酷いトラウマにならなくて良かった話

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酷いトラウマにならなくて良かった話

 六歳の翔と三歳の縁を連れて実家に帰省した佳代だったが、翌朝目を覚ますと予想外の事態になっていた。 「ばぁば、ごめんなさい……。トイレ行けなかったよ……」 「にぃに、だいじょうぶ?」  かつて自分が使っていた2階の部屋で親子三人が寝るのは余裕が無いだろうと、一階の客間に布団を敷いたのだが、隣の布団に寝ていた翔が起きるなりべそをかいているのを見て、佳代は面食らった。そしてそんな孫に対し、佳代の母である静江が笑顔で言い聞かせる。 「翔君。お天気は良いし、シーツを洗ってお布団は干すから大丈夫だからね」 「どうしたのよ、翔。いつもは夜に一人でトイレに行ってるのに」  とっくにおねしょは卒業していると思っていた佳代が半ば呆れながら尋ねると、翔が八つ当たり気味に言い返してくる。 「だって部屋も廊下も真っ暗で、廊下の灯りのスイッチがどこにあるか分からないよ!」 「それならどうして私を起こさないのよ」 「起こしたけど、ママが全然起きなかったんだよ!! もっと大声をだしたら、縁が起きちゃうし!!」 「佳代……」  母親からの非難めいた眼差しから目を逸らしつつ、佳代は話をまとめにかかった。 「とにかく、済んでしまったことは仕方がないわよ。翔、今夜は寝る前に廊下の照明のスイッチの場所を確認して、トイレに行ってから寝るわよ」 「……そうする」  言い聞かせられた翔は項垂れながら頷き、それから着替えに食事にと動き出した。  その日の夜。入浴して歯磨きも済ませた翔を、佳代はトイレに連れていってから寝かしつけた。 「よし、トイレに行ったし、今夜は大丈夫ね」 「うん、おやすみ」 「おやすみ~」  何事もなく親子三人で寝入ったが、熟睡していた筈の佳代は何かの拍子に意識が浮上した。 「…………」 (うん? 何?)  何かの気配らしきものと声を感じて、佳代は寝たままの半覚醒状態で耳をすませる。 「……ほら、翔君。起きて。トイレに行って、おしっこをするよ」 「……うぅん、ねむいよぅ……」 (ちょっとお母さん……、ちゃんと寝る前にトイレに行かせたのに、どうして夜中に無理矢理起こして連れていくのよ……)  低めの女性の声は母のものに間違いなく、佳代は本気で腹を立てた。しかし眠気には勝てず、文句を言わずに背中を向けて寝たまま隣の布団の様子を窺う。  何分か経過して、人が戻って布団に潜り込む気配を察した佳代は、それで再度意識を手放した。 (もう……、せっかく熟睡してたのに……。起きたら文句を言わなくちゃ……)  再度寝る前にそんな事を思った佳代だったが、一眠りした後はすっかりその事を忘れ去っていた。 「おはよう、お母さん」 「おはよう。支度を手伝って」 「了解」  朝起き出した佳代が着替えてから台所に向かうと、既に静江が朝食の支度を始めていた。それを佳代が手伝い始めると、静江が思い出したように声をかけてくる。 「あ、佳代。あなた夜中に翔君をトイレに連れて行ったでしょう? トイレのドアが開けっ放しだったわ。ちゃんと閉めてね」  そんな予想外の事を言われた佳代は、思わず取り分けている箸の動きを止めて言い返した。 「は? 私、連れて行ってないけど?」 「あら、じゃあ翔君が一人で行ったのね」 「違うって。お母さんがわざわざ、寝ている翔を無理矢理起こして連れて行ったんじゃない。そこまでしなくても良いのに」  深夜の事を思い出した佳代が思わず文句を口にすると、今度は静江がキョトンとした顔つきになる。 「え? どうして私がそんな事をするのよ。第一、私は起きるまで、一階に下りていないわよ?」 「だって見ていないけど、お母さんが翔を起こしている声を聞いたもの」 「声を聞いたのに、どうして見ていないの?」 「部屋が真っ暗だったし、眠くて面倒くさくて目を開けなかったから」 「佳代、本当にあんたって子は……」  大真面目に主張する娘を見て、静江が盛大に溜め息を吐いた。すると台所に、パジャマ姿の翔が片目を擦りながら眠そうに現れる。 「ママ、ばぁば、おはよう……」 「翔、いいところに! 夜中にばぁばに起こされて、トイレに行ったよね?」 「……え? うん。行ったけど?」  勢い込んで佳代に聞かれた翔は、素直に頷いた。するとすかさず静江が尋ねてくる。 「翔君、ママと行ったとか、一人で行ったんじゃないの?」 「ううん、ばぁばに起こされたけど……」  何やら急に自信無さげに答えた翔に、静江が質問を続ける。 「それならその時、私がどんな格好だったか覚えてる?」 「ええと……、白いパジャマ、だったかな? よく覚えていないけど……」 「私、昨日は紺色のパジャマだったし、翔君を起こしていないんだけど」 「………………え?」  困惑顔を見合わせる大人二人の様子を見て、何かを察したのか神妙な表情で口を閉ざす翔。しかし重苦しい沈黙が漂ったのはほんの二十秒程で、この家から至近距離にある母の実家の仏壇に飾られている遺影を思い出した佳代が、あっさりと結論を出した。 「あ、分かった! 伯父さんの家にはもう小さい子供はいないし、お祖母ちゃんがこっちに様子を見に来たんじゃない?」  そこで今現在の実家の家族構成を思い出した静江も、明るい笑顔で相槌を打つ。 「あ、そうね! 佑実ちゃんの子供達は、もう全員中学生以上になっているもの。今お盆だからお母さんとお父さんは帰ってきているわね! こことは徒歩5分の距離だから、足が無ければもっと早くひょいっと来れるわよ!」 「ほら、前の日に翔がおねしょしちゃったから、二日続けておねしょしたら可哀想だと思って、ちょっと出てきてくれたのよ」 「きっと翔君にしわしわの顔を見られたくなくて、ちょっと若作りして私くらいの歳で出てきたのね。年を取ったら益々お母さんに似てきたねって、最近ご近所さんに言われているし」 「しわを消したついでに、脚も生やしちゃったのね。な~んだ、無事解決。泥棒とかじゃなくて良かったわ」 「泥棒だったら、随分面倒見が良い泥棒さんだけどね」 「そんな泥棒、いないって!」 「さて、それじゃあ朝食の準備はできたから、お父さんと真治を呼んできて。一応、現金や通帳を確認しておくから」 「分かったわ。あ、翔。着替えて顔を洗ってきて。あと、縁も起こしてきてね」 「…………分かった」  まるで何事も無かったかのように笑顔で会話を交わす母と祖母に圧倒された風情の翔は、どこかぎこちない表情で頷き、顔を洗うために洗面台へと向かった。  それから朝食の席で先程の夜の怪異の話題が出たが、佳代の父である和俊と弟の真治も「そうか、お義母さんが翔と縁の顔を見に来たか」とか「ばぁちゃん、若作りして出てくるとはお茶目だなぁ」と豪快に笑い飛ばすだけで、全く問題にはならなかった。そんな和やかな朝食の席で、微妙に強張った顔つきで口数少なく食べ進める翔を、隣に座っている縁が不思議そうに見つめていた。 「トイレ行ってくる!」 「何なの、急に大声出して?」  実家から帰った翌日、リビングでゲームをして遊んでいたと思ったら、いきなり大声で宣言してからトイレに向かった翔に、佳代は目を丸くした。慌てて廊下に出た翔を見て、下痢でもしたのかと心配した佳代が後を追う。しかし突き当たりのトイレのドアが全開になっているのを見て、佳代は呆れて翔に注意した。 「ちょっと翔、トイレのドアはちゃんと閉めなさいよ」  そう言いながらドアを閉めようとした佳代を、便座に座ったまま翔が必死の形相で制止する。 「閉めちゃ駄目ーっ! 俺、ちゃんと入ってるんだから!」 「え? まさか翔、あんたトイレが怖いの?」 「怖くないよ! ちゃんと入ってるって知らせてるだけだよ!?」 「……誰に?」  佳代は(何を言ってるの)と呆れたが、ここで縁がとことこと歩み寄り、兄に声をかけながらゆっくりドアを閉める。 「にぃに、ゆかりここにいるから、ドアしめるよ~」 「あ、うん。それなら閉めて良いよ」 「つぎ、ゆかりね~」 「うん、待ってて」 「…………」  まるで何事も無かったかのように平常運転の子供たちを見て、佳代はそれ以上何も言わずにその場を離れた。 「そういえば、翔。学校でトイレにちゃんと行ってるの?」  夏休みが終わってからふと思い出した佳代が夕食時に尋ねると、翔は食べる合間に事も無げに答える。 「うん、学校のトイレは大抵誰かいるし」 「誰もいない時もあるわよね?」 「その時は友達を誘っていく」 「……付き合いの良い友達がいて良かったわね」  佳代は内心で(それはどうなの?)と思ったものの、日常生活に特に支障はないらしいと判断し、会話を終わらせたのだった。
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