入れの奥で、私は身を屈めて座っていた。  ただでさえ狭い空間の中にベニア板で仕切りをつくり、押入れの戸が開いても簡単に見つからないようにと、無理やり体をねじ込んでいた。  できるだけ物音をたてないように、慎重に足を傾け、ムカデを逃がそうとする。  そのとき、隣りの部屋から男たちの声が聞こえてきた。  先ほどから、ドスのきいた声で私の名前が叫ばれている。  陶器の割れる音や、壁を蹴られる音がする。乱暴に、しかし確実に、ひとつずつ部屋が荒らされている。  声がさらに大きくなり近づいてくる。私の名が罵倒され、猥褻な言葉でなじられている。ずっと、彼らはそのようなことを言い続けていたのだろうか。  ムカデのことはひとまず無視して、私は本格的に息を止め、赤子のように身を縮めた。  悔しさと恐ろしさで、そのときはまだ、両眼から涙を流すことができた。                   *  女を売って貯めた金で、アパートを買った。  両親を知らずに育った私は、家族に憧れていた。しかし同時に、男に扶養されず、独立した女としての自尊心も持っていた。そのはざまで考えついたのが、アパートを経営し、同時にその管理人として、住人の世話をするという思いつきだった。  いま思えば、ばかばかしい陳腐な発想だと思う。しかし若くて世間知らずな私は、そのささやかな夢があったからこそ、夜の商売に身をゆだね、数年間を生き続けることができたのだ。  目標にしていた額が通帳に記帳されたときは、本当にうれしかった。それを頭金にして物件を買い、部屋をリフォームして、月々の家賃で残りのローンも支払うつもりでいた。  しかし現実はそんなにあまくなかった。  住人となったのは、ケニア人留学生のギタリ一人で、彼も家賃を半年間滞納したまま、黙って母国に帰ってしまった。  肌は黒々としているが、まだ幼さの残る青年で、ついつい情にほだされたのがいけなかった。遅くまで研究をしているときは食事をつくってあげるばかりか、若さを慰めたことも一度ならずある。  大学で多足生物の研究していた彼が残していったものは、母国産を品種改良したというグロテスクな虫だけだった。  それから私は、アパートを維持するために借金を重ねた。行き詰まると、昔の知り合いを通じて闇金にまで手を染めた。あとはもう泥沼だった。  いまさら身を売るだけの若さはなかったし、気力もなかった。一度夢を掴みかけた私は、二度と昔の生活に戻るつもりもなかった。  私の家。私の夢。  本当ならば、夜逃げして名前も捨てて生活せねばならぬような状況であったが、私にはこの家をどうしても見捨てることができなかった。  そうして、何を血迷ってしまったのか、押入れの奥に隠し部屋をつくり、取り立て屋たちをやりすごそうとしたのだった。                   *  突然、押入れの戸が開かれ、ベニアの隙間からかすかな光が足先まで届いた。  驚いたムカデは線香花火のようにめまぐるしく動き回った。  私の足首に、尖った爪でつままれたような強い痛みが走った。  歯を食いしばり、私は必死で体を固めた。  少しでも声を出したり、動いて物音をたてるわけにはいかなかった。  実際はほんの二、三秒だっただろうが、私にはその何倍にも感じられた。舌打ちとともに戸が閉められるまで、とても生きた心地がしなかった。  取り立て屋たちが部屋から出ていった。  やっとこの家に私がいないと判断したのか、しばらくして、男たちの声はまったく聞こえなくなり、家の中はしんと静まりかえった。  恐る恐る足首に触れてみる。  ムカデはどこかに去っていたが、足首は分厚い靴下を何枚も重ねて履いたように腫れあがっていた。すぐに病院へ向かいたかったが、まだここを出るのは早すぎるようにも思えた。  夜になるのを待ち、どこかの薬店に行こう。  そのまま暗闇の中で眼を閉じていると、緊張が途切れてきた私は、うとうとと眠りについた。不思議と足の痛みはひいていた。                   *  母は、父を殺して死んだという。養われた叔父夫婦の家でそう聞いた。  母は、借金を残して失職した父を殺して、自分も死んだという。  どうやって殺したかは聞いていないのに、記憶の中の母の両手には、大きな包丁が握られていた。  私は泣いていた。  まだ二歳にもならぬ子供だったから記憶はほとんど残っていない。  父の顔も、母の顔も覚えていない。  ただ、影絵のような薄暗い情景が、こうしてたまに頭の中に思い浮かぶ。  父は、マイホームを買うために多額の借金をしたという。そしてまもなく会社から解雇されてしまったという。返済の目途も立たず、すぐに生活も窮してしまった。  母は、家計のすべてを父に頼りきっていた私の母親は、そんな父を殺して自分も死んだのだという。  私は泣いていた。  あのころ、私は確かに涙を流すことができた。                   *  眠りから覚めて、瞳が闇に慣れてくると、視界に奇妙な光景が映った。  二つの黒い波模様が、私の太股の上を動き回っていた。じゃれあっているようかのように、二匹のムカデが重なり合い、複雑な曲線を描いている。  まるで、異国の言葉で綴られた動く文字のようだった。暗がりで見るそれは、この世に恨みをもって死んだ誰かからのメッセージのようにも思えた。  私は悲鳴をあげた。  押し殺した声だったが、二匹のムカデは急いで私の足首の中へと消えていった。  足首の腫れはひいていた。  代わりにくるぶしの上に小指の先ほどの穴が開いていた。眠りにつく前に刺された場所だ。  その中にムカデたちは隠れていった。  貫通しているわけではなく、小さな穴ぐらは私の体内へと続いている。  痛みはまったくなかった。それどころか、気がついてみると、腰から下の感覚はすべて麻痺していた。叩いてもつねっても、刺激を一切感じることができない。  当然立ち上がることもできず、下半身が粘土にでもなったような気がして、私はしばし呆然とした。  右肩で何か動いているのがわかったので、手で払った。肩と払った手のひらが、鋭い痛みに襲われた。  新たなムカデは、しつこく私の指先に絡みついて離れなかった。  半狂乱になり、大声で叫びながら私は上半身ごと振り回して、ムカデを投げ出した。  腕がベニア板にあたり、暗闇に光が差し込んだ。  隠し部屋の狭い壁が照らされ、何十匹ものムカデの姿が、古代の壁画のように浮かびあがった。  そのあと急激に、私は強烈な眠気に襲われた。目が覚めた直後だったはずだが、とうていこらえきれるようなものではなかった。いま考えてみると、二箇所一度に刺されてしまったから、睡魔も強力だったのだろうと思う。                   *  夢をみた。私は老婆となり、たくさんの子供や孫に囲まれていた。  子供たちはすでに中年の域にさしかかっており、穏やかに笑いかけてくる。小さな孫たちは、飛び跳ねるように私を囲み、歌を唄う。  場所はこのアパートだ。  小高い丘に建ち、小さな庭にはきれいな花々が敷き詰められている。  子供や孫たちの目の中に瞳はなく、ぬっぺりとした白眼だけだったが、そんなことはまったく気にならなかった。  私は幸せだった。  家族がいる。家がある。伴侶を得なくとも、私は幸福を手に入れた。  光り輝く夢の世界で、私は眩しさに目を細め、喜びに涙を流していた。                   *  眠りから目覚めた。  いったい何度目の覚醒だろうか。  この小さな生き物に刺されるたびに、私は意識を失い、不思議な夢をみたり、封印されていた過去を思い出す。  体中に穴があけられた。  数えきれないほどのムカデがその中を這い回っていた。  皮膚はただれ、内臓も弱り、骨格も変形しているのに、私はこうやってものを考え、過去を回想し、生き延びている。  おかしくなって笑おうとしたら、唇の端がかすかに動いた。  私があれほど欲していたものは、いつのまにか手に入ったのかもしれない。  いまや、私が虫たちの棲家(アパート)となっている。                                                       (完)
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